不正解
海崎しのぎ
不正解
家の前に飛んできた、一面の焼け野原が報じられた新聞を見て、じきに、負けるのだろうと思った。女は戦争というものをよく知らないが、確信を持ってそう思った。この戦争に何の意味があるのか、勝ったらどうなるのか、負けたらどうなるのか、生きていかれるのか、殺されるのか。勝戦後の空に雨は降るのか、敗戦後に快晴はくるのか。女は、戦争というものを何も知らない。
新聞を屑籠へ、もう飽きてしまった女は、小さな庭の一角に植っているトマトの世話をしに外へ出た。両手に鋏だの、軍手だの、水差しだのをごちゃごちゃと持って晴天の下を浮き足立つ。
畑に入って、足を止めた。土をぐるりと囲っていたフェンスの、道に面した一部が吹き飛ばされている。フェンスの根本を支えていた煉瓦ブロックが破損し、フェンスの棒やら、煉瓦の破片やらが土を荒らしていた。どこから飛ばされてきたのだろう、空の缶詰やら片方の靴やらも混じり込んで、酷い有様sである。
あぁ、これが、戦争か、と思った。腹が立った。戦争というものはとんでもなくロクでもない、くだらない、低俗な行為なのだと思った。そんなものに大事な畑の一角を潰されたことが、女は許せなかった。
損害を免れて強く伸びた一株のトマトが風に葉を揺らすのが、荒れた女の心をじんわり癒す。このトマトは戦争がまだ新聞の片隅を密やかに賑やかす程度のものであった頃に植えたものだった。苗の頃から瑞々しく、これはきっと良い苗だと、期待をかけて育てていた。豪雨の日も、暴風の日も、毎日欠かさずトマトの前にしゃがみ込んで愛を与えた。今やトマトは傷一つなく、青々と豊かに、その実を橙に染めて順調に育っていた。
女は実をひと撫ですると、持ってきていた園芸道具の籠から包丁を取り出した。掌を切って、滲んだ血がトマトを満たす。もっと赤く育って欲しかった。もっと甘く育つべきであった。
もし、と声がした。崩れてなくなってしまったフェンスの間に、一人の男が立っている。もし、ともう一度、今度ははっきりと発声した。さも、訝しんでいます、心配しています、とでもいうように、男は女に語りかける。女がトマトを見ているのが、きっと男の目には異様に映っているらしかった。何をしているのか、などと、解りきった事をわざわざ聞いてしまうくらいには、女の行動を理解しがたいものとして認知しているらしい。
男は軍服を着て、帽子をかぶって、銃を背負っていた。すらりと背の伸びた、頼もしい、きれいな立ち姿だった。その軍服はやけに綺麗で、血の跡も、砂埃も無い。おろしたての軍服でも着ているように見えたが、その顔はとても若手には思えない。少しずつずれた男だった。きみの悪い男だった。だが、整った、正しい男にも見えた。
何を、しているのです。貴女は。
と、男の端正な口が形作る。
「トマトを、育てています。」
淡々と、見えている様のみを言語化した。まるで、そう言う事が決まっているかのように、女の口から滑り出た。
トマト、ですか。
その声に驚きはなく。男の低い声が、ただ、そう書かれている文言を読み上げる。そんな声音だった。己は訝しんでいるのだと、それだけははっきり主張されていた。きみが悪い。居心地が悪い。
それ以外に見えますか。と、冷たい声で突き放す。訝しんでいると示された声に、関わるなと当て付ける。
男は押し黙った。
赤みを帯びた橙の、表皮を指でつるりと撫でる。剪定鋏を手に取って、育ちの悪い小さな橙を落とした。切り口からどろりと血が流れ、滴って土を濡らした。落ちた橙を鋏で二つに割る。崩れた中身が飛び出して、ひしゃげて、見るに耐えない無様な姿に成り下がった。否、無様だから落ちたのだ。最初から、大きければ、この仕打ちは別の実が受けたはずである。
戦線がすぐそこまで迫っています。早く逃げてください。私が貴女を安全な場所まで連れて行きますから、早く。
男は幼子に対峙しているかのように言い諭す。はた迷惑な正義感に、女は息が苦しくなって、黙ったままトマトの剪定を続けた。
男は言葉を失ったまま、女の背中をじっと見ていた。その瞳が、明確な哀れみを持って女とトマトを突き刺した。
*
雲の多い晴天の、雲間から差し込む日差しに目を覚ます。この家も廃墟と呼ぶほうがふさわしい程戦火に弄ばれてしまった。かろうじて四方に壁の残っている部屋に無理やり運び込んだ薄い布団の中は、それでも温かく心地良くて、のろのろと起き上がる女を、窓際に並んだたくさんのトマトの植木鉢が迎えるのが、より女を清々しい気分にさせた。
布団を端に片付けて、植木鉢を順番に眺めて歩く。一番右端の鉢は初めて女が育てた鉢で、右も左も定石も知らず、見様見真似でがむしゃらに育てて実らせたものだった。今見れば相当に悲惨なものであるけれど、それでも愛着は大きく捨てられない。そこからだんだんと上手くなって、綺麗な見てくれのトマトが増えた。特に最近のものはどれも自慢の子たちである。きっとあの畑のトマトも、ここにあるものよりもっとずっと素敵な子になるのだろう。
女はトマトが好きだった、トマトを作れる自分が好きだった。トマトを作るのが女の唯一で、絶対で、生きる全てだった。
幼少の女は何もできない子供だった。人よりものの理解が悪かった。その癖、しょうもない些細なことでぐるぐると考え込むところがあった。どうせ誰も気にしないようなことに何日も、何日も。故に、集中力が散漫で、勉学もろくに身に付かず、体が疲れると頭が回らなくなるのが嫌だったから運動もしないでいたら、体力のない、外で遊べない子になった。どんなスポーツも下手くそで、最初は付き合ってくれた友人たちも次第に付き合いきれなくなって、だんだん女は独りになった。代わりに手先が器用という訳もなく、料理をすれば食べられなくはないけれど別段美味くもない何かが出来上がり、縫い物をすれば縫い目の不揃いな、使い勝手の悪い布切れを生み出した。どれも女が着手したせいで哀れ無残に生まれることになってしまった、かわいそうな産物たちである。着手したのが女でなかったら、もっと立派に素敵なものとしてこの世に生を受けられた筈である。
そんな女が辛うじて人並みにできたのがトマトだった。粗末な橙の実をつけた、所々茶に変色した痩せぎすの一株を見て、過剰なほどに褒め称えた周囲の人たちの顔と、声と、視線と、空気を、女は今でも覚えている。
とても、嬉しかったように思う。同時に、本当に、本当に、これしか出来ないのだと思い知った気分もある。だから女は育て続けた。美しく在る必要などなく、ひたすらに枯れないように、その一心で育てたトマトは、いつしか美しいと評価されるようになった。評価されてしまったら、今度はそれが価値になった。生きてさえいればよかった筈なのに、その生が途端に無価値になった。橙でも良かった筈だった。痩せぎすでも十分な筈だった。周りが、別に、それ以上を求めてなどいないことを、女はよく理解していた。
女は外に出た。
今日はもう男が立っていた。やはり綺麗な身なりをして、綺麗な銃を背負っていた。両手に園芸用具を持った女に、男は悲しげな目を向けた。
静かな声で、戦線がこちらに押し下げられた事を告げる。それから、相変わらず理解できないと言いたげな瞳で、死にたいのですか、と吐き捨てた。
「どうして、そう思うのです。」
努めて冷静に、落ち着いて、男の顔を捉えて問う。理解されずとも、ここまで卑下される謂れは無いはずである。
「だって、貴女、血塗れじゃあないですか。もうすぐ戦場になる、まだ戦場では無いこの場所で、血を浴びたトマトより血塗れじゃあないですか。」
よく通る声だ。脳に響く声だ。耳に障る声だ。
「トマトに血を浴びせるのだから、こうなるのは仕方ない事でしょう。何を。」
「馬鹿げた事を。」
男の声が女に被る。
「死ぬつもりはないのでしょう。そんなに大事なトマトを残して、貴女が死にたがるとは思えない。だから、私は問うのです。そのままでは死にますが、宜しいのですか、と。」
「誰が、私を殺すのです。」
「今、この国は戦時中ですよ。さらに旗色がすこぶる悪い。」
「相手国の軍が、私を殺すと。」
まさか、と男は嘲笑する。
「貴女が、貴女を殺すのでしょう?近く、それを育てられなくなる未来が来たその日に、貴女が、その手で!」
*
散弾が降り頻る。目覚めの悪い朝だった。雷かと思っていた閃光は爆弾の爆ぜる音だった。男が、戦線がどうとか言っていたのを思い出しながら、台所に転がっている肉の缶詰の蓋を開けた。
昨日男が言ったことは、正しいことだと女は思う。いつだって男は正しかったのだ。きっと自分は、トマトが育てられなくなったら死んでしまう。心が死んだら、体だけ生きていても無様である。だから、きっと、あの小さな橙と同じ事をするのだ。剪定鋏でやったように、首を。そうなりたくないのなら、この場所を離れなければならない。部屋に並んだトマトを捨てて、畑のトマトを鉢に植え替えて、それだけを持って、どこか遠くへ。
女は外へ出る。昨日より赤くなったトマトに、掌を切って血を飲ませた。
「ここでないと、いけないのです。」
とうとう、フェンスの内側に立った男に告げる。
「ここ以外でも育つこの子は、この場所で、ここまで美しく育ちました。この場所だから。私の家だから。ここから移して、枯れてしまったら。」
「自信がないならやめましょうよ。」
男が畑に入ってくる。
「新しい場所で、新しいトマトを作る自信がないなら、やめてしまうべきです。」
「でも。そんな。」
「そんなこと。」
「そんなこと、私は。私には。」
「できないでしょう?」
白い手袋が女の頭を優しく撫でる。かわいそうなものを、精一杯慈しむ男の、侮蔑の温もりが女の首をゆるりと締める。
「できるはずがない。だって、できるならとっくにしている筈だから。こんな場所で、そんなものに、ここまで執着する貴女が、逃げた先でトマトを作らないわけがない。」
作らずには、いられない。
遠方で怒号が聞こえる。近隣の人間に避難を呼びかけている。怪我人を現世へ呼び止めている。地面が揺れる。空が爆ぜる。
それでも、私は。
「作らずにはいられない。癖に、いいものを作る自信もない。貴女は、貴女のトマトが良いものであることよりも、ただ完成できる事の方がよほど大事で、環境が変わったら、作れなくなってしまうかもしれないと思っている。」
違う。私は、美しいものを作らねばならない。このトマトは、ここで完成させるべきだ。でないと、価値が。
価値が。
値踏みをする。
「誰が。」
「みんなが。」
「みんながそのトマトに価値をつけるんですか?」
違う。
「だって、みんなが。」
それが価値だと。
そう言った、筈だ。確かに、私には、それしか出来ないと。
言われた。言われた、確かに、そう、誰かが。
誰が。
誰が言った?
誰に言われた?
違う。言われた。言われなきゃいけない。だってそうでなければ。私は。
誰にも。誰も。私は。私が。
違う、そうではない、そうあってはいけない、違う。私が。
私が無意味になっていく。
「私が。」
「貴女が。」
「これは、私の、価値だと。」
「そう、貴女が。そう付けた。だから、貴女はやめられない。でも、他でもない、貴女が課したことだから。」
やめられたら、きっともう痛くない。何もできなくたって別に誰かに迷惑をかけるわけでもなし、私の不出来が、他人を殺すわけでもなし。
ただ、ゆっくりと死んでいく。体だけが生きていく。
「それで、いいじゃないですか。価値があることに、何の価値があるんです。」
そう、男はそう告げる。
「と、言って欲しかったんでしょう。」
ご気分はどうですか、と男は不気味に微笑んだ。
「死んでしまいそうな気分です。」
「それは良かった。」
男が女の肩越しに、部屋の中に並べたたくさんのトマトを見た。
「どうしますか。私としては、貴女に正しい選択をして欲しいのですが。」
「何の話です。」
男が女に銃を握らせる。全弾装填された、よく磨かれた綺麗な銃だった。
「使い方はわかりますか。」
男は抑揚のない声で女の手をとり、丁寧に、丁寧に使い方を教えた。各部名称から引き金の引き方、獲物の狙い方、装填の仕方まで、事細かく女に教えた。
「何の話です。」
女の手が拳銃を握る。手を離したくとも、男はそれを許さない。温かい手だった。手袋越しでも伝わるくらい、安心してしまいそうな手だった。
「どちらが死ぬか、という話です。」
*
寝台の中で、受け取った拳銃を眺めながら女は深く思考する。どちらが死ぬか、男は確かにそう言った。どちらかが死なないといけないのだそうだ。女か、男か、どちらかが死なねば、この戦争は終わらない。
女には戦争がわからない。だが、確かに、負けるのだと思っていた。この国は、負けるのだと。
やめにしましょう、そうも言った。女が辞めれば終わるのだと、男は確信しているらしかった。さも、この戦争の中心にいるのが女であるとでもいいたげであった。女には戦争がわからない。何故起こるのか、他人の命を犠牲にして得たものに何の意味があるのか、それは価値的なものなのか。女にはわからない。
外はずいぶん静かになった。代わりに鉄臭い生温かな空気が壁の隙間から流れてくる。
頭痛がひどい。眠れない。これで撃ったら、楽になるのだろう。
視界の端でトマトが揺れる。月明かりに照らされた赤い実に、誘われるように寝台を出た。
喧騒も知らぬ鮮やかの、適当な一つを両手で持ち上げた。頭上へ掲げて、床へ。
心にぽっかりと穴が開いて、鉄臭い空気が入り込む。酷く虚しくなった。立っている、床が、ぐにゃりとなって、真っ直ぐでいられなくなって、土と、実と、植木の破片の上に座り込んだ。きれいに並んだ植木鉢の、一つ分空いた隙間が寂しかった。
結局、朝日が昇るまで、女はずっとそうしていた。
天気の良い朝だった。真っ青な空には不純物なく、遠くまで抜けるいい朝だった。落ち着いた静かな朝だった。
女はトマトの前に立っている。フェンスの向こうには男が、女と向かい合って立っている。無表情で、まっすぐ女を見つめている。女もまた、男から目を離さない。
「貴女には、正しい選択をして欲しかったのですが。」
「私は、浅学ですから。」
「愚かな貴女に、これ以上愚かな事をさせないように、私はここに来たのですが。」
「私は、頑固ですから。」
「もう貴女が苦しむ姿ではなく、幸せな姿を見たかったのですが。」
「私は、愚鈍ですから。」
「愛して、いたのですが。」
「私も、愛しています。」
「誰を。」
「もちろん、ここにいる全てを。」
銃口を向ける。引き金に指をかける。男が、ゆっくりと目を閉じた。女も、静かに目を閉じた。
引き金を引いた。
戦争が、終わる。
*
家の前に飛んできた、一面の焼け野原が報じられた新聞を見て、じきに、負けるのだろうと思った。女は戦争というものをよく知らないが、確信を持ってそう思った。悲しいとは思わない。この戦争に何の意味があるのか、勝ったらどうなるのか、負けたらどうなるのか、生きていかれるのか、殺されるのか。勝戦後の空に雨は降るのか、敗戦後に快晴はくるのか。女は、戦争というものを何も知らない。
新聞を屑籠に入れた。外には小さな畑が据えられており、その中央にトマトが一株植っている。
その前に、女は蹲み込んで、丁寧に剪定を始めた。虫食いの葉っぱを落とし、発育の悪いものを落とし、女は一心に世話をする。
何を、しているのです。貴女は。
背後から、男の冷たい声がした。
不正解 海崎しのぎ @shinogi0sosaku
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