第六話:秘密の恋

 初秋の風が椿花女学院の校庭を優しく撫でていく。樹齢100年を超える大椿の葉が、かすかに色づき始めていた。その木陰で、詩織と陽花は向かい合って立っていた。


「ねえ、詩織ちゃん」


 陽花の声には、いつもの明るさの中に、少しの緊張が混じっていた。


「なに?」


 詩織は、静かに陽花を見つめる。彼女の長い黒髪が、秋の風にそよいでいた。


「僕たち、付き合ってるよね?」


 陽花の質問に、詩織の頬がわずかに赤く染まる。


「え、ええ……もちろん」


 詩織の声は小さかったが、確かだった。


「でも、学校では……」


 陽花の言葉を、詩織が静かに遮った。


「秘密にしましょう」


 詩織の提案に、陽花は少し驚いた表情を見せる。


「どうして?」


「だって……」


 詩織は言葉を選びながら続けた。


「私たちの関係が……ばれるのはちょっと恥ずかしい……かも……」


 陽花は少し考え込むように目を伏せた。そして、すぐに顔を上げ、明るい笑顔を見せた。


「わかった。じゃあ、秘密の恋人同士だね。そっちの方が素敵かもしれない!」


 陽花の言葉に、詩織は小さく頷いた。二人の間に、新しい約束が生まれた瞬間だった。


 その日から、詩織と陽花の学校生活は、微妙な緊張感に包まれることになった。


 朝の読書の時間。詩織は古典文学の本を開いていたが、その視線は時折、教室の反対側にいる陽花に向けられていた。陽花の短い茶色の髪が、朝日に輝いて見える。


(陽花さん、今日も素敵……)


 詩織は、そんな思いを胸に秘めながら、慌てて本に目を戻した。


 一方、陽花も詩織を見つめていた。詩織の真剣な横顔に、陽花は胸が高鳴るのを感じる。


(詩織ちゃん、カチューシャ似合ってるな……)


 今日の詩織は、薄いピンク色のカチューシャを身につけていた。それは、陽花が以前商店街で何気なく「似合いそう」と言ったものだった。


 授業中、二人は時折視線を交わす。しかし、すぐに目をそらし、何事もないかのように振る舞う。その様子は、まるで幼い恋する少女たちのようだった。


 昼休み、詩織は図書委員会の仕事で図書室にいた。本を整理しながら、彼女は陽花のことを考えていた。


(陽花さんと二人きりになれる時間が欲しいわ……)


 そんな思いに、詩織は自分でも驚いていた。


 突然、図書室のドアが開く音がした。


「こんにちは、詩織」


 入ってきたのは麗子だった。彼女の長いウェーブのかかった黒髪が、優雅に揺れている。


「あ、麗子さん。こんにちは」


 詩織は少し慌てたように応答した。


「どうしたの? 何か悩み事?」


 麗子の鋭い洞察力が、詩織の心の動揺を見抜いたようだった。


「いえ、別に……」


 詩織は言葉を濁す。しかし、麗子の優しい微笑みに、少しずつ心を開いていく。


「詩織は深呼吸をして、言葉を紡ぎ始めた。


「実は……陽花さんのことで」


 その言葉を口にした瞬間、詩織の頬が薄く染まる。麗子は、その微妙な変化を見逃さなかった。


「陽花さんのこと?」


 麗子の声は、優しく促すようだった。詩織は、本棚に並ぶ古典文学の背表紙を指でなぞりながら、ゆっくりと話し始めた。


「私たち、付き合うことになったの」


 その言葉に、麗子の瞳が少し大きくなった。しかし、すぐに穏やかな表情に戻る。


「でも、学校では秘密にすることにしたの。周りに変な影響をかけたくないから……」


 詩織の声は、しだいに小さくなっていった。麗子は、静かに、しかし真剣な眼差しで詩織の言葉に耳を傾けていた。その姿勢が、詩織に安心感を与えているようだった。


「そう、秘密の恋なのね」


 麗子の言葉に、詩織は小さく頷いた。その仕草は、まるで風に揺れる椿の花のようにか細く、しかし凛としていた。


「正直、どうしていいか分からなくて……」


 詩織の声には、迷いと不安が滲んでいた。麗子は、そっと詩織の肩に手を置いた。


「でも、あなたたちの関係は素敵だと思うわ」


 麗子の声は、図書室の静寂を優しく包み込むようだった。


「本当に?」


 詩織の声に、希望の光が差し込んだ。


「ええ。でも、確かに周りへの配慮も大切ね」


 麗子は、賢明な助言者のように続けた。


「学校という場所では、皆と調和を保つことも大切。でも、それはあなたたちの気持ちを否定することじゃないわ」


 詩織は、麗子の言葉を一つ一つ、大切な宝物のように心に刻んでいった。


「どうすればいいのかしら……」


「自然体でいればいいのよ。普段通りに接しながら、でも特別な気持ちは心の中に」


 麗子のアドバイスに、詩織は勇気づけられた気がした。それは、霧の中に差し込む一筋の光のようだった。


「ありがとう、麗子さん」


 詩織の笑顔には、感謝と安堵の色が浮かんでいた。その表情は、まるで曇り空から覗く青空のようだった。


 麗子も優しく微笑み返した。その笑顔は、詩織の心に温かさを伝えた。


「いつでも相談に乗るわ。二人の幸せを、そっと見守らせてね」


 麗子の言葉に、詩織は深く頷いた。図書室の静寂の中で、二人の友情はより深まったように感じられた。窓から差し込む夕陽が、二人の姿を優しく照らしていた。


「ありがとう、麗子さん」


 詩織の笑顔に、麗子も優しく微笑み返した。



 放課後、陽花は陸上部の練習を終え、汗を滴らせながら更衣室に入った。夕暮れの柔らかな光が、小窓から差し込み、室内を優しく照らしている。


 陽花は深く息を吐き出すと、ロッカーを開けた。鏡に映る自分の姿を見て、少し照れくさそうに微笑む。短い茶色の髪が汗で額に張り付き、頬は運動の後の紅潮で桜色に染まっていた。


「ふぅ……今日も充実した良い練習だったな」


 独り言を呟きながら、陽花は制服を取り出す。その動作には、疲れと充実感が混ざっていた。


 ユニフォームを脱ぐと、健康的な小麦色の肌が露わになる。鍛え抜かれた腹筋や腕の筋肉が、かすかに浮き出ているのが分かる。それは、まるで若い彫刻家が丹精込めて作り上げた芸術品のようだった。


 陽花は、ロッカーから取り出したタオルで丁寧に体を拭き始めた。首筋から肩、そして背中へと、しなやかな動きでタオルを滑らせる。その仕草は、まるで優雅な舞のようだ。


 汗を拭き終えると、陽花は制服のブラウスを手に取る。しかし、着る前に少し躊躇するような仕草を見せた。


(詩織ちゃん、まだ図書室にいるかな)


 その思いが、陽花の頬をさらに赤く染める。彼女は、鏡に映る自分の姿を見つめながら、小さく首を振った。


「まったく、こんなに気になっちゃうなんて……」


 陽花は、照れくさそうに微笑みながら、ブラウスを着始める。ボタンを留めながら、彼女の指先がわずかに震えているのが分かる。それは、詩織への想いが溢れ出そうになっているかのようだった。


 スカートを履き、ネクタイを結び終えると、陽花は再び鏡の前に立つ。制服姿の自分を見て、少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。


「よし、これでOK」


 陽花は深呼吸をして、自分を落ち着かせようとする。しかし、胸の高鳴りは収まる気配がない。


 カバンを手に取り、更衣室を出る準備を整える。ドアノブに手をかけたとき、陽花は一瞬立ち止まった。


(詩織ちゃん、まだ図書室にいるかな……会いに行こう)


 その決意と共に、陽花の顔に明るい笑顔が浮かぶ。更衣室を出る彼女の背中には、夕陽が温かな光を投げかけていた。それは、まるで陽花の新しい一歩を祝福しているかのようだった。


 制服に着替えた陽花は、図書室へと向かった。夕暮れ時の廊下は、オレンジ色の光に包まれていた。


 図書室のドアを開けると、そこには一人で本を整理している詩織の姿があった。


「詩織ちゃん」


 陽花の声に、詩織はハッとしたように顔を上げた。


「陽花さん……」


 二人の視線が絡み合う。


「今日の詩織ちゃん、すごく可愛いよ」


 陽花の素直な言葉に、詩織は頬を赤らめた。


「あ、ありがとう。陽花さんこそ、素敵よ」


 詩織の言葉に、今度は陽花が照れくさそうに笑った。


 二人は、図書室の奥へとゆっくりと歩いていく。足音を立てないよう気をつけながら進む二人の姿は、まるで秘密の儀式に向かう巫女のようだった。本棚に囲まれた小さな空間に辿り着くと、二人は向かい合って立った。


 陽花は、詩織の瞳をじっと見つめる。その視線に、詩織は少し戸惑いを感じた。


「ねえ、詩織ちゃん」


 陽花の声が、いつもより少し低く響く。その声音に、詩織は小さく震えた。


「な、なに?」


 詩織の声は、か細く震えていた。彼女の心臓が、早鐘のように鳴り始める。


 陽花は、言葉を探すように一瞬目を伏せた。そして、決意を固めたように顔を上げる。


「キス……してもいい?」


 陽花の言葉に、詩織の瞳が大きく開いた。頬が、まるで夕焼けに染まったかのように赤く染まる。


「え……」


 詩織は言葉を失い、ただ陽花を見つめる。陽花も、自分の大胆な申し出に驚いたように、頬を赤らめていた。


 二人の間に、重く甘い沈黙が流れる。


「ごめん、急に……」


 陽花が謝ろうとした瞬間、詩織がわずかに頷いた。


「ううん、いいよ……」


 その言葉は、ため息のように小さかった。


 陽花は、ゆっくりと詩織に近づく。二人の鼓動が、互いに聞こえそうなほど高鳴っている。


 詩織は、緊張で体が硬直しそうになるのを感じた。しかし、陽花の優しい眼差しに、少しずつ力が抜けていく。


 陽花の顔が、ゆっくりと近づいてくる。詩織は、思わず目を閉じた。


 そして――。


 二人の唇が、そっと重なった。


 それは、ほんの数秒の出来事だった。しかし、その瞬間、二人の世界は輝きに満ちたように感じられた。


 唇が離れた後も、二人はしばらくの間、目を閉じたまま立ち尽くしていた。まるで、今の出来事が夢ではないことを確かめるかのように。


 ゆっくりと目を開けると、二人の視線が絡み合う。


「詩織ちゃん……」


「陽花さん……」


 二人の頬は、まだ熱を帯びていた。唇の感触が、まだ残っているかのように。


 詩織は、自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動が、まだ収まらない。


 陽花も、少し息を切らしているようだった。


「ごめん、ドキドキして……」


 陽花の言葉に、詩織は小さく首を振った。


「私も……すごくドキドキしてる」


 二人は、照れくさそうに微笑み合う。その表情には、初めての経験への戸惑いと、幸せな気持ちが混ざっていた。


 二人はじっと見つめ合う。その時、図書室のドアが開く音がした。


「誰か、いるの?」


 見知らぬ声に、二人は慌てて離れる。


「は、はい。図書委員の藤原です」


 詩織が答える声は、少し震えていた。


 入ってきた生徒に気づかれないよう、陽花は別の本棚の陰に隠れた。


 その生徒が本を借りて去った後、二人は安堵の表情を見せた。


「ごめん、詩織ちゃん。危ないところだった」


 陽花の謝罪に、詩織は小さく首を振った。


「いいの。でも、これからは気をつけないといけないわね」


 二人は、小さく笑い合った。その笑顔には、秘密を共有する喜びと、少しのスリルが混ざっていた。


 図書室を出る時、二人は普段通りの態度を装った。しかし、その心の中には、甘くて切ない思いが溢れていた。


 夕暮れの校庭を歩きながら、詩織と陽花は、これからの日々に思いを馳せる。秘密の恋は、二人の心に新しい色を加えていった。それは、まるで秋の空のように、深く、そして美しい色だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る