番目

海崎しのぎ

番目

 「落ちますかね。」

 煙草を咥えたまま柔く呟やく。

 「落ちますよ、きっと。」

 隣でがりがりと細い男が薄ら笑いなが答えた。骸骨みたいに眼孔の窪みをありありと感じる、笑い声に奥歯の打ち鳴りが混じる死人の様な男だった。

 あ。と、口から煙草を取りこぼした、軌道が女の落下に重なった。

 「落ちましたね。」

 男はいそいそと崖下に向かう。岩場の急斜面を自分より幾分も老いた男が軽々と下る背中に居心地の悪さを抱き込みながら、時々足を滑らせつつ後に続いた。

 雲がちの夜空の、霞みの合間に三日月が覗く。冷たい風が嫌に重い、息苦しい雨上がりの夜だった。

 「何もこんな日に落ちなくても。」

 風に吹き飛ばすつもりで溢した言葉を、男の耳はよく拾ったらしい。

 「雨が降ると気分も落ちますからねェ。一緒に落ちようとでも思ったんでしょう。そんなもんですよ、人が死ぬ時なんて。」

 聞き流しながら、私は必死に道順を頭に叩き込む。細い獣道を下り、苔むした地蔵の倒れる所で右に伸びる岩がちの道に移って更に下る。

 いずれ一人で行く道である。今はまだ二回目とはいえ、かなり時給が弾んでいるのだから相応の働きはせねばならなかった。

 周りの景色と男の背中、その足が踏み締める位置を懸命に、気付いたら開けた場所に出ていた。結局、次もまだ男に導いてもらう事になりそうだ。

 鼻をつく泥と水と腐った匂いに顔を顰めた、私の横顔を男は面白げに揶揄った。

 「ここ、きついですよねェ。中入って鼻が慣れちゃえば平気なんですけど。私もここばっかりはいつ来ても身構えてしまいます。」

 奥歯が鳴る。死人より死人らしい。

 詳細の伏せられたアルバイトに、時給の良さだけで飛び付いたあの日の選択を二回目にして早速後悔してしまいそうになって、私は必死に頭を振った。

 男は更に下流、水が一度滞留して沼地然とした場所に躊躇いもなく入っていく。慌てて私も後に続いた。男は沼の奥の奥へと進んでいく。私は、けれど、川の流れを見て、見えない沼底を見て、足をもごもごと動かして、沼地の入り口辺りに見当を付けて手を突っ込んだ。

 背を屈めて水中を探る。

 細い糸が絡み付いた。

 辿って、根本を引っ掴む。

 緩やかに動く水の流れに抗って引き抜いた。

 頭部が見えた。目の閉じた、ほんのり蒼白い顔。薄い紫色の唇から覗く前歯が欠けている。

 「あの。」

 人形のようだ。蝋の肌の。

 「ちょっと、あんた。」

 男が私の腕を鷲掴んだ。水の中で重心が揺らぎ、私はバランスを崩して尻から転んだ。その様を男が爆笑する。誰のせいでこうなったと、言外に含ませて睨んだ私を男は乱暴に引き上げた。

 「そっちを引き上げようとするからですよ。いやぁ焦った。」

 声に呆れが隠れていない。

 「分かってます。引き上げるのは一番目、でしょう。でも。」

 確認ぐらいしてやりたかった。たった一人でここへ来て、たった一人で死んだ女の、最期の時、看取るとまでは行かずとも、その顔くらい拝んでやってもバチは当たらないのではないか。

 毎週、同じ時間にここに来て、思い悩んで帰っていく。それが、今日、何かに押されて心を決めたのだ。その顔が腐る前に、そう決めて実行した、その事実があった事を、女が女であるうちに、観測してやりたかった。

 「あっ。」

 男が声を上げた。

 「いたいた、居ました。手伝って。」

 「……。よく分かりますよね、前も思いましたが、腐ったらどれも同じじゃあないですか。」

 「だからラベルを貼るんでしょ。」

 沼から皮膚のどろけた腕が引き上げられる。手首に赤いバンドが回っていた。

 そういえば、一番目を引き上げる時にはバンドを外して七番目に巻き直すのだと教わったのを思い出す。色で順番を定めているのだと言っていた。

 胴体が引き上げられた。黒々と変色し、ずり落ちた皮と筋繊維の隙間に黄ばんだ骨と、草むらに引き摺られて右足がもげた。虫が沸いていた。

 人相など既に消え失せ察する余地もあったものではないのだが、なんとなく女性であろうか、それくらいの大きさである。

 ぐずぐずに溶けた足の肉らしき一片が体を追うように水面に浮かんだ。

 「……。」

 昼に食べた粥が食道を迫り上がる。

 「そっちの草むらの方でお願いしますね。というか、同行二回目なんですからせめてそれくらいは慣れててくださいよ。」

 口の中に僅かな塩味と、米の甘味と、焼けるような酸味が混ざって、もう胃の中は空であろうに、しつこい程に虚無をえずいた。

 「まだ、二回目だし、前の時はこんな酷くなかったじゃァないですか。」

 「前回の方が稀ですよ。普通はこれくらい腐るものです。そりゃ腐ってない方がこっちも楽ですから、色々手配させて貰いましたがね。まさかあの人が飛び降りるまでにこんなに時間がかかるとは思わなんだですよ。臆病な人だ。」

 「死人に対して随分失礼だ。」

 「おや、死んだらどれも同じだと言い捨てたあんたから、そんな丁寧な感想が出るとは。驚きです。」

 男は既に一人目を引き上げて一息ついていた。草むらに座り込んで月を仰ぐ黄色く濁った双眸が、私の足音に反応してぐるりと動く。

 生きた死人と目が合った。

 「後は頼みますよ。給料分くらいは働いて貰わんと。」

 男の笑みに奥歯が鳴る。

 目が離せない。死んでいる顔をしている癖に。 

 「あァ、腕はそこです。一応洗って虫は落としておきました。じゃあ頑張って。」

 手をひらひらさせて、男は煙草に火をつけた。

 草むらに無造作に転がされた一人目の、顔をハンカチで隠して手を合わせる。

 ──へぇ、ほっそい三日月だ。

 今にも折れ崩れそうな小さな手をそっと持ち上げ、戒めのように手首に巻きつけられた赤いバンドを慎重に外した。

 苔と肉とで嫌にぬめる。引っ掛けた指が力めない。

 ──朧月夜、ってやつかァ。霞みすぎてよく見えねぇのが勿体ない。

 腕を持ち上げていた左手が、うっかり誤って握りつぶした。肉が骨から滑り落ちる。バンドをそっちのけに慌てて両手で押さえつけた。指の間から肉片が溢れる。

 無駄な事をしている。

 ──おぉい、早く終わらせてくださいよ。月見酒が待ってるんですから。

 無駄な事をしている。

 一人ずつ、順番に。

 沼の中の人数が、決して変わらないように。落ちたものは待たされる。生者の意思に縛られる。

 バンドが外れる。戒めが、縛りが、あの女の意思と勇気によって。

 億劫に茹だる足に鞭を打ち、緩慢に立ち上がって沼に入った。腕を突っ込み、泥底に眠る女を浚って探す。

 細い糸が絡み付いた。

 引き上げた顔の前歯が欠けていた。

 蒼白い顔、冷たい肌、脂の乗った、柔らかな頬。 

 あの男より生きた顔で、この女は死んでいる。

 心臓が止まっている。

 だが、まだ。

 「大丈夫ですか。」

 いつの間にか、後ろに男が立っている。私の肩越しに女の顔を覗き込んで、あぁ、と静かに納得した。

 「まだ、蘇生できるかもしれないんですねェ、この人。」

 やはり。

 「生きているかも、生きられるかもしれない、と。」

 「駄目ですよ。」

 「分かってます。」

 「駄目ですからね。この人は、自分でここを選んですから。邪魔しちゃァ駄目です。無粋です。」

 選んだ、と言った。手配したと吐いたその口で。この人が自ら選んだと。

 「選ばせた、の間違いでしょう。」

 この男と出会わなければ、この女はもっとまともな死を迎えたかもしれない。少なくとも、いつかくる一番目を待ちながら冷たい泥底で腐るより、ずっと。

 「選択肢を提示しただけじゃァないですか。あの人が死にたいと言ったから。」

 「ここで死ぬのが一番良いと。」

 「誰にも気付かれずに逝きたいとも言ってましたからね、ここはぴったりだ。それに。」

 男が草むらを振り返る。

 「可哀想でしょ。」

 「は、」

 「だってあの人、もう二年も待ってたんですよ。流石にねェ。いや昔はもっともっと長く待ってたみたいですけど、時代は変わるもんですから。」

 私の手からバンドを抜き取る。そのまま水中で女の腕を探し当て、引き出して、嵌めてしまった。

 「はい、終わり。帰りましょう。」

 死んでしまった。殺してしまった。戒めてしまった。

 六番目になってしまった。

 「そんな顔をしないでください。私が酷い事をしてるみたいじゃないですか。」

 「酷い事を、しているじゃないですか。」

 「どうしてです?私はただ、ここで死んだ人達の為に人数を揃えてあげてるだけなのに。」

 男が私をじっと睨む。

 死人の顔で、生者みたいに、死人の管理をしている。

 「そもそも、なぜ。」

 人数が揃わないと供養もされないなんて、そんな決まりがあるものか。

 「決まりだからです。ここが、そう決まっているから。」

 「そんな馬鹿げた決まりの為に、貴方は人を殺すんですか。死人の為に人を殺すんですか。」

 月明かりが沼を照らす。濁った水の上澄みの、微かに女の髪が揺蕩う。

 「この人は自殺志願者でした。殺してはいません。導を見せただけです。」

 「同じでしょう。」

 「いいえ、死んだんです。ここに来るのは殺した死人ではなく、死んだ死人でないといけない。」

 「それも、決まりですか。」

 「ここにいる者に誘われて命を落とした。まぁ決まりというより定義付けがしやすい形ですよね、この辺は。実際にこの場所は陰鬱で空気も湿ってて息苦しいし、願望のある人の背中を押すにはちょうど良いんです。」

 「定義付けって、そんなの嘘じゃないですか。」

 「嘘ですが、その嘘をいったい誰が証明するんです。死人に口がありますか。」

 淡々と死人が喋る。意味のわからない事を、さも当たり前のように。

 視界がぐらつく。理解が出来ない。この死人の言葉に正当性を感ぜられない。

 あの人は確かに死んだ目をして生きていた。何もかもに嫌気がさして、消えたい、死にたいと言っていた。彼女をこの世に留めていたのは彼女の中に残った生に対する執着などではなく、この世の仕組みである。死後の処理、葬儀だの、届出だの、遺品整理だの、そういう煩わしさを誰かに背負わせる事になる事を彼女はずっと憂いていた。だから、消えたいと願ったのだ。死にたい、ではなく。

 それを。

 「ただの数合わせに誘い出して、きっと貴方はこの人が一番目になった時、今日の事をさっぱり忘れて嗚呼可哀想だ、なんてほざくんでしょう。」

 「それの何が……成る程、あんた、この人に思い入れてるんですか。たった何回か草の茂みから落ちるかどうか観測してただけの間柄なのに。」

 「貴方の言葉を借りるなら、私は確かにこの人を、可哀想だと思っています。」

 比較的段差の無い、登りやすい草葉を探して沼から上がる。男はその場から動かない。

 「あ、その辺り。」

 男が変に高い声をあげた。

 思わず首だけで振り返る。

 「土が荒れてるんです。」

 踏みしめた右足が土に取られた。膝をついて、手をついて、大きく揺れた水を被って、踏ん張った全てが攫われる。無様に滑り落ちた足が泥底に深く呑み込まれ、踠くほどに沈んでいった。

 慌てる私に一瞥すらくれることもなく、男は沼を掻き分け、数回泥底を掻き回す。

 何かを掴んだ。

 二番目か。否、もうあれは一番目だ。一番目のバンドを外して、体を岸に。

 目が合った。死人の目が私を。私を。

 その目を、私は知っている。

 死人を六人目にする時の、あの目で私を映している。

 「そんなに可哀想なら、助けてあげたらいかがです。ね、それが良い。本当は上流から流れてくるのが理想ですが、まぁ事故は事故です、問題ないでしょう。」

 水面を乱暴に揺らしながら、足元に注意を払いつつ、男は私の隣に立つ。

 私の体はもうほとんどが沼の底である。首から上が辛うじて空気に触れている。身動きが取れない。眼球だけが滑らかに。

 水中で、男が私の手に触れた。

 「待ってください、私はまだ生きてます。何を、何を。」

 手首に定義が回る。

 見上げた空に月はなく、灰色の雲が空を覆って真夜中なのに白く明るかった。


 

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