第十六話:音楽室の二重奏
秋の深まりゆく午後、椿花女学院の音楽室に一人の少女の姿があった。藤原詩織は、窓から差し込む柔らかな陽光に包まれながら、静かにピアノの前に腰かけていた。彼女の長い黒髪は、今日は珍しくゆるやかなウェーブがかかっており、その先端が優雅に肩を覆っている。
詩織は深呼吸をして、そっとピアノの蓋を開けた。白鍵と黒鍵が静かに姿を現し、まるで詩織を誘うかのように光っている。彼女の指先が、おずおずとピアノに触れる。
(久しぶりだわ……)
詩織は目を閉じ、ゆっくりと音楽の世界に沈んでいく。指先が鍵盤を優しく撫で、静かな旋律が音楽室に広がり始めた。
ショパンのノクターン。月夜を思わせる柔らかな音色が、部屋を満たしていく。詩織の表情が、徐々に和らいでいく。普段の凛とした雰囲気から解き放たれ、音楽に身を委ねる彼女の姿は、まるで月光に照らされた白い蘭のようだった。
詩織の演奏に合わせるように、カーテンが秋風にそよぐ。窓の外では、紅葉し始めた椿の葉が、静かに舞い落ちている。時が止まったかのような、幻想的な空間が広がっていた。
そんな中、ふと音楽室のドアが開く音がした。
「詩織ちゃん……?」
陽花の声だった。陽花は驚いた表情で、音楽室に足を踏み入れる。彼女は今日、制服の上着を脱ぎ、白いブラウスだけを身につけている。首元のリボンも少しゆるめてあり、普段よりカジュアルな印象だ。短い茶色の髪が、秋の陽射しを受けてきらきらと輝いている。
詩織はハッとして演奏を止めた。振り向くと、そこには目を輝かせた陽花が立っていた。
「ごめんなさい、邪魔しちゃった?」
陽花が申し訳なさそうに言う。
「い、いえ……大丈夫よ」
詩織は少し慌てた様子で答える。陽花の存在に、彼女の心臓が少し早くなるのを感じた。
「詩織ちゃん、すっごく上手だね。知らなかった」
陽花の素直な感想に、詩織は頬を赤らめる。
「そんなことないわ……ちょっと弾いてみただけ」
「いいな、私も弾けたら……」
陽花の言葉に、詩織はふと思いついた。
「あの、よかったら……一緒に弾きませんか?」
陽花の目が大きく見開かれる。
「え? でも僕、ピアノなんて……」
「大丈夫よ。簡単な曲なら、教えられるわ」
詩織は優しく微笑みながら、陽花の手を取った。その瞬間、二人の指先が軽やかに触れ合った。刹那、何かがふわりと弾けたようなやさしい感覚が二人の心に走った。
詩織は少し体を寄せ、陽花のためにピアノの席を空ける。陽花も、おずおずとピアノの前に座る。二人の肩が触れ合い、互いの体温を感じる。
「じゃあ、私が弾くのを真似してみて」
詩織は、ゆっくりと簡単なメロディーを奏で始めた。「キラキラ星」の旋律が、静かに音楽室に響く。
陽花は、真剣な表情で詩織の指の動きを追う。そして、おそるおそる自分の指を鍵盤に置いた。
「あ……音が出た」
陽花の声が、少し興奮気味だ。
「そう、その調子よ」
詩織は優しく微笑みながら、陽花を励ます。二人の指が、少しずつ同じリズムを刻み始める。
最初はぎこちなかった音が、徐々に調和していく。詩織の澄んだ音色と、陽花の少しぶっきらぼうな音色が、不思議と心地よいハーモニーを奏でていた。
二人は無意識のうちに、互いに寄り添っていた。肩と肩が触れ合い、時折腕が擦れ合う。その度に、小さな温もりが二人の心に広がっていく。
「ね、詩織ちゃん」
陽花が、少し上ずった声で呼びかける。
「何?」
「なんだか、僕たちの気持ちみたいだね」
陽花の言葉に、詩織は驚いて顔を上げた。
「どういう意味?」
「ほら、最初はバラバラだった音が、少しずつ一つになっていくでしょ? 僕たちも、そんな感じがする」
陽花の素直な感想に、詩織は胸が熱くなるのを感じた。
「そう、ね……」
詩織の声が、感動で震えている。
二人の演奏は続く。窓から差し込む夕陽が、二人の姿を優しく包み込む。まるで時間が止まったかのような、幻想的な空間が広がっていた。
やがて、曲が終わる。最後の音が消えた後も、二人はしばらくの間、ピアノに向かったままでいた。
「ね、詩織ちゃん」
陽花が、小さな声で呼びかける。
「何?」
「もう一度、詩織ちゃんの演奏が聴きたいな」
陽花の言葉に、詩織は柔らかく微笑む。
「いいわ」
詩織は深呼吸をして、再びピアノに向かう。今度は、シューベルトのセレナーデを奏で始めた。優しく切ない旋律が、音楽室に満ちていく。
陽花は、詩織の横顔を見つめていた。長い睫毛、凛とした鼻筋、そして柔らかな唇。音楽に没頭する詩織の姿に、陽花は息を呑むほどだった。
(詩織ちゃん、本当に綺麗だな……)
陽花の胸に、温かな感情が広がっていく。
詩織の演奏が終わると、陽花は思わず立ち上がった。そして、後ろから詩織を優しく抱きしめた。
「え? 陽花さん?」
詩織が驚いて声を上げる。
「ごめん、でも……抱きしめたくなっちゃったんだ……」
陽花の声が、詩織の耳元で囁く。その温もりと、陽花特有の爽やかな香りに包まれて、詩織は言葉を失う。
二人はしばらくの間、そのままでいた。窓から差し込む夕陽が、二人の姿を赤く染めていく。まるで二人の気持ちを表すかのように。
やがて、陽花がそっと詩織から離れた。
「ごめん、驚かせちゃった?」
陽花が、少し恥ずかしそうに言う。
「いいえ……」
詩織は、頬を赤らめながら首を横に振る。
「詩織ちゃんの演奏、すっごく素敵だった。心が、ぎゅっとなるような……」
陽花の素直な感想に、詩織の胸が熱くなる。
「ありがとう、陽花さん」
詩織の声が、感動で震えている。
二人は見つめ合う。その瞳には、言葉では表せない想いが溢れていた。
窓の外では、夕焼けに染まった空が、徐々に深い青に変わっていく。音楽室には、二人の気持ちが共鳴するかのような、甘く切ない空気が満ちていた。
この日の思い出は、きっと二人の心に深く刻まれることだろう。音楽という目に見えない糸が、二人の絆をより一層強くしたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます