第三話:茶室で交わる、秘めた想い

 初夏の陽光が椿花女学院の校庭を優しく包み込む午後、詩織と陽花は上級生・高嶺さくらの誘いによって、茶道部の見学に向かっていた。二人の足取りは軽く、まるで風に乗って歩いているかのようだった。


「ねえ、詩織ちゃん。茶道って難しそうだけど、楽しみだね」


 陽花の声には、いつもの元気さに加えて、少しの緊張感が混ざっていた。


「そうね。私も少し緊張するわ」


 詩織は微笑みながら答えた。その表情は、まるで月光に照らされた水面のように、静かで美しかった。


 二人が茶道部の部室に到着すると、部長であり三年生の高嶺さくらが出迎えてくれた。


「お待ちしていました。詩織さん、陽花さん」


 さくらの立ち振る舞いは、まるで古典の中から抜け出してきたかのように優雅だった。彼女の着物姿は、淡いピンク色の地に桜の花びらが舞う様子が描かれており、その美しさに詩織と陽花は思わず見とれてしまった。


「さ、着替えを用意していますから、こちらへどうぞ」


 さくらの案内で、二人は着付けの部屋へと向かった。そこには、二人分の着物が美しく畳まれて置かれていた。


「わぁ、綺麗……」


 陽花は思わず声を上げた。薄い青色の地に白い椿の花が描かれた着物は、まるで初夏の空を映したかのようだった。


 一方、詩織の着物は深い紫色の地に銀色の月が描かれており、静謐な夜空を思わせる美しさだった。


「じゃあ、着付けを手伝いますね」


 さくらの助けを借りながら、二人は着物に袖を通していく。まず、白いさらし木綿の長襦袢を身につける。その清らかな白さが、二人の若々しい肌に映える。


「では、まず詩織さんから」


 さくらの静かな声に導かれ、詩織が一歩前に出る。陽花は、その姿を見守りながら、自分の番を待つ。


 さくらは慣れた手つきで、詩織の着物を広げる。深い紫色の生地が、まるで夜空のように部屋に広がる。


「腕を通してくださいね」


 さくらの指示に従い、詩織が優雅に腕を伸ばす。その仕草は、まるで舞を披露するかのように美しい。


「陽花さん、こちらを持っていただけますか?」


 さくらが陽花に着物の端を持つよう指示する。陽花が恐る恐る手を伸ばすと、詩織の手と重なった。


「あ……」


 二人の指先が触れ合う。その瞬間、微かな電流が走ったかのような感覚が二人を包む。詩織の心臓が高鳴り始める。


 陽花も、その接触に息を呑む。彼女の頬に、かすかな紅潮が広がる。


(詩織ちゃんの指、柔らかいな……)


 陽花はそっと詩織の手を見つめる。長く繊細な指が、着物の生地を優しく包み込んでいる。


 さくらは、二人の反応に気づきながらも、さりげなく着付けを進める。


「では、おはしょりを整えますね」


 さくらの手が腰元に伸びる。詩織の細い腰に着物が美しく巻きつけられていく。


「陽花さん、こちらを少し引っ張っていただけますか?」


 再び、二人の手が重なる。今度は、お互いの呼吸が聞こえそうなほど近づく。詩織の鼻腔をかすかに甘い香りが満たす。


(陽花さんの香り……素敵)


 詩織は、その香りに心を奪われそうになる。


 着付けが進むにつれ、二人の指先は何度も触れ合う。帯を結ぶ時、襟元を整える時、そして最後の仕上げの時。その度に、二人の心臓は少しずつ高鳴りを増していく。


 やがて、詩織の着付けが完了する。鏡に映る姿は、まるで月光に包まれた優雅な姫のよう。


「とても素敵です、詩織さん」


 さくらの言葉に、詩織は恥ずかしそうに頬を染める。


「ありがとうございます」


 そして、陽花の番となる。今度は詩織が、さくらを手伝う立場となる。


 陽花の着物は、薄い青色の地に白い椿の花が舞う様子が描かれていた。その爽やかな色彩が、陽花の明るい性格をよく表している。


「腕を通してください、陽花さん」


 詩織の声が、やや緊張気味に響く。陽花が腕を伸ばすと、詩織の指が優しく袖口に触れる。


「あ……」


 今度は陽花の番だ。詩織の指の感触に、彼女の心臓が大きく跳ねる。


(詩織ちゃんの指、冷たいけど気持ちいい触り心地……)


 陽花は、その感触を心に刻み込むように、じっと目を閉じる。


 着付けが進むにつれ、二人の動きはより自然になっていく。しかし、指先が触れ合うたびに、二人の心臓は小さく、しかし確実に反応を示す。


 最後に帯を結ぶ時、詩織の手が陽花の腰に回る。その瞬間、二人の呼吸が一瞬止まったかのようだった。


「大丈夫? きつくない?」


 詩織の囁きが、陽花の耳元で優しく響く。


「う、うん。大丈夫」


 陽花の返事は、いつもより少し高い声だった。


 着付けが完了し、二人は並んで鏡の前に立つ。そこには、まるで別世界から来たかのような、美しい二人の姿があった。


 二人は互いの姿を見つめ、そっと微笑み合う。その瞬間、心臓の高鳴りが最高潮に達した。


 さくらは、そんな二人の様子を見守りながら、静かに微笑んだ。


(麗子から聞いてはいたけど、想像以上に素敵な二人ね。これから二人の間でどんな物語が紡がれていくのかしら……楽しみだわ……)


 着付けの間中、二人の心臓は小さなドラマを演じていた。それは、まだ言葉にならない、しかし確実に芽生え始めた感情の証だった。


 着付けが終わり、鏡の前に立った二人の姿は、まるで別世界から来た存在のようだった。


「詩織ちゃん、すっごく似合ってる! まるでお姫様みたい」


 陽花の素直な感想に、詩織は頬を赤らめた。


「あ、ありがとう。陽花さんこそ、とても素敵よ」

「ぼ、僕はあれだよ、馬子にも衣装ってやつだよ」


 詩織の言葉に、今度は陽花が照れくさそうに微笑んだ。


「さあ、では茶室へ案内しましょう」


 さくらに導かれ、二人は日本庭園へと足を踏み入れた。石畳の小道を歩いていくと、美しい茶室「月下亭」が姿を現した。


「ここで、お二人に茶道の基本を教えさせていただきます」


 さくらの説明を聞きながら、詩織と陽花は緊張しつつも、茶道の世界に足を踏み入れていった。お辞儀の仕方、茶碗の持ち方、そして和菓子の頂き方。全てが新鮮で、二人の心を静かに揺さぶっていく。


 茶道の基本を学んだ後、さくらは二人に向かって言った。


「少し休憩しましょう。私はお茶の用意をしてきますので、お二人はここでゆっくりしていてください」


 そう言って、さくらは月下亭を後にした。残された詩織と陽花は、突然の二人きりの状況に、少し戸惑いを感じた。


「ねえ、詩織ちゃん」


 陽花が、少し緊張した様子で詩織に話しかける。


「なに?」


「僕ね、実は和菓子作りが好きなんだ」


 その告白に、詩織は少し驚いた表情を見せる。


「えっ、本当? 意外だわ」


「うん。お母さんに教えてもらったんだ。でも、あんまり人には言わないんだよね」


 陽花の声には、少しの照れと、そして信頼が込められていた。


「それは素敵ね。いつか、陽花さんの作った和菓子を食べてみたいわ」


 詩織の言葉に、陽花の顔が明るく輝いた。


「本当? じゃあ、今度作ってくるね!」


 二人の会話は、まるで小川のせせらぎのように自然に流れていく。着物姿の二人は、月下亭の中で、まるで時が止まったかのような静寂の中にいた。


 そんな二人の様子を、庭の木々の陰から見守る目があった。それは麗子だった。


(あら、あの二人、随分と親密になってきたわね)


 麗子は、微笑みを浮かべながら二人を観察していた。

 その瞳には、何か企んでいるような光が宿っていた。


 さくらの案内で、三人は再び茶道の世界に没頭していく。月下亭の中は、静寂に包まれ、時間がゆっくりと流れているかのようだった。


「では、お茶を点てさせていただきます」


 さくらの柔らかな声が、静かな空間に響く。彼女の所作は、まるで水面に映る月のように、優雅で美しかった。


 詩織と陽花は、正座をして静かにさくらの動きを見守る。二人の着物姿は、まるで絵巻物から抜け出してきたかのようだ。


 さくらは丁寧に茶筅を湯で濡らし、抹茶を入れた茶碗に注ぐ。その瞬間、爽やかな抹茶の香りが部屋中に広がる。


(いい香り……)


 陽花は思わず目を閉じ、その香りを深く吸い込んだ。隣では詩織も、その香りに魅了されたように、微かに頬を緩めている。


 さくらの手が優雅に動き、茶筅で抹茶を点てていく。その音は、まるで小川のせせらぎのように心地よく、三人の耳に響く。


「お茶が用意できました。どうぞ」


 さくらが詩織に茶碗を差し出す。詩織は丁寧にお辞儀をし、両手で茶碗を受け取る。


「いただきます」


 詩織の声は、かすかに緊張を含んでいた。彼女は茶碗を両手で持ち、ゆっくりと回して正面を自分の方に向ける。その仕草は、まるで舞を披露するかのように美しい。


 陽花は、詩織の優雅な動きに見とれていた。


(詩織ちゃん、本当に美しい……)


 詩織がゆっくりとお茶を飲み、茶碗を元の位置に戻す。その一連の動作に、陽花は息を呑むほどだった。


「陽花さん、あなたの番ですよ」


 さくらの声に、陽花ははっとして我に返る。


「は、はい!」


 陽花も詩織と同じように茶碗を受け取る。しかし、彼女の手は少し震えていた。


(落ち着いて、落ち着いて……)


 陽花は心の中で自分に言い聞かせる。彼女は詩織の動きを思い出しながら、丁寧に茶碗を回す。その時、詩織の優しい視線を感じ、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。


 お茶を一口飲んだ瞬間、陽花の目が大きく開いた。


「わぁ、美味しい!」


 思わず声が出てしまい、陽花は慌てて口を押さえた。しかし、その素直な反応に、詩織とさくらは柔らかく微笑んだ。


「和菓子もどうぞ」


 さくらが、美しい青磁の小皿に乗せた和菓子を二人に差し出す。それは、淡い青色の露のような形をした練り切り。その中央には、小さな白い椿の花が描かれていた。


「なんて美しい和菓子なんでしょう」


 詩織が感嘆の声を上げる。


「本当だね。食べるのがもったいないくらい」


 陽花も同意する。


 二人は丁寧に和菓子を口に運ぶ。その瞬間、優しい甘みが口いっぱいに広がる。


「美味しい……」


 詩織の声が、幸せそうに響く。


「うん、本当に美味しい!」


 陽花も満面の笑みを浮かべる。


 和菓子を味わった後、三人は静かに語り合い始めた。さくらが茶道の歴史や作法について話すと、詩織と陽花は熱心に耳を傾ける。


「茶道には、『一期一会』という言葉がありますね」


 さくらの言葉に、二人は顔を上げる。


「それは、この瞬間を大切にし、二度と訪れない出会いを心に刻むという意味です」


 その言葉を聞いて、詩織と陽花は思わず目が合った。二人の間に、言葉にならない何かが流れる。


(この瞬間、この出会い……)


 二人の心の中で、同じ思いが芽生えていた。


 茶会が進むにつれ、詩織と陽花の緊張は徐々にほぐれていった。二人の会話は、まるで小川のせせらぎのように自然に流れ始める。


 さくらは、そんな二人の様子を優しく見守っていた。彼女の目には、何か意味深な光が宿っているようだった。


 外では、夕暮れの光が木々の間から差し込み、月下亭の中を柔らかく照らしていた。その光の中で、詩織と陽花の姿は、まるで古の物語の一場面のように美しく輝いていた。


 時間が過ぎるのも忘れ、三人は茶道の世界に浸っていく。その時間は、まるで夢の中にいるかのように穏やかで美しかった。二人の心の中では、新しい感情の種が、静かに、しかし確実に芽吹き始めていたのだった。


 茶会が終わり、着物を脱ぐ時間がやってきた。


「陽花さん、帯を解くの手伝おうか?」


 詩織が優しく声をかける。


「あ、ありがとう。お願いします」


 陽花の背中に回った詩織の指が、そっと帯に触れる。その瞬間、二人の間に小さな電流が走ったような気がした。


 着替えを終えた二人は、夕暮れの校庭を歩いていた。夏の夕陽が、二人の姿を優しく照らしている。


「ねえ、詩織ちゃん」


 陽花が、少し思い詰めたような表情で詩織を見つめる。


「なに?」


「僕が『僕』って言う理由、知りたい?」


 その問いかけに、詩織は少し驚いた様子を見せる。


「え? ええ、聞かせてほしいわ」


 陽花は深呼吸をして、話し始めた。


「僕ね、小さい頃からちょっと変わってたんだ。女の子らしくするのが苦手で……。でも、『僕』って言い始めたら、なんだか自分らしくいられる気がしたんだ」


 陽花の言?に、詩織は静かに耳を傾けた。


「そうだったの……」


「うん。でも、みんなには変に思われてるかもしれない」


 陽花の声には、少しの不安が混じっていた。


「私は、陽花さんの『僕』が好きよ」


 詩織の言葉に、陽花は驚いて顔を上げた。


「え?」


「だって、それが陽花さんらしいもの。自分らしくいることって、素敵だと思う」


 詩織の言葉に、陽花の目に涙が光った。


「詩織ちゃん……ありがとう」


 二人は微笑み合い、そして一緒に帰路についた。夕暮れの空には、まだ見えない月が昇り始めていた。


 その様子を少し離れたところから見守っていた麗子は、満足げに頷いた。


(あの二人、少しずつ近づいているわね。でも、まだまだ道のりは長そう……まあ、それが楽しいから良いのですけど)


 麗子は、これからの展開を楽しみにしながら、自分の家路についた。


 夜の帳が降りてきた椿花女学院。月下亭には、今日の出来事の余韻が静かに残っていた。そして、詩織と陽花の心の中では、新しい感情の芽が、月の光を浴びてゆっくりと育ち始めていた。

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