懐中時計

孵化

第1話

 月光に褪色した砂浜がやけに綺麗だった。思わず息を飲むような美しさを、その海中に孕んでいる。藍に入り乱れる白砂の波の間隙と、縫い絆すように煌めく白月の鈍色が眩しい。思わず細め、逸らした目の先には、夏がある。


 両足を波間に浸けて、白皙の肌が仄明るく緋に明滅する。綺麗だと思った。それは海よりもずっと綺麗で、多分、僕の知る彼女よりもずっと綺麗だった。春の嵐に揺れる桜よりも、冬の白雪を踏み躙る少女らの笑顔よりも、ずっと綺麗だった。

 思わず見惚れる。彼女はそんな僕など知らないように、海の向こうの方へと進んでいく。踝まで浸かっていた海水が、膝丈までを侵食する。歩きにくそうに、されど重い足取りのまま先へと進んでいく。

 月光が彼女を照らす。月明かりに髪が照らされる。夏風が彼女を攫う。

 ここに何をしに来たのか、忘れてしまうところだった。


「……そろそろいいんじゃないか」

 問いかけると、彼女の足取りがぴたりと止んだ。けれど振り返ることはせず、海原を見詰めたままだった。

「満足しただろ。君も、僕も」

 その言葉に、彼女はふっと座り込んだ。軽い波にすら攫われそうな華奢な肩が湖岸のようにひっそりと浮かびあがり、若干濡れた白亜を月光が反射する。「最後に海を見に行こう」と言うから彼女についてきたけれど、彼女はしばらく海を見詰めた後に少しだけ会話をして、結局は海の方へと歩いて行った。

「知ってる? 夜が明けたら、この海は無くなるんだよ」

 不貞腐れたみたいな言い方だった。

「だからってそんな深いところまで行く必要はないだろ」

「それもそうだけど」

 彼女は体育座りの姿勢のまま、首だけを丸めた。海面に顔を付けると、想像以上に冷たかったらしくて、早々に立ち上がる。

「明日の雨でこの辺りは全部沈むの。だから、この海を見れるのは今日が最後なんだよ」

「は?」

 ノアの箱舟とか、そういう世界観の話だと思った。宗教的な。

 ただ、振り返った彼女の表情は真面目そのもので、僕には少し歪に見える。

「もったいないでしょ。行けるところまでいかなくちゃ」

 そういうと、彼女はまた振り返って、さらに深い所へと歩き出した。白いワンピースの裾の部分は既に沈み切り、風に靡くことはない。

 夜が深まるにつれて、彼女の輪郭をとどめておくことが難しくなる。僕は懐から懐中時計を取り出し、丁寧に彼女を照らした。

 しばらく進むと立ち止まり、「ここから先は足がつかないみたい」と残念そうにつぶやくのが聞こえる。

 正直引き返すべきだとは思ったけど、もうそんなことを言う気力はなかった。

 彼女が海を歩く理由なんて明白だった。前に、死ぬなら海がいいといっていたのを思い出す。

 彼女は多分、ここで死んでもいいと思っているのだ。今この瞬間に波にさらわれて、そのまま死んだところで構わないと、おそらく本気で思っている。

「進むの?」

「……もちろん。そのために来たから」

 僕には、彼女の自殺を止めるだけの資格がない。いや、これは自殺などと呼べるものではなかった。多分、海による他殺だ。彼女は海に殺されようとしている。この海がなくなれば、彼女は死に場所を失う。


 彼女は泳げない。泳げない人間が服を着たまま生身で海に入るなど、自殺行為に等しい。事実彼女は死ぬためにここに来た。「最後に海を見たい」といった彼女の「最後」の意味は、言葉通り最期だった。死ぬ前に、海を見たかった。

「なんで海なんだよ」

 正直、さほど彼女に興味はなかったけれど、思わずそんなことを聞いていた。

「……なんとなく。特に意味はない」

 彼女の返事は簡素な物で、会話を続けようとするものは感じられなかった。代わりに、もう全部終わりにするという明確な意思を伝えているみたいで、その証拠に既に僕の方を見ていない。この浅瀬よりも浅い僕らの関係性の中で、自分の事を深く伝える必要なんてないと感じたのかもしれない。そう思っていた方がまだましだった。


 今更になって彼女を知りたいなどというのは傲慢だと思った。彼女は僕を、自分に都合よく動く人形として見ている。僕もまた、彼女を空白を埋めるための道具として見ている。お似合いだった。そこに深いつながりはないし、この状況で彼女を知ろうとするなんて、白痴もいいところだと思う。

 だから、手にしている懐中電灯を海に向かって思い切り投げた。

 先に進もうとした彼女が、驚いたようにこちらを振り返る。

「君がそのつもりなら、君を照らすのは月光だけでいい」

 少し格好つけてそんなことを言った。彼女は笑うだけで、何も言ってくれなかったけれど、僕の虚栄心は満たされた。

 彼女を照らすのは月光だけで言い。人工物に彩られた終わりなんて、彼女にはふさわしくなかった。

「不思議な人だね。光なんてどれも変わらないのに」

 また海の方を向く。風に揺れる後ろ髪が、僕を手招きしているみたいだった。

「運が良ければまた会えるよ。だから、そのつもりでいて」

 彼女はそう言って、海の向こうへと歩いて行った。海は、明日嵐が来るなんて思えないほど、穏やかな波をしていた。

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