まじない

海崎しのぎ

まじない

ある集落に、怠惰で名の知れた女が居た。女の家は果樹農家で、成果物は市に卸したり周辺に配ったり、不出来なものは内々で処理しながら生活をしていたが、女はその殆どを手伝わなかった。

女は植物を育てることができなかった。両親がやるのと同じように水をやり、肥料をやり、ぼさぼさと生えてくる雑草を抜いて害虫を殺し、大事に大事に手間をかけて、気付いた時には植物もろとも死んでいる。何度育てても、何を育てても経過は違えど結果は同じだった。たったの一株すら女の手の内でそう終わるのが必然であるかのように蕾すら付けず朽ちていく。見かねた両親と女自身の意向の一致により、まともに鉢植えの一つでも咲かせられないうちは果樹に近付いてはならない、という取り決めを行ったのはもう随分昔の話である。

そしてその取り決めは家の者以外に知らせなかった。怠惰として謗られるよりも真実を知られる方が女にとって余程避けたい大事であった。

女には両親の他に弟がいた。これが大層出来がよく、一を聞いて十を知り、それを実践できる男だった。忙しい両親が利口な弟を気にかけるのは当然であり、この特性により嫁の貰い手が一向に出ない女はますます孤立し、ますます何もできなくなった。

ある年の初夏の頃、女は隣村にある親戚の家で二年程厄介になることが決まった。農家の家の者でありながらいつまでも悪様に言われている女に危機感を持った両親の苦肉の策であったが、女は快く受け入れて、さっさと荷を纏めて出て行ってしまった。

野菜農家の親戚の家には三人の子供がいた。三人とも家を出て東京で生活をしており、まだ大学生の三男だけが長期休みの度に実家に戻って農業を手伝っていた。

女は最初の数ヶ月間この三男の元で学ぶことになった。

女より幾つか年上の三男は甲斐甲斐しく面倒を見た。女の欠点を早々に理解し、問題点と改善案を都度事細かに示す。男のその態度が女を俄然意欲的にさせた。成功すれば褒められる、怪我をすれば心配される、かつての弟が受けていた、ずっと側から見るだけだった扱いを今度は自分が受けている。女は何か、長い夢を見ている心地だった。夢が覚めてしまわないように、男にこの不出来を絶望されないように、女は必死に勉強した。

勉強は男の手伝いとして雑用をこなす事から始まった。男は逐一自分が何をしているのか、女がやる雑用がどう大事なのかを言語化した。よく見なければ気付けない植物の微細な変化を女に見せ、それを喜びと結びつけた。

晩夏の朝、手始めにと男と共に育てていた一株の花が小さな蕾を付けた。世話の九割を男が担った花であるが、自分が育成に関わった植物の中で初めて、小さくはあるが力強く芽吹いた蕾に女は感激した。その喜びが冷めぬうちに両親へ手紙を書き、蕾の写真も共に入れて送った。家を出て最初に送った便りだった。間もなくして両親から送られた祝いの言葉を、女はずっと覚えている。

夏が終わり、男は大学に戻っていった。次に帰ってくる冬の休みまで、この家の母親に家事を教わりながら男に教わった雑用で父親を支えた。夏の間に多少の知識と経験を積んだ事で、見て学ぶ行為の正確性も上がっていった。男が居なくなり一人で世話をする事になったあの花も、周りの手を借りながらどうにか開花までもっていく事に成功した。蕾の時期の力強さは見る影も無いが、弱々しくも開いた花は女の目に一等愛らしく映った。

冬になり、女は農作業の手伝いを任される日が増えた。半人前にも満たない技量ながら熱意の強さは買われていて、女も期待に応えようと一層身を入れて学び続けた。時期に帰ってくる男に成長した自分を見せて驚いて貰おうと思っていた。あなたに基礎を教わったお陰でこんなに動けるようになったのだと伝えたくて、帰ってくる時を家の誰よりも待っていた。

女の願いが叶ったのは次の年の夏だった。男は冬の初めに酷く体調を崩したらしく、養生とそれに伴って遅れた学業に専念する為に東京で年を越さねばならなかった。

男は帰ってくるなり女と共に働いた。この家に来た当初より勝手を覚えている女に感心しながら、冬の間に何も出来なかった穴を埋めるように新しい事をどんどん女に教えていった。女はその期待に応えるべく以前に増して精力的に働いた。

畑仕事の合間に、最初に男と育てた花を今度は一人で育てていた。花は順調に芽吹き、葉を茂らせて伸びている。昨年よりも元気に蕾をつけそうな勢いに調子づいていたところで、女はまた失敗をした。女はまだ植物の病気のことなど詳しく知らなかった。その病気は早期発見できれば十分に対処できるもので、女は失敗した事よりも悪化するまで発見できなかった事に落胆した。

女の夢は覚めてしまった。

現に戻された女はかつて自身の成長を知ってもらおうと男の帰りを待ったあの日々を恥じた。合わせる顔すら分からない。一日を乗り切って布団に入っては来る次の日を怯えて眠った。この程度で見限る男ではない。信用できないのは、勉強すればもう同じ失敗を繰り返さないと言い切る事の出来ない拙い己自身である。

強い疑念と悔恨の中で働き続けた。同じ失敗は許されない。この家の両親よりも、男よりも、決して自分が許さない。一度弟と同じ扱いを経験してしまった以上、もう能無しとしてただ謗られるだけの生活になど戻れないのである。そして何より、寄せられた期待と信用を、これ以上裏切る事に耐えられなかった。

この夢から覚めるのは今ではない。覚めてしまった夢の続きを見る為に、女は早く眠らなくてはいけなかった。

が、続きを始められないうちに、男は大学へ戻ってしまっていた。男が居なくては夢の続きは見られないのに、女は期待と信用に応える事に懸命になり過ぎた。まともに雑談の一つも出来ぬままいつの間にか男は居なくなり、秋が終わり、木枯しも吹かなくなっていた。年の暮れが直ぐそこに迫っていた。男を迎える準備も始めなくてはいけない頃だった。

機械の整備をしている所に、男が大学から戻ってきた。女は気後れしながら男を迎え、荷の整理を手伝いながら学んだ事を男に話す。この秋、女は植物の罹る病ばかりを一心不乱に学んでいた。両親が気を利かせて日中の畑の雑用を減らしてくれて、勉強の他にやった事といえば機械整備と書類制作と、極力植物に触れないものばかりであった。女は改めて己の臆病さに嫌気がさした。が、女の心持ちに反して男は女を労った。男は素直に感心しているらしかった。言動の節々から女への称賛と期待が滲み出る。

女はやっと夢に戻ってきた。今度こそ、今度こそこの夢から覚めてはならない。

段々と使い物になってきた女は、ずっと男の側に居られるようになった。共に日暮れまで作業をして、夜は反省会と勉強会と、男の大学の話を聞く。酒で饒舌に学問を語る横で煎茶を飲む時間が女は何よりも好きだった。何よりも機嫌よく笑う男を一番近くで見ていられることが嬉しかった。何も出来ないと卑屈になる事もなく、謗りを無抵抗に受ける必要もなく、一人の働き手として認め頼られている。昼夜隣に居ることを許されている。そして何より見捨てず育ててくれた男に、女はいつの間にか淡い恋情を抱いていた。作業中、白い息を吐きながら励ましの言葉をくれる優しさは女の疲れを忘れさせた。成果物を籠に入れて嬉しそうに見せてくる無邪気さは女の向上心を助長した。

年の暮れが近付いてきた、ある大雪の夜、女はいつものように酒を呑む男の隣で話を聞いていた。机上に広がる本や手帳はすっかり専門用語が羅列されるようになっており、その内容を女は理解できるようになっていた。

外は雪が降り積もり、寝静まった集落の輪郭を白く浮かび上がらせている。

「明日は朝から重労働だぞ。」

男はふと窓の外に目をやり、楽しげに呟いて女を窓際へ招いた。

仕事が終わり家に入る頃から降り続いている雪だが今も止む気配は一向に見せない。隣集落の生まれ故にこの寒さが堪える事は無いが、空気の冷たさに襟元を手繰りながら男に近づき、男の導くまま肩に体を預けて外を眺めた。

女は夜の雪をきちんと見るのは初めてである。

女は雪が好きではなかった。何を育てても枯らしてしまう己の不出来を、雪の容赦無く降り積もり時に命すら奪っていく残酷さの中に垣間見てしまう。明るいうちに降る雪も嫌いだったが、それよりも静かに淡々と厳しさを突きつけてくる夜の雪の方が恐ろしかった。女は夜の方が頭が回る。今まで殺してきた植物と、何度繰り返しても失敗し続ける容量の悪さを事細かに思い起こして、それを雪に可視化されることに堪らない恐怖心を掻き立てられ、とても見てなどいられなかった。雪の降る夜はいつもより静かな外の微かな音すら拾わぬように頭から布団をかぶり、感じないはずの寒さに身を震わせながら膝を抱えて眠るのである。意識が落ちる瞬間まで、次こそは、来季こそは、きっと上手く育てられる、と有りもしない何かに希望を訴えながらやっとの思いで眠るのが常だった。

女はまだ男に自信を持って顔向けする事が出来ない。ガラス越しでもはっきりと見える降雪の風景に女は視線のやり場を失い、軽率に男の傍に来た事を後悔した。が、そんな女の胸中を知ってか知らずか男は女の肩を抱き寄せながらここ半年での女の成長を褒めたてる。女は驚いて男を振り返った。男はいつの間にか酒を茶に持ち替えて降り頻る雪を楽しんでいた。

女は窓枠に肘をついて口元に寄せたまま落ち着かせている湯呑にそっと手を伸ばす。何も言わずに指先で軽くつついて湯呑をねだると、男も何も言わずに女に手渡した。案の定茶はすっかり冷め切っている。女はそれを飲み干して、新しい茶の用意をした。

「寒いか。」

女のぎこちない手際を、男は悴んでいるのだと理解したらしい。女がものを言う前に男は自分の羽織を脱いで女の肩に引っ掛けた。

「私も上着を頂いています。あなたが風邪を召してはいけませんわ。」

女が上着を返そうとするのを制止し、男はまた無言のままに茶を急かす。

茶を淹れるのも、この家に来てから男の母親に教わった。これも最近になって漸く形になってきたもので、母親以外に腕前を披露するのは初めてだった。男はいつも飲みたい時に自分でさっさと用意してしまうから、女が茶を用意する機会など無かったのである。教わった手順をなぞりながら慎重に進める。男は女の肩越しに顔を覗かせ、植物を世話するのと同じ顔で急須に向き合う女を見て出来る事が増えたな、などと笑った。

新しく温い茶を貰った男は満足げに窓際に座り直すと、懐に女を呼んだ。女は遠慮がちに身を寄せて、しかし外に目を向けることはなく手にした自分の湯呑を弄んだ。

男は雪が好きらしい。明日は大変だと繰り返しながら顔は雪原を薄着で走り回る子供の顔そのものだった。

女は雪の降った次の日は極力外に出ないようにしている。一面の雪景色が夜のうちに育った自己嫌悪を引き摺らせるのだ。当然そんな状況でまともに雪掻きなどできるはずもなく、いつもの如く戦力外として扱われ家に篭っている事を許容されていた。雪を目にしなくて済むならば女は何を言われても平気だった。しかし明日はそうもいかない。女は必死に男からの褒め言葉を反芻した。

男がおい、と声を出す。女は我に返って顔を上げる。男と目が合った。女は急に気恥ずかしくなって咄嗟に顔を伏せた。男はまた女を呼んだ。そして、窓の向こう、暗がりに飲まれて先の見えない畑の一面真っ白いのを指差した。

「私達がお世話をさせて頂いている畑ですね。」

当たり触りない事を、小さな声で呟いた。

「あれを任されているんだ、凄いことだと思わないか。簡単な花ですら枯らしかけた君が、育てているんだ。」

女は言われて初めて畑の広さを確認した。あの畑を、二人で管理しているのだ。植木鉢の一つも満足に世話しきれなかった、自分が。実家の果樹の敷地さえ立ち入りを許されなかった自分が、この家で労働力として認められている。

「全て、あなた様のお陰ですわ。」

女は男の懐から出て深く頭を下げた。女が短期間で飛躍できたのは紛れもなく男の面倒見の良さの賜物である。

「君も簡単な野菜ならもう一人で世話ができる。実家の果樹もきっと問題なく手伝えるはずだ。」

心臓が逸る。

「真ですか。」

顔を伏せたまま、喜色を悟られぬよう努めて静かに男に問うた。

「俺が今まで、君への評価を偽った事があったか。」

男はけらけらと答えながら女の顔を上げさせる。

女は泣いてしまいそうだった。誰よりも真剣に接してくれた男を、絶望させたくない一心で奮闘してきた。その心が認められたい欲に変わったのは、恋情に燃えるようになったのは、いったいいつからだっただろうか。

熱った視線を重ね合う。どちらとも無く体を寄せ合い、その腕に力一杯掻き抱いた。

生まれて初めて、女は心が満たされた。抱き寄せられる腕の力の強さが、ここで得た価値が確かであると証明してくれた。

居心地の悪かった家に、早く帰って成長を見せたいと思う心がある。予定通り来年の春に帰れる事が喜ばしい。

女は、嘘だ、と思った。否、実家に帰れる事は正しく喜ばしい事である。そこで自分は必要としてもらえると御墨付きまで貰っている。何も恐れず疑わず、胸を張って帰れるのだ。生家に居場所を頂ける。この家で家事も身に付けたのだから嫁の貰い手だってきっと困らない。心配事など何もない。

しかし、喜ばしいだけでもない事も確かだった。

男の背に回していた腕をゆっくり解く。女は顔を上げた。男が女の頬を撫でる。女は男の髪に触れた。応えるように男は女の白く柔らかな頬を包み込み、優しく女の唇に触れた。口吸いと呼ぶにはあまりにお粗末な、大人の真似事に過ぎないそれは、女を酔わせるには十分だった。

窓の向こうに見える景色はどこまでも暗く白く、雪は吹雪に変わっていた。もう夜も深い頃合いであった。

女は簡単に挨拶をし、自室に戻るなり明日に備えて床に着いた。今日ほど穏やかな雪夜の一人寝は初めてである。いつもは煩くて耳を塞いでいた吹雪が窓を揺さぶる音も気にならなかった。

冷え切っている布団に身震いしながら、女は微睡の中で考える。帰れる事は確かに嬉しい。これは揺るぎない事であり、女はここでの夢から覚めて、次の夢へと進むのだ。気持ちに嘘を感じたのは、覚める事への確かな寂しさを無かった事にして喜びだけを味わおうとしたからである。この冬生まれた微かな恋情が胸中ですっかり肥大している事を、この家を離れる日を意識した途端に自覚した。ただ褒められたい、認められたい、良い仕事をした時はその目に己を映して欲しい。今やその程度の飢えではない。あの口吸いの真似事で、女は夢から覚めるのが惜しくなってしまった。男の心を欲してしまった。男には進みたい道がある。女はそれを応援したい。だから自覚した次の瞬間、この恋は叶わない事を理解した。叶えようとも思わなかった。昔から残酷に枯らす事に関してだけは誰も右に出られないと自負している。この恋心も同じように枯らしてしまうつもりであった。長い時間共に働けば錯覚くらいするものである。女の初めての恋心は、嘘ではないが真でもなかった。

しかし口吸いが真にしてしまった。男とこの先もずっと、共に生きていきたいと願ってしまった。叶わないならばせめて、忘れないでいて欲しかった。

心のどこかに存在していて、普段は気に留められなくとも折に触れて思い出して欲しい。そして今日の夜抱き合って眺めた雪景色の冷たさと、交わした口吸いの燃える熱さを懐かしんで欲しい。命が尽きるまで、冷たいまま、熱いまま、鮮明に感じ続けて欲しい。

子供が駄々を捏ねるように布団の中で願望を重ねた。願望は夢を侵食し、女は男と永遠を過ごす約束を交わしたところで目を覚ました。

外は快晴の、美しい銀世界である。

昨夜男が言った通り、この日の作業は除雪から始まった。何処までも真っ白な世界が夢の続きに見えた。機械が雪をかき分けて美しい世界に溝が走ってゆくのが、夢の終わりのように見えた。

女は初めての除雪作業に精を出した。現実に滲むほど強い夢ならば早々に終わらせるべきだと思った。

果たして、夢は終わらなかった。別れの時間が近づく程女は夢に縋って眠りにつき、一夜の儚い永遠の末に虚しく起きた。日中は男の手伝いと称して片時も離れずに仕事をした。少しでも色濃く自分を男の心に残したかった。いつか忘れてしまう日を一秒でも先延ばしにしたかった。

冬が過ぎ、春が過ぎ、とうとう夏に移り変わった。

少しずつ進めていた荷造りは全く終わる気配を見せず、家を出る前日も朝から始めた作業は男に手伝ってもらいながらも夜遅くまで続いていた。作業の間、二人はずっと喋っていた。女の成長を振り返っていたのが、いつの間にか休みを貰って街を歩いた時の思い出まで掘り起こしている。一つの思い出を語り終わるたびに、女も気持ちに諦めをつけた。段々と沈み込んでいく女の様子に気付いた男が、女をそっと抱きしめる。女も男の背に手を回した。思い出をなぞっているようだった。だから、そのままなぞってしまった。これで終わりにする為の区切りをつけたくて女は男の目を覗く。男は答えるように口吸いをした。相変わらず拙い口吸いの後、暫し抱擁を交わして二人は別れて最後の夜を眠った。

女は家の者総出で見送られ、家の者総出で迎えられた。果樹園への立ち入りも許され、女は忙しなく仕事に追われる日々を送っていた。

仕事に慣れて手隙の時間を作れるようになった頃には家に戻ってから一年が経とうとしていた。

女は男に手紙を書いた。便りを出すのは久しぶりで、男の家にいたのを思い出して寂しくなった。修行の為にこの家を出て、初めて便りを出したのは、確か男と共に育てた花が蕾をつけた時だったか。女はふと思い立って一株の薔薇の苗を用意した。写真と手紙を同封して男に送る。成長と共に近況を伝え、定期的に連絡を取り合う口実にするつもりだった。

花は大きな蕾を付けて見事に咲いた。小さいが花弁が多く華やかで、仄かな橙に色付いている。家の者は女らしい綺麗な薔薇だとこぞって褒めた。そして花の便りを受けた男も、我が事のように喜んだ。女は早く次の薔薇を育てたくなった。また綺麗に咲かせて、手紙を出して、写真を見る度に鮮明に自分を感じて欲しい。

女はしかし、写真を送るだけでは物足りなかった。鮮明に感じて欲しいなら風景を切り取っただけの紙では力不足である。あの冬、枯らし損ねた夢が再度熱を持って己の中で膨らんでいる。もはや忘れないで欲しいだけではなかった。そばに居たい。彼の目の留まるところに居たい。写真よりももっとずっと存在感のあるものを贈りたい。

次の花は綺麗に咲いたものを手折り、束ね、黒い滑らかなリボンで纏めあげた。写真の代わりに手紙をつけて男の家に贈ったら、女は言葉にならない高揚感に包まれた。自分と似ていると言われた花が、自分だけで咲かせた花が、男の家に置かれている。きっと毎日見て、その度に思い出すのだ。女はそれを考えただけで嬉しくて堪らなかった。そして次の年はもっと豪華にしようとか、控えめに飾って淑やかさを作ろうとか、そんな事ばかり想像するようになった。

とうとう女にも縁談話がくるようになった。が、女は全て断った。既に女の心は男のもので、他の誰の所にもいけなかった。

縁談を断り続ける中で、女は体も男の元へ置きたくなった。わかっているのに、諦めがつかなかった。

女は長く伸ばした髪を一束切り落として燃やした灰を、水に溶いて薔薇にやった。少量を少しずつ、それを毎日繰り返した。体の一部を吸収して育つ薔薇を見るのは楽しかった。自分の体が徐々に削れて花に変化していく。満開の薔薇は例年通り美しく、それでいて女の目には例年以上に特別に見えた。

薔薇は誰にも違和感を与えぬまま花束となり男の家に飾られた。

男は花束を受け取ると毎回飾った写真と礼状を女に送り返していた。写真は大抵玄関や台所を写していたが、今回の写真に写っていたのは寝台横の机の上だった。いわく、なんとなく近くに置いておくべきだと思ったらしい。

女は体が熱くなった。思いが届いたのだ。男はずっと諦めきれなかった女の体も受け取ってくれた。

女はもっともっと欲張った。髪だけでは足りない。女の体を構成するもっと沢山を男の側に置いておきたい。自分の分身とも呼べるくらい、女を吸って咲いた薔薇を贈りたかった。男が見る度に思い出すように、いっそ一時も忘れないように。

次の年の薔薇には髪に加えて手の爪を与えた。伸ばして切って灰を作り、かき集めて土に撒いた。薔薇は一層美しく咲いた。男は昨年と同じところに飾った写真を送ってきた。

次の年は足の爪も灰にした。この年は農作業中に機械の操作を誤って大きな怪我をした。下の歯が衝撃で一つ抜けてしまったので、これも灰にして花にやった。

だんだんと花が女に置換されていく感覚がした。この薔薇こそが己の本体へと変貌を遂げているのではないか思うようになった。しかしまだただの薔薇である。男に贈るにはもっと自分に置き換えなくてはならない。今年は爪の量を増やして歯も入っているが、未完の物足りなさが拭えなかった。未完ままでは女の想いは叶えられない。呪いのように、全てが女に置き換わった何一つ不備のない完璧な一品が必要だった。

薔薇を花束に加工した後、女はいつも通り来年の花に備えて手入れをしていた。髪も爪も欠かさなかったが、歯は定期的に与えることができず不足分の補充に悩んでいた。

髪を切り、爪を切り、女はふと手を止めた。無心で爪を切っていたせいで指先の皮まで抉ってしまい、赤く滲んでしまっていた。皮膚を僅かに持っていかれた指先を眺める。脈打つ痛みに女は答えを見つけ出した。

翌日、女は髪と爪の灰と、ナイフを持って薔薇の鉢植えの前に立っていた。灰を土に撒いてから中身の入った水差しを手繰り寄せる。大きく口の開いた上部に左手をかざして、薬指の根元をカッターナイフで切りつけた。指を伝って水差しの中に血が落ちる。爪で傷口を抉った。水が赤く染まっていく。痛みを感じている暇すら惜しいと、女は指が痺れるまで血を流し続けた。

傷が塞がる度に女は儀式を繰り返す。次第に傷は塞がりにくく、膿んで皮膚が歪にくっつき痕が残るようになった。女は第一関節と第二関節の間に刃を入れる事にした。まだ張りのある綺麗な皮膚は裂きやすい。が、またすぐに刃が入りにくくなった。

傷口を指先に移した頃、再び綺麗に花が開いた。仄かな橙色は心なしか赤みを増し、血色の良い花束が出来た。完成された花束だった。女はまた髪と同じ黒い色のリボンを掛けて男に贈った。

この頃には以前ほど手紙のやり取りが無くなっていた。花束を贈れば返ってきたが、それきりになっていた。噂では男は結婚したらしい。女もそろそろ縁談を断りづらくなっており、近々見合いも控えていた。漸く育った娘が今度は婚姻を拒むとなれば、それこそ居場所がなくなってしまう。身持ちを固めるための修行で居場所を追われるなど本末転倒にも程がある。そろそろ女は終わりにしなければいけないと思っていた。何度も終わらせようとして失敗してきた恋情を、今度こそ完全に終わらせなければならない。そもそも、最初から叶える気のない恋だった。男の好意に甘えてずるずると続けてしまっていた。女は完成された薔薇を見る。次の年で、終わりにしようと心に決めた。

しかし、女は詰まっていた。長年の恋情を締めくくるに相応わしい特別なものを贈りたいが、もう薔薇自体は完成している。与えられるものは全て与えた。これ以上の特別など、女はどうしても思いつけなかった。

与える要素に変化のないまま時間だけが過ぎていく。薔薇は豊かな蕾をつけて始めていた。

どこそこの男との見合いを経て、共に街を歩き縁談は滞りなく進んでいくこの縁談が纏まるまでに花束を完成させたかったが、とうとう話が纏まり女は男との婚姻が決まった。

女は男の家への嫁入りを控えて荷造りと自室の整理をしていた。今後この部屋はずっと父親と同室だった母親が自室として使うらしく、女がものを片付ける側から母親の私物が増えていった。

すっかり持ち主が入れ替わり、後は女が出ていく日を迎えるだけになったある日、女は母親が衣装棚の一番上の抽斗に小さな箱を仕舞い込んでいるのを見た。

 臍の緒だった。桐の箱に納められたそれは、女が生まれた時に切除され、今日まで大事に保管されていたものだった。

女は母親が部屋を出るのを、荷物を確認するふりをして静かに待った。

母親が部屋を出た後、外へ出ていき戻ってこない事を念入りに確認した。

衣装棚の一番上の抽斗を開ける。桐の箱は装飾品の奥に隠される形で仕舞われていた。音を立てないように慎重に取り出す。蓋を開ける。黒い塵の塊のような緒をそっとハンカチの上に出し、ほんの一欠片だけ取り分けて、元に戻して抽斗の奥に押し込んだ。

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まじない 海崎しのぎ @shinogi0sosaku

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