吸血

海崎しのぎ

吸血

 一

 

 飼っていた犬が死んだ。それは真っ白な長毛の、小さな犬だった。後ろから見た犬は大変に美しい形をしており、男はやることの無い日はずっとそれを眺めていたのだった。男はこの犬を好いていた。

 犬は正面はてんで駄目だった。何よりも愛嬌がない。長い毛の影に隠れた目は黒く、暗く、いつも何かに困っているように見えた。男は犬というものに詳しくない。犬がその顔で何を考えているかなど男には分からなかった。だが男にとってそんなものはどうでもよく、ただ、犬の後ろ姿の美しいのだけで十分だった。それ程に犬は美しく、だから男はその犬を一等好いていた。

 死んですぐの犬はまだ美しいままだったので、これがやがて腐るのだ、と男はどうにも悲しくなった。美しい状態のまま見えなくなれば犬はその美から切り離されないのではないか、そう思い立って男はさっさと犬を埋めた。すっかり犬が無くなって、男は急に寂しくなった。犬は美しいまま土に埋まったが、もう見ることは出来ない事が無念だった。それから、あの美しさを手放すのがどうしても惜しいと思った。

 犬を諦めきれなかった男は、しかし掘り返すわけにもいかなかったので、犬の埋まった土に花を植えることにした。美しいものが埋まった場所からは美しいものが芽吹く筈である。

 翌日男は早速外に出て、犬の上に咲くのに相応しい花を探した。男は散歩をしたことが無い。故に花屋の場所などまったく検討がつかないまま、適当に家の周りを歩いていた。

 遠くの方で、鈴の鳴る音がした。はて、その音はどこか懐かしく、そのくせ心当たりの全くしないものだったので、男はちょっとの好奇心でがらがらした音を辿った。音は、小さな神社の本坪鈴だった。

 男は家と仕事場の間の道を毎日、毎日、同じ時間に同じペエスで往復する以外に外に出ない人間だったので、この神社にどれくらいの歴があるのか知らないし、誰が座すのかも知らなかった。苔生した石の鳥居のそばに立て札があったが、字が細かいので見なかった。男はふと足元を見た。右のつま先は微かに鳥居を超えている。踏み込んでしまっては仕方がないので、男は何某の神に参ってから帰ることにして、手水舎を探した。見つけて、参る気持ちが冷めて了った。花が浮いていた為である。紫陽花だった。寂れた神社の一角に、美しい、大輪の紫陽花が浮いていた。

 それは見事な紅色だった。

 

 

 二

 

 犬が死んでから二年経った。

 骸の埋まった場所に植えた紫陽花は不手際で幾度となく枯らしてしまい、その度に鉢植えを買い直したのが今では立派な花を付けていた。かつて神社で見たものよりも、花は赤く、紅く咲いた。

 犬の血を吸ったのだ。美しい血を吸った紫陽花は、やっぱり何よりも美しかった。花びらに落ちた雨粒が日光に照る。流血しているようだった。しなった花びらに弾かれた血の粒は今度は葉に落ちて、そうしてまた弾かれて、呆気なく散って了った。勿体無い気がした。

 男は緩慢に紫陽花の前に座っていつものように手入れをした。男にとってこの時間は何ものにも代え難いものであったが、同時に哀感に浸る、苦痛の時間でもあった。どんなに繕おうが、すぐに醜く朽ちるのだ。花はあの犬のように美しく散ることはただの一度もなかったのである。それでも男は毎日手入れをして、一刻でも長く美しさを保とうとした。

 儚さの中にも美は存在するらしい。だが、花が儚く散っていく様に男は美を見出すことは出来なかった。こんなにも皺が寄って茶色く変わって了っているというのに、これの何処が美しいのであろうか。

 男は誰に論ずるでもなく、強いて言えば紫陽花に言って聞かせるかのように、そんな事を考えながら上手く咲けなかった一株を断ち落とした。他と同じく真っ紅に咲く筈だった紫陽花の、咲けずに死んだ一株を鷲掴んで紙袋に放る。弾みで千切れた花びらが指の間をすり抜けて地面に落ちた。血の粒と見紛ったそれは、地面に吸われることなく落ちたままそこに在り続けた。

 やはり、と男は思う。紙袋の中には乱暴に扱われてひしゃげた紫陽花が痛々しげに転がっている。この「紫陽花」はもう朽ちている。しかし「紫陽花」から解離し地に落ちた只の花びらは、血の粒のように吸収されず、紫陽花の死に括られることもなく、ただ赤い美しい花びらとして存在する。やはり、変わらぬものこそ理想的な美しさをもつのではないか。犬は美しかったが死んで見えなくなった。紫陽花はせっかく良い色だったのに咲き切れずに死んだ。

 氾濫しそうな哀感を無理やりいなしてから男は立ち上がった。もう出勤の時間が迫っていたので男は急いで身なりを整えた。

 家を出る前にもう一度紫陽花の前に立つ。形良く咲いた紫陽花を堪能してからその場を離れようとして足を止めた。視界の端に、あの千切れた花びらが映る。しばし迷って、結局捨てずに放置しておいた花びらは風に吹かれて紫陽花の暗がりに潜っていた。

 それは綺麗な赤色だった。

 

 

 三

 

 男は宝石商である。小さな店で、小さな宝石を加工して売っている。傷がついたり、欠けたり、歪んだり、そういう高い値の付かなくなった宝石を買い取って加工するのだ。磨く程に美しく価値のあるものに生まれ直す、その手伝いをするこの仕事が好きだった。

 手を掛けた分だけ輝き続けることが約束されている事に安心感さえ抱いていた。

 もうじき昼になろうかという頃、欠けて散り散りになった石が若い女に連れられて店に来た。元はネツクレスだったらしいその石は、原形も見られないくらいぐちゃぐちゃになった金の台座と共に丁寧にシルクのハンケチに包まれて男の手に渡った。

 石は非常に黒味の強い血赤珊瑚だった。

 「耳飾りに直せますでしょうか。」

 女は眉を顰めて男に問うた。

 男は顔を上げずに応と答え、書面を出してきて女に書かせた。

 その間男はずっと血赤珊瑚を見ていた。

 やがて手続きを終えた女が店を出た。扉の前で立ち止まり、振り返ってお辞儀をした時男は初めて女の顔をちゃんと見た。幼い顔立ちの、けれど品のある良い感じの女であった。

 店に独りきりになってから男は石を作業台に移して観察を始めた。石は細かく砕けているが削ってもある程度の大きさは残る具合の欠片も数粒あった。男は一番大きな欠片から加工を始めた。

 研磨しながら、男は一つ考える。

 この石は、どれほどの美しい魚の血を吸ったのだろうか。

 歪に割れた欠片は綺麗な球体へ変化していく。

 表面を整えながら男はもう一つ考える。

 この石は、どれほどの量の血を吸ったのだろうか。

 血赤珊瑚の生まれる過程で少なくとも魚の血色など僅かも影響しない事を、当然男はよく知っている。だのに、男はそう思った。そうであったら良いと思った。魚の血をたらふく吸った色だと思ったら、赤黒い石が複雑な美しさを帯びた。その石は余韻までもが甘美であったから、男はきっとそうだと思わずにはいられなかった。

 それから十分な時間の中で石はゆっくりと価値を取り戻し、期待通りの品になって若い女の耳を飾った。

 それは艶やかな赤色だった。

 

 

 四

 

 今年の紫陽花も、かつての美しさは見る影もなく萎れて了った。

 死んだ紫陽花を片付けて、次の紫陽花の準備をする。

 犬は死んでそれきりだが、紫陽花は死んでも同じ姿で生まれ変わる。犬の血で、同じように紅く美しく咲くという事実だけが男にとって救いだった。

 だが男は宝石が欲しかった。未来永劫変わらない美しさを持つものが、あの若い女の血赤珊瑚のような宝石が欲しかった。

 犬の美しさを纏って咲いた紫陽花のような、魚の美しさを孕んで育った珊瑚のような、複雑に絡まった美が朽ちない形で欲しかった。

 店の宝石は確かに美しいが、男の理想ではない。あの宝石たちでは足りないのだ。

 枯れた株が全て取り除かれ、大きな緑色の塊が出来上がる頃には男はすっかり疲れていた。本日はここで区切りにしようと落とした株を拾い集めて紙袋へ投げた。

 死骸でも詰めている気分だった。死んだ紫陽花の株だから、死骸で合っているのかもしれない。

 だんだん吐きたくなってきた。

 茂った葉の影から花が一株転がっているのが少し覗いた。断ち落とした最後の株だった。随分奥に落ちた花を探り当てようと伸ばした手は、花より遥かに硬いものを掴んだ。そのまま握って引き出してみるとそれは灰色の石ころであった。男の手のひらで握り込めるくらいの小さな石ころは、割れて了ったのであろうか、鋭利な断面がいくつかあった。

 石ころを側に置いて再び手を伸ばす。濡れた株を掴む頃には男は額にうっすら汗を浮かべていた。

 影から引き出された紫陽花の茎が真っ赤に濡れている。男は驚いて紫陽花を取り落とし、落とされた花は退けておいた石ころの側に転がった。石ころは鋭角の一つが黒くなっていた。

 男はふと痛みを感じて手のひらを見た。男の手のひらは酷く濡れていた。中指の先から痛みの粒がゆっくり滴って地面に落ちた。

 それは鮮やかな赭色だった。

 

 

 五

 

 男の血を被った石ころは様相を変えないまま紫陽花の葉の影に転がっている。

 石ころは決してあの日若い女に連れてこられた血赤珊瑚の色にはならなかった。ただ黒く、ただ無機質なままの石ころに、けれど男は運命的な出会いをした。

 己の指先を破った石ころは、きっと美しくなりたいと願ったに違いない。石ころは紫陽花が犬の血で赤く、美しく咲く様を葉の影から一部始終見ていたのだ。そう思いついたら、男はどうしても石を宝石に変えてやりたくなった。宝石になった石はきっと血赤珊瑚の如き美しさを醸すだろう。男は石ころに己の欲も託すことにした。

 一つ問題があった。

 男の容姿は美しくない。男の体に流れる血では石ころを宝石に変えることは到底不可能であった。

 清潔なハンケチに石を包み鞄の奥に仕舞い込む。誰に見られている訳でもないのに、心拍は不自然に上がって了ったので必死に隠して家を出なければならなかった。

 胸の中が泡立つような心地が余計に身を強張らせた。高揚か、焦燥か、あるいは別の据わりの悪い情か、終ぞ分からぬままいつの間にか大通りまで出てきて了った。

 もう、後に引く気は起こらなかった。

 道なりに通りを歩いていると、後ろから女が一人、男をさっさと追い越した。長く、艶のある黒髪から一瞬見えた右の耳に赤い珠が揺れていた。あァ、とひとつ呻いて男は女の後を追う。

 胸中の泡立ちはたった今恋情に名を変えた。どうしてもあの女が欲しい。あの女でなくては駄目だ。あの女に流れる血を吸えば、石ころはきっと宝石になるのだ。

 そんな情に駆られながら男は必死になって後を追い、女が人通りのない細道に外れたところでようやく声をかけた。

 振り返った女の顔は困惑していた。そして、どちら様でしょう、などと言った。相変わらず上品な人だった。血赤珊瑚が僅かに揺れた。

 「その、珊瑚の耳飾りの。」

 ただそれだけを声にして男は黙った。店以外で人と言葉を交わす機会が無かった男には勝手がわからないまま、勢いだけでここまで来てしまった。

 「あら、まァ、あの時の。お世話になりました。こんなに綺麗に直して頂いて。」

 頭を軽く振って珊瑚を揺らした。幼い顔で女は笑う。

 「有難うございました。私、とても満足していますのよ。」

 女は言い聞かせるようにそう言った。満足など、きっと嘘であった。本当に満ち足りた人間の声の調子ではない事を男は見抜いたが、踏み込んでよいものかまでは見抜けなかった。逡巡してからゆっくりと男は女に問うてみる。

 「何か、不備がおありでしたか。」

 「いいえ。素晴らしい出来ですわ。」 

 「では、何が足りないのでしょう。」

 女が笑顔に陰を纏う。やってしまったと後悔した。

 「足りないわけではないのです。」

 陰に対して存外明るい調子で女はそう言い切ると、長くなりますので、と付け加えて男の手を引き喫茶店へ入った。男は黙ってそれに応じた。

 洒落た喫茶店へ入るのは初めてだったので男は女と同じ珈琲を注文した。

 運ばれて来た珈琲に角砂糖を一つ落として女は語る。

 「こんなに素敵なのに、耳につけると自分では見えなくなってしまいますでしょう。それが少し残念なのです。」

 更に角砂糖を二つ加えた。

 「本当は首飾りにして頂きたかったのですけれど、元のように長い首飾りに出来るほどの大きさの石が手元に石が残らなかったの。首飾りの金具も歪んで、いくつか失せて了いましたわ。」

 「金具とルースと、首飾りだった頃の写真があれば似たものを作ることは出来ます。あの色の血赤珊瑚のルースはとても高価ですが、如何なさいますか。」

 今にも女が泣きそうだったので男は慌ててそう告げた。欠けた宝石の加工ばかりして来た男が高価な値の付いたルースなど加工出来る確証はなかったが、今はこう言うべきだと思った。

 女は壺から三つ目の角砂糖を取り出して珈琲に落とした。

 「この血赤珊瑚でなくては駄目なのです。夫が私に初めて贈ってくださった宝石でしたの。下げると胸のあたりに石が来るので鏡に映さなくてもよく見えたのが好きだったのです。」

 一筋の涙が暮れた日の光を受けながら女の頬を伝った。

 それは仄かな緋色だった。

 

 

 六

 

 交通事故で亭主と首飾りを失ったと話した女はその後珈琲に角砂糖を三つ追加した。

 特に咎めることはしなかったが、砂糖を掴む度に申し訳なさそうな顔をするので男もつられたふりをして自分の珈琲に二つ落とした。深い苦味と微かな酸味に甘みがかかって男の好みではなくなって了った。

 二人の時間は酷く緩やかに流れた。男が珈琲を少しづつ飲み、その間に女がもう一杯珈琲を頼んだ。

 食い物は何も取らずに男女はひたすら話をした。女が悲しみを打ち明け、男がそれに同情する。長い時間の中で男は女の顔立ちが美しいことに惹かれ、女は男の親身になる姿勢に惹かれていった。

 きっかけを作ったのは女だった。

 二杯目の珈琲を飲み干して、女は男をまっすぐ見据える。

 「お話をしながら、私の中で気持ちに整理がつきました。」

 「それは良かった。」

 「貴方は良いひとですわ。」

 企んでいる、と男は思う。だが遮ることはしなかった。

 凛とした調子で女は続ける。

 「貴方は良い方だから、お願いしたいことがありますの。私、夫の後を追います。だから、私が死んだら一番に見つけてくださいまし。」

 「後を、お追いになるのですか。貴女はそれでよろしいのですか。」

 努めて冷静に男は問う。その心情は今にも興奮に荒れそうだった。

 「もう決めて了いましたから、良いのです。私が心配しているのはこの耳飾りなのです。私が死んでから、もし遺品として誰かの手に渡りでもしたら、私は夫の元へ行けませんわ。この耳飾りは今も、死んだ後も、永遠に私だけのものなのに。」

 「遺書をお書きになったら如何ですか。例えば、棺桶に入れて欲しいと書けばその通りにしてくれます。」

 「私を最初に見つけた誰かが遺書と共に耳飾りを持ち去って了ったら。」

 「自室でお眠りになるのでしょう。そのようなことは。」

 「無いとは言い切れませんでしょう。きっと盗りたくなって了いますわ。こんなに綺麗なんですもの。それに、この石は高いのでしょう。」

 男は静かに頷いた。女の持つ血赤珊瑚は珊瑚石の中でも取り分け高価な値が付く色であった。

 「ですから、宝石の営業だとか、理由をつけて私の家を訪ねて頂きたいのです。そして私の死体と遺書を一番に貴方に見つけて頂きたいのです。それから、私の耳飾りは葬儀まで貴方が預かって、私の棺に一番美しい状態で入れて欲しいのです。貴方に、お願いしてもよろしいでしょうか。」

 女は深く頭を下げる。男がしばし間を置いて了承の言葉を返すまで、女はずっとそうやっていた。

 街中で出会い、別れてから四日ほど経った早朝、女から遺書を書き終えたと連絡が入った。女と簡潔なやり取りをして、最後に悔みの言葉を告げて電話を切った。

 あの日、約束を取り付けた後に女はなるべく綺麗に死にたいと言った。首を括るつもりだったが、それでは綺麗に死ぬ事が出来ないらしい、かと言って薬では失敗してしまうかもしれない。だから思い付いたら死ぬのだと、そんなようなことを泣きながら言った。男は「良い人」であるから、女に一つ助言をした。

 箪笥の中からスーツを出してきて袖を通す。普段よりも丁寧にネクタイを締めて、鞄にあの石ころを仕舞う。

 今頃女は高らかに包丁を掲げ、自身の腹を目掛けて振り下ろしているころだろう。

 男は人の死について詳しくない。腹を突いて死ぬのが本当に綺麗に死ぬ方法なのかどうか男は知らない。ただ、首を括るように体液に塗れることもないし、薬を飲むように量を失敗してただ苦しむだけで終わることもない。体に残る傷はたった一箇所の刺し傷のみであるから綺麗な死体になれると言えるのではないかと思っただけだった。それに、刺して死ぬのなら目的が達成しやすくなる。

女が死ぬのは悲しかったが、どちらかというと、こう思う方が強かった。

 家を出て、いつも歩く店への道と反対の方へ歩いていく。女の家に着いた頃には日が随分と高くなっていた。

 女は、生暖かい鉄の匂いの中で、居間の丸い卓に綺麗な身なりで突っ伏していた。手には血濡れた牛刀包丁が握られていて、突っ伏した女の腹の下あたりも血溜まりが出来ていた。

 男はそっと女の首に触れてみる。柔らかくしっとりした白い細首はまだ冷たくなってはいなかったので、一応肩を持って揺さぶった。女は一度だけ浅く息を吐いて、それを最後に動かなくなった。

 女が死んだので男は部屋を一周歩いた。どこかにあるはずの遺書を探したが、引き出しの中にも、座布団の下にも、書類を隠せそうな場所に遺書は無かった。男は女の元へ戻り、腹の下の血溜まりに持ってきた石ころを投げ入れてから居間を出た。

 家の中を歩き回り、書斎だとか自室だとかを一通り改めたが結局遺書は見つからず、どうしようもないので居間に再び戻ってきた。

 伏したままの女の側に膝をつき、御遺書は、と小さく問う。やっぱり返事は無かったので男は石ころを回収して親族に連絡することにしたが、放り投げた石ころが血溜まりと女の影で何処にあるかわからなくなって了った。

 男は冷たくなった女の肩を掴んで後ろに引いた。死人とはいえ女の腹の下を弄る気にはなれなかったから、女を床に寝かせることにしたのである。

 脱力しきっている女の上半身をどうにか卓上から引き摺りおろすと、下から遺書と書かれた白封筒が出てきた。女は遺書に覆いかぶさったまま死んだのだった。

 女を床に寝かせて、遺書の存在を確認した男は手袋を嵌めて石ころを血ごとハンケチで包み、持ってきていたビニール袋にそれを手袋と一緒に纏めて入れて密封した。それをもう一枚のビニール袋で包み、匂いが漏れないようにして鞄の底に隠して、男はようやく親族に連絡を入れた。

 女の両親と兄を名乗る人間が来て、それらと共に遺書を開いた。一枚目には女が自死するに至った理由が詳細に書かれており、二枚目には耳飾りの扱いについて、これも細かく綴られていた。

 男は遺書に従って耳飾りを拝借すると、石ころの入った鞄とは別の、営業用の宝石の入った大きな鞄を開いて丁寧に耳飾りを仕舞った。

 納棺までに綺麗に整えさせて頂きます、と尤もらしいことを言う。耳飾りはどちらもわざわざ磨く必要のないくらい良い状態であった。

 女の家を出て自宅に戻ると、男は疲れて居間で寝て了った。起きる頃にはもう夜だった。

 営業用の鞄を開いて耳飾りを取り出す。若く美しいあの女の顔が思い浮かんだので、弔うつもりで丁寧に磨いて桐の箱に仕舞った。

 それから男は一旦部屋を出て、金槌と叩鑿を持って戻ってくると小さい方の鞄の底からビニール袋を引っ張り出して開封した。本当はもっと吸わせておきたかったのだが、時期を見誤って酸化した血液を吸わせたくはなかったのでもう整えてしまうことにした。

 ハンケチを開いて水に晒すといつの日か男の指先を破った鋭角が見えた。滾る心を無理やり鎮め、慎重に石に手を伸ばす。ここで再び指を傷つけて台無しにしてしまう訳にはいかなかった。

 美しい女の血を浴びて、ようやくこの石はきっと血赤珊瑚になったのだ。

 初めて見たときよりも赤黒くなった石を見て男は再度確信する。

 鑿を当てて、金槌を握った。

 男は多幸感に包まれた。

 高々と金槌を掲げて桂を目掛けて振り下ろす。  

 かァん、と響いて石は二つに割れた。綺麗に別れた断面を覗く 

 それは。

 

 

 

 

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吸血 海崎しのぎ @shinogi0sosaku

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