第二話:揺れる心、触れる指先

 朝もやに包まれた椿花女学院の校庭に、さわやかな風が吹き抜けていった。体育の時間、生徒たちは輪になって準備運動をしている。その中に、いつもは優雅な佇まいの詩織の姿があった。


 詩織は深呼吸をして、自分を落ち着かせようとしていた。体育は得意科目とは言えず、いつも少し緊張してしまう。彼女の長い黒髪は、今日は珍しくポニーテールに結ばれている。額に垂れかかる前髪が、少し不安そうな表情を隠すように揺れていた。


(大丈夫、落ち着いて……)


 詩織が自分に言い聞かせるように呟いたその時、元気な声が彼女の耳に飛び込んできた。


「よっ! 詩織ちゃん、今日も可愛いね!」


 振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた陽花が立っていた。陽花の短い茶色の髪は、朝の光を受けてきらきらと輝いている。その眼差しには、いつもの明るさとともに、何か特別な輝きが宿っているように見えた。


「あ、おはよう、陽花さん」

「うん、おはよう!」


 陽花の笑顔は、まるで朝日のように詩織の心を温めた。


「えっと、その……今日の体育、頑張りましょうね」


 詩織は少し恥ずかしそうに言った。その仕草が、陽花の目には春の花びらが風に揺れるように見えた。


「うん! 僕、詩織ちゃんのこと全力でサポートするからね!」


 陽花は元気よく親指を立てた。その仕草に、詩織は思わず微笑んでしまう。



 体育の授業が始まり、今日の種目はバレーボール。先生がペアを組むよう指示を出す。


「じゃあ、みんな二人組になってください。今日は基本的なパスの練習をします」


 クラスメイトたちが慌ただしくペアを探し始める中、詩織はどうしようかと迷っていた。そんな彼女の元に、風のように陽花が駆け寄ってきた。


「ね、詩織ちゃん。僕とペア組まない?」


 陽花の目は、期待に満ちて輝いていた。その瞳に吸い込まれそうになりながら、詩織はゆっくりと頷いた。


「はい、お願いします」


 二人は向かい合って立った。陽花はボールを手に取り、優しく詩織に投げた。


「準備はいい? ゆっくり投げるからね」


 詩織は少し緊張した様子で頷く。陽花のやさしい声に、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。


 ボールが詩織の方へゆっくりと飛んでくる。詩織は必死に集中して、両手を前に出した。しかし、ボールは彼女の指先をすり抜けて床に落ちてしまう。


「あ……ごめんなさい」


 詩織は申し訳なさそうに呟いた。その様子が、まるで雨に打たれた子猫のように見えた。


「大丈夫だよ! みんな最初は上手くいかないものさ。もう一回やってみよう」


 陽花は優しく微笑みながら、詩織を励ました。その笑顔に、詩織は少し勇気をもらえた気がした。


 何度か練習を重ねるうちに、詩織のパスも少しずつ安定してきた。しかし、まだ完璧とは言えない。


「うーん、もう少しだけコツがあるんだよね」


 陽花は考え込むように言った。そして、突然思いついたように詩織に近づいた。


「ねえ、詩織ちゃん。ちょっと僕の後ろに立ってみて」


 詩織は少し戸惑いながらも、言われた通りに陽花の後ろに立った。


「よし、じゃあ……こうやって」


 陽花は後ろから詩織の両手を優しく包み込むように持った。二人の体が密着する。


「あ……」


 詩織は思わず小さな声を上げた。陽花の体温が、背中から伝わってくる。甘い香りが鼻をくすぐる。


(これは……陽花さんの香り?)


 詩織の心臓が、まるで小鳥のように激しく羽ばたき始めた。


「こうやって、手首をしっかり使うんだ。そうすると、ボールにいい回転がかかるよ」


 陽花の声が、詩織の耳元で優しく響く。その声が、詩織の全身に電流のように走った。


「は、はい……」


 詩織は頬を赤らめながら、陽花の指示に従った。二人の指が絡み合い、ゆっくりとボールを押し出す。


 その瞬間、詩織は不思議な感覚に包まれた。まるで、陽花と自分が一つになったような……。


(この感覚、なんだろう……)


 詩織の心の中で、小さな花が咲き始めたような気がした。


 一方、陽花も詩織との接触に、胸の高鳴りを感じていた。


(詩織ちゃんの髪、いい匂いがする……)


 陽花は思わず、詩織の髪の香りを深く吸い込んでいた。ラベンダーの優しい香りが、陽花の心を癒すように包み込む。


「どう? 少しコツがつかめた?」


 陽花が優しく尋ねる。その声に、詩織はハッとして我に返った。


「は、はい。ありがとうございます」


 詩織は少し慌てて陽花から離れた。しかし、その体の温もりは、まだ詩織の背中に残っているようだった。


 二人の様子を、少し離れたところから見守る目があった。麗子だ。彼女は微笑みながら、二人の成長を見守っていた。


(あら、あの二人、随分と仲良くなってきたみたいね)


 麗子は、さりげなく二人に近づいた。


「詩織、陽花。調子はどう?」


「あ、麗子さん」

「れいちゃん!」


 二人は同時に振り返る。その表情には、まだ先ほどの余韻が残っているようだった。


「うん、なかなか上達してきたみたいね」


 麗子は優しく微笑んだ。その笑顔の中に、何か意味深なものが隠されているようにも見えた。


「そ、そうですか? まだまだですけど……」


 詩織は少し照れくさそうに言った。その仕草が、陽花の目には愛らしく映った。


「いやいや、詩織ちゃん、すごく上手くなってるよ! ね、れいちゃん?」


 陽花は素直に詩織を褒めた。その様子が、まるで自分のことのように嬉しそうだった。


「ええ、そうね。二人で協力すれば、きっともっと上手くなれるわ」


 麗子の言葉に、詩織と陽花は顔を見合わせた。

 そして、二人とも少し照れくさそうに微笑んだ。


 授業が終わり、生徒たちが更衣室に向かう。詩織は、いつもより少し高揚した気分を感じていた。


(陽花さんのおかげで、少し自信がついたかも……)


 詩織がそう思っていると、後ろから陽花の声が聞こえてきた。


「ねえ、詩織ちゃん」


 振り返ると、陽花が少し恥ずかしそうな表情で立っていた。


「なにかしら?」


「えっと、もし良かったら……放課後、もう少し練習しない? 僕、詩織ちゃんにもっと教えたいなって」


 陽花の提案に、詩織は少し驚いた。しかし、その心の中には嬉しさも広がっていた。


「ええ、お願いします」


 詩織の返事に、陽花の顔がパッと明るくなる。


「やった! じゃあ、放課後体育館で待ってるね」


 陽花は嬉しそうに言って、更衣室に駆け込んでいった。その後ろ姿を見送りながら、詩織の胸の中で小さな期待が膨らみ始めていた。


(放課後の練習……楽しみ……)


 詩織は、そっと微笑んだ。その表情は、まるで春の陽だまりのように柔らかく、暖かかった。


 更衣室では、クラスメイトたちの間で陽花の話題になっていた。


「ねえねえ、陽花って『僕』って言うよね」

「うん、かっこいいよね!」

「でも、なんで『僕』なんだろう?」


 そんな会話が、詩織の耳に入ってきた。確かに、女の子で「僕」と言う人は珍しい。でも、陽花が「僕」と言うのは、何だかとても自然に感じられた。


(陽花さんの『僕』……私は素敵だと思う)


 詩織はそっと心の中でつぶやいた。


 一方、陽花は自分の『僕』が話題になっていることに、少し複雑な思いを抱いていた。


(みんな、気になってるのかな……「僕」にとっては普通のことなんだけどな……)


 陽花は、自分の制服を着替えながら考え込んでいた。その瞳には、少しの不安と、でも同時に強い意志が宿っていた。


 更衣室を出ると、麗子が二人を待っていた。


「お疲れ様、二人とも。とてもいい感じだったわ」


 麗子の言葉に、詩織と陽花は少し照れくさそうに微笑んだ。


「ありがとうございます」

「えへへ、褒められちゃった」


 二人の反応に、麗子はくすりと笑った。


「さあ、次の授業に行きましょう。二人とも、これからも頑張ってね」


 麗子の言葉は、単なる励ましを超えた何かを含んでいるように感じられた。詩織と陽花は、互いに顔を見合わせて頷いた。


 三人が教室に向かう廊下には、朝日が差し込んでいた。その光は、まるで三人の未来を照らすかのように明るく輝いていた。詩織と陽花の心の中では、まだ体育の時間の余韻が残っていた。そして、放課後の練習への期待が、小さな蕾のように膨らみ始めていた。


 これからの時間が、二人にとってどんな意味を持つのか。それは誰にも分からない。ただ、確かなのは、二人の心が、少しずつ、でも確実に近づいているということ。その変化は、春の訪れを告げる椿の花のように、静かに、そして美しく進んでいくのだろう。

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