花氷

チヌ

花氷

 誰もいない教室。

 夕刻。

 帰りの放送が鳴っている。

 一つの机の上に菖蒲を閉じ込めた花氷が置かれている。

 椿、周囲を見回しながら教室に入ってくる。

 花氷に気づくと、少し驚いて眺めながら、その机に座る。

 雪村、教室の入り口から椿が座るまでの動作を見ている。

 しばらくの間。

 雪村、教室の戸を三回ノックする。

 椿、驚くが振り返らない。


雪村 お嬢さん。


 椿、振り返らない。


雪村 お嬢さん。


 椿、しぶしぶ振り返る。


雪村 やっと見てくれた。

 椿 …何ですか。

雪村 そこ、俺の席だよ。

 椿 …え?

雪村 あ、席替えとかしてると思うけど、そこは俺の席。出席番号三十五番、ね。


 雪村、椿の隣に座る。


雪村 授業、終わったんじゃないの?

 椿 …そうですよ。

雪村 やっぱり。明日、卒業式だよね?

 椿 …はい。

雪村 帰らないの?

 椿 …帰りません。

雪村 そっか。何、最後の教室を目に焼き付けておきたくなった?

 椿 …違います。

雪村 違うんだ。じゃあ、友達との思い出に浸ってた?

 椿 …違います。

雪村 それも違う? ジェネレーションギャップかな…。

 椿 …先生、ですか?

雪村 俺? 先生に見える?

 椿 はい。

雪村 あ、そう! 嬉しいな、何か。

 椿 違うんですか?

雪村 違うよ。でも、そっか、学校にいる大人っていったら、先生かなって思うよね。

 椿 じゃあ、誰ですか?

雪村 誰だと思う?

 椿 え。

雪村 突然教室に入ってきて、そこは俺の席だと主張する頭のおかしい大人? うん、あながち間違ってないな。

 椿 そこまでは、思ってないですけど。

雪村 良かった。そうだったらどうしようかと思った。

 椿 …あの。

雪村 何?

 椿 ここ、本当にあなたの席なんですか?

雪村 信用出来ないよね。でも、本当。まぁ、今は君の席なんだろうけど。

 椿 …。


 椿、立ち上がる。


 椿 どうぞ。

雪村 え?

 椿 座ってください。

雪村 いいの?

 椿 いいんです。

雪村 どうして?

 椿 …私の席じゃないんです、そこ。

雪村 そうなの?

 椿 はい。

雪村 じゃ、君の席は?

 椿 ないんです。

雪村 ないの?

 椿 ないんです。私の席。どこにも。

雪村 そっか。じゃ、遠慮なく。


 雪村、椿がいた席に座る。


雪村 懐かしいな。高校時代を思い出すよ。

 椿 …卒業生ですか。

雪村 うん。平成二十三年度卒業生、雪村しずく。

 椿 雪村…。

雪村 女の子みたいな名前でしょ? 文字で書くと特に。字面がね、かわいい感じだから。

 椿 綺麗な名前だと思います。

雪村 そう? ありがとう。

 椿 雪村さんは。

雪村 ん?

 椿 どうしてここに?

雪村 知りたい?

 椿 はい。

雪村 教えない。

 椿 え。

雪村 俺はまだ、お嬢さんの名前も知らないからね。

 椿 …椿です。中山、椿。

雪村 椿ちゃんね。お座りよ。


 雪村、立ち上がり椿に席を譲る。


 椿 え、でも。

雪村 いいから、いいから。


 雪村、椿を座らせる。

 雪村、椿の隣の席に座る。


雪村 さて、今からそこが君の席だとするでしょ。

 椿 ここが?

雪村 そう。

 椿 でも、ここ。

雪村 俺の席だって?

 椿 はい。

雪村 残念。今の俺の席はこっち。

 椿 そんなの…。

雪村 ずるい?

 椿 はい。

雪村 確かにずるいかもね。でも、俺は自分の意志で、そっちじゃなくてこっちの机を選んだ。そこに他人は口出し出来ないはずだよ?

 椿 …納得出来ません。

雪村 じゃあ、別の例を出そうかな。

 椿 …はぁ。

雪村 この花の名前、知ってる?


 雪村、花氷を示す。


 椿 菖蒲あやめですか?

雪村 当たり。菖蒲に限らないけど、植物って、地面に根を張って、一生懸命葉や茎を伸ばして、こうやって綺麗な花を咲かせるでしょ?

 椿 はい。

雪村 この菖蒲にさ、空中でも同じように花を咲かせろ、って言ったって、それは無理な話だよね。

 椿 そう、ですね。

雪村 それと同じ。自分がどこで花を咲かせるかは自分が決めることだし、咲かせる場所がどこであっても、それは他人がとやかく言って良いことじゃない。

 椿 …。

雪村 って、俺は思ってるんだけど。どう? まだ納得出来ない?

 椿 つまり、自分の居場所は自分で決めるってことですか?

雪村 そうそう。良かった、伝わって。

 椿 でも。

雪村 でも?

 椿 それって、逃げることになりませんか?

雪村 逃げる? 何から?

 椿 現実から。

雪村 そういう視点もあるね。じゃ、逃げることは悪いことなの?

 椿 悪いこと、だと思います。

雪村 どうして?

 椿 成長しないから。

雪村 成長、か。逃げると成長しないの?

 椿 しないです。

雪村 絶対?

 椿 絶対。

雪村 それは嘘だね。はっきり言える。

 椿 どうしてですか。

雪村 菖蒲は、空中で生きることを諦めて、地面に逃げてきた。でもこうやって立派に花を咲かせてる。

 椿 それは、だって、当たり前じゃないですか。

雪村 当たり前?

 椿 空中で植物が育たないのは、当たり前です。

雪村 同じことだよ。

 椿 え?

雪村 誰でもその人に適した状況じゃないと、花を咲かせられない。君が今言ったように、空中で花は咲かない。咲くわけない。それがわかってるから、菖蒲に空中で生きろ、なんて誰も言わない。

 椿 …。

雪村 それは人間だって同じだよ。

 椿 …でも、人間は、それをわかってもらえない。

雪村 そこが難しいところだよね。人間って、自分が生きていられるから相手も生きていられるはずだって、錯覚するから。

 椿 …雪村さんも。

雪村 ん?

 椿 雪村さんも、錯覚されて生きてきたんですか?

雪村 んー…俺は、錯覚する側、だったんだよね。

 椿 え。

雪村 雪村さん「も」ってことは、君も錯覚されて生きてきたの?

 椿 私は…。

雪村 まぁ、そっか。そうじゃないと、一人で教室に残らないもんね。

 椿 …。


 しばらくの間。

 雪村、立ち上がり窓の外を眺める。


雪村 変わらないな、この景色…。

 椿 …私。

雪村 ん?


 雪村、振り返る。

 椿、立ち上がる。


 椿 私、一緒なんです。この菖蒲と。

雪村 菖蒲とね。君は椿なのに?

 椿 そうじゃなくて。

雪村 だろうね。

 椿 …。

雪村 お兄さんで良ければ、話、聞くよ?

 椿 …雪村さん。

雪村 何?

 椿 私…女の子に見えますか?

雪村 んー…女の子として接してたつもりだったんだけど、嫌だった?

 椿 …わからないんです。

雪村 わからない?

 椿 どれが本当の自分なのか。今の自分でいていいのか。自信がないんです。

雪村 なるほど。席がない、ってそういうこと?

 椿 はい。この席は、男の中山椿の席だから。


 椿、花氷の一つ後ろの机に座る。


 椿 私は、この席には座れないんです。

雪村 座りたくない、じゃなくて?

 椿 この教室で、このクラスのみんなが求めてるのは、女の椿じゃないから。

雪村 誰にも言ってないの?

 椿 言ってないです。

雪村 親にも?

 椿 はい。

雪村 友達にも?

 椿 はい。

雪村 言ってみたら良いのに。そうしたら座れるんでしょ? 君の考えだと。

 椿 それは無理です。

雪村 即答するね。怖いの?

 椿 それもあります。けどそれ以上に、相手が可哀想です。

雪村 可哀想?

 椿 だって、もし自分が急にそんなこと言われたら、絶対に耐えられない。気持ち悪いって、突き放すかもしれない。そして、そんな態度を取ったこと、一生後悔すると思います。

雪村 優しいんだね、君は。

 椿 偽善です、こんなの。結局、嫌われたくないだけだから。

雪村 何もしないよりずっといいよ。やらない善よりやる偽善、っていうでしょ?

 椿 それじゃ、駄目なんです。

雪村 真面目だね。疲れない? そうやって生きるのって。

 椿 …疲れます。とても。

雪村 もう少し、楽に考えてみたら?

 椿 楽に?

雪村 君が思ってるほど、人間って薄情じゃないし、温かいものだよ。 

 椿 …そう信じたいです。


 雪村、椿の隣の机に座る。


雪村 菖蒲の話に戻るけどさ。

 椿 はい。

雪村 例えば、菖蒲に雌雄の区別があるとするでしょ。

 椿 花自体にですか?

雪村 うん、そう。それによって、咲いた花の美しさは変わると思う?

 椿 …いいえ。

雪村 どうして?

 椿 え?

雪村 どうしてそれがわかってるのに、人間に置き換えると意見が変わるんだろうね。

 椿 …雪村さんは。

雪村 何?

 椿 私が男でも、同じように接してくれますか?

雪村 どうだろうね。

 椿 えっ。

雪村 君だとわかってたら、今みたいに話すと思うけど。

 椿 そうじゃなくて。

雪村 ん?

 椿 私が今、男の椿になっても、同じように接してくれますか、ってことです。

雪村 あ、そっち?

 椿 誰だかわからなかったら、それは変わりますよ。

雪村 そういうことなら、変わらないんじゃないかな。君は君だし。

 椿 本当ですか?

雪村 やってみたら?

 椿 …。


 雪村、立ち上がる。


雪村 想像はいくらでも出来るけど、実際にやってみないとわからないこともあるからね。

 椿 …一番楽しいのは、実現する前だと思います。

雪村 文化祭とか? 準備は楽しいけど、当日はそんなに楽しめないタイプだ。

 椿 …当たってます。

雪村 でも、参加したらやっぱり楽しいんだよ。食わず嫌いしてるだけ。

 椿 雪村さんは、どうなんですか?

雪村 俺は、文化祭当日だけ参加して、準備も片付けもやらない人。

 椿 ひどい。

雪村 でしょ? でも、そういう人って、実は一番楽しめてない人なんだよ。

 椿 高校時代、そうだったんですか?

雪村 途中まではね。三年生だけ真面目にやった。

 椿 楽しいことがわかったから?

雪村 教えてもらったから、かな。

 椿 それは、誰に?

雪村 あやめに。

 椿 え?

雪村 友人がいたんだ。あやめっていう。

 椿 あやめさん?

雪村 三年間一緒のクラスでね。文化祭の時期は散々怒られてた。

 椿 準備も手伝って、って?

雪村 「見てるだけじゃ、本当に楽しんだことにはならない」って。

 椿 だから、最後だけ?

雪村 そう。最後は本当に楽しかった。前の二年より、ずっとね。

 椿 素敵なご友人ですね。

雪村 本当。俺にはもったいないくらいね。

 椿 会ってみたいです。あやめさんと。

雪村 …それは無理かな。

 椿 どうしてですか?

雪村 もういないからね。


 雪村、花氷にそっと触れる。


雪村 …冷たいな。当然だけど。

 椿 …それは、あやめさんなんですか?

雪村 …。

 椿 …雪村さん?

雪村 これ、何て言うか知ってる?

 椿 え?

雪村 氷中花、氷柱とも呼ぶんだけど、俺は花氷って呼び方が気に入ってる。

 椿 花氷。

雪村 冷房がなかった時代に、部屋を涼しくするために作られてたんだって。今はインテリアとして使われることが多いみたいだけど。

 椿 綺麗ですからね。

雪村 でしょ? 透明になるようにゆっくり凍らせるから、完成するのに一週間以上かかるんだよ。

 椿 そんなに。

雪村 でも、溶けてなくなるのは一瞬なんだけどね。

 椿 雪村さんが作ったんですか?

雪村 まぁ、ね。

 椿 お仕事で?

雪村 まさか。俺はただの公務員。

 椿 なら、趣味ですか?

雪村 俺のじゃないよ。

 椿 え?

雪村 あやめがやりたかったことなんだ。花氷を作ること。

 椿 …。


 椿がいる位置の照明が消える。

 教室に制服姿のあやめが入ってくる。


あやめ しずく。

 雪村 …。

あやめ 帰らねえの? 明日、卒業式だぞ?

 雪村 これ、見てたんだ。

あやめ 花氷? お前、本当に好きだよな。

 雪村 うん。

あやめ 自分で作ればいいのに。教えようか?

 雪村 いいよ、俺は。見てるだけで。

あやめ あのな、完成品を見てるだけじゃ、本当に楽しんだことにはならないんだぞ?

 雪村 いつも言ってるね、それ。

あやめ いつも言うさ。今年の文化祭、楽しかっただろ?

 雪村 別に。

あやめ 嘘つけ。最終日、泣いてたくせに。

 雪村 ちょっ…あれは忘れて。

あやめ 素直じゃないやつ。…さて、と。


 あやめ、花氷を手に取り、窓から落とす。

 氷が割れる音。


あやめ 今日も派手にいったなー。

 雪村 …。


 あやめ、しばらく窓から下を見ているが、やがて雪村の方を向く。


あやめ 何だよ? 鳩が豆鉄砲食らったような顔して。

 雪村 今日の花、菖蒲だった。

あやめ え? あぁ、そうだな。

 雪村 どうしていつも壊すの? あんなに綺麗なのに。

あやめ だからだよ。

 雪村 え?

あやめ 綺麗だから、壊すんだ。壊して、初めて、それは価値を持つ。

 雪村 …過激思想。

あやめ はは、確かに。

 雪村 …聞いてもいい?

あやめ 何だ?

 雪村 最後には絶対壊すのに、それでも、毎日作ってくるのは、何で?

あやめ ただの趣味。

 雪村 本当にそうなら、ここまで熱心にやらないでしょ。

あやめ じゃあ、お前が喜ぶから。

 雪村 じゃあ、って何? 本当は?

あやめ 半分は本当だぞ?

 雪村 半分は嘘なんだね。

あやめ そういうとこ気づくよな、お前。

 雪村 …答えたくないなら、別にいいけど。

あやめ …閉じ込めたいから。

 雪村 え?

あやめ 花はさ、俺の感情っていうか、思想? に近いイメージなんだよな。

 雪村 それを、閉じ込める?

あやめ 遠くから眺めてるだけなら綺麗なんだ。でも溶けたら、とてもじゃないけど見てられない。

 雪村 だから、壊す?

あやめ 綺麗なものを綺麗なままで終わらせることに意義がある。だらだらと引き延ばしたって無意味。

 雪村 芸術家っぽいこと言うね。

あやめ だろ。本当はそっちに行きたかったんだけど。


 あやめ、自分の椅子に座る。


 雪村 …結局、親に話した?

あやめ 大反対された。

 雪村 …そう。

あやめ ま、当然かな。学費高いし。

 雪村 どこ行くの?

あやめ どこ行こうかな。他にやりたいこともないし。

 雪村 俺のとこは?

あやめ 嫌だよ、法学部なんて。興味ない。絶対中退する。

 雪村 ひどい。

あやめ 真実だろ。

 雪村 でも、どこかには行かないと。

あやめ そうだな。

 雪村 そんな、他人事みたいに。

あやめ 中途半端に勉強出来るから、親も期待するんだよ。嫌だって言ってんのに。

 雪村 じゃ、どうするの?

あやめ …やめる。

 雪村 …何を?

あやめ 全部。

 雪村 全部?

あやめ 落とす、っていった方がわかりやすいか。


 あやめ、窓から下をのぞき込む。

 雪村、窓から離れる。


あやめ 綺麗だな。

 雪村 …あやめ。

あやめ ん?

 雪村 それは、馬鹿だよ。

あやめ そうだな。

 雪村 そうだな、って…。

あやめ でもさ、無理なんだよ。

 雪村 何が?

あやめ 菖蒲は空中じゃ生きられない。

 雪村 …え?

あやめ でも俺はそこで生きなきゃいけない。生きられるとでも思われてたのかな。はは、買いかぶりもいいとこだよ。

 雪村 …どういうこと?


 あやめ、雪村の方を向く。


あやめ ここは俺の居場所じゃないんだ。

 雪村 …え?

あやめ 俺は菖蒲で、ここは空中だから、花は咲かないし、これ以上は生きられない。

 雪村 …そんなことない。

あやめ はは、ありがとう。でも、ごめん。

 雪村 謝らないでよ、どうして…?

あやめ お前だけだったんだ。

 雪村 え?

あやめ 俺の花氷、綺麗だって言ってくれたの。

 雪村 それは…。

あやめ 俺を一人の人間として、見てくれたのも。

 雪村 …。

あやめ お前だけだったんだ。俺が本当は女なんだって言っても、離れずにいてくれたの。

 雪村 …。

あやめ でもさ、やっぱり、お前が認めてくれても、どうにもならないことってあるよな。

 雪村 …何かあったの?

あやめ 気持ち悪いって。

 雪村 …え?

あやめ 親から言われた。こんなのは普通じゃない、お遊びでやってるならやめろ、って。

 雪村 …。

あやめ はっきり言ってくれて良かったよ。お前も無理してるならいいんだぞ。

 雪村 俺はそんな…。

あやめ 知ってる。お前は嘘つかないし。

 雪村 …。

あやめ だからさ。

 雪村 …何?

あやめ 俺が綺麗なうちに、お前の前から消えるわ。

 雪村 …。

あやめ 何だ、その顔。

 雪村 …それ、本気?

あやめ 本気。

 雪村 馬鹿だよ、そんなの。

あやめ はは、馬鹿だよ、俺。

 雪村 今までも大丈夫だったんだから、これからも生きていけるはずだよ。

あやめ そうだったら良かったんだけど。


 あやめ、雪村に近寄る。


あやめ 卒業式。

 雪村 …え?

あやめ お前と一緒に出られないのだけは、少し残念かな。

 雪村 …。


 あやめ、机の上に立つ。


あやめ コツを教えてやるよ。花氷を作る時の。

 雪村 え…?

あやめ 水はなるべくゆっくり凍らせるんだ。そうすると、透明な氷になって、中の花が鮮やかに見える。

 雪村 …。

あやめ 時間はかかるけど、その分仕上がりは綺麗になるから。


 あやめ、雪村と目を合わせる。


あやめ 今度は自分で作れよ、しずく。

 雪村 やめろ!


 明かりが消える。

 同じ教室。

 椿、机の上に座っている。

 雪村、菖蒲が入った花氷が置かれている机に座っている。


雪村 結局、その年の卒業式は出来なかったんだよね。当然だけど。

 椿 …。

雪村 だから実質、卒業できてないのと同じ。ずっとここにとどまってる。

 椿 …毎年、作ってるんですか?

雪村 この日だけね。

 椿 毎年、壊してるんですか?

雪村 …何でわかったの?

 椿 多分、そうだと思って。

雪村 …正解。

 椿 どうして…?

雪村 …きっと、俺の中で、花氷は壊して初めて完成するものになっちゃったから。


 雪村、窓の外を見る。


雪村 壊さないと、って思うんだよね。

 椿 やめてください。

雪村 …え?


 椿、机から降りて雪村の隣に行く。


 椿 傷つけるのは、もうやめてください。

雪村 …。


 椿、花氷に触れる。


雪村 …冷たいでしょ?

 椿 あったかいです。

雪村 …。

 椿 雪村さんも、あやめさんも、あったかい人だから。

雪村 …そんなことないよ。

 椿 菖蒲は空中では生きられない。

雪村 …。

 椿 でも、氷の中でなら、ほんの一瞬だけど、空中で咲いていることが出来る。

雪村 …!

 椿 あやめさんにとって、雪村さんは、生きていける場所だったんです。きっと。


 雪村、立ち上がり窓から外を見る。

 雪村、声を出さずに泣いている。

 椿、花氷の後ろの机に座る。


 椿 …雪村さん。

雪村 …何?

 椿 どうして、俺に話してくれたんですか?

雪村 …。

 椿 似てたからですか。救いたかったからですか。それとも。

雪村 …そんな、立派な理由じゃないよ。…ただの自己満足。

 椿 …雪村さん。

雪村 …何?

 椿 聞いてくれますか。俺の話。

雪村 …うん。

 椿 俺、死ぬつもりでここに来たんです。

雪村 …うん。

 椿 このまま卒業して、受かった大学行って、どこかに就職したって、俺は生きられても、私は生きられないから。

雪村 …うん。

 椿 私が生きようとすると、それだけでいろんな問題が起きるのはわかってて。それがまるで、私には生きる価値がないって言われてるみたいで。

雪村 …うん。

 椿 俺だけ卒業するくらいなら、私と一緒に死にたいって。

雪村 …うん。

 椿 でも、俺の机に花氷があって。

雪村 …うん。

 椿 きらきらしてて、透き通ってて、今までに見たことがないくらい綺麗で。

雪村 …うん。

 椿 そんなことないってわかってても、生きてて良いんだよって、私の居場所はここにあるんだよって、そう言われてるみたいで。

雪村 …うん。

 椿 雪村さんが来て、たくさん話してくれて、俺でも、私でも、変わらずにいてくれて。

雪村 …。

 椿 誰かとこんなに安心して話せたのは久しぶりで、それこそ、氷が溶けていくみたいで。

雪村 …。

 椿 嬉しかったんです、私。それはきっと、あやめさんも同じです。

雪村 …。

 椿 だから。

雪村 …。


 椿、雪村の後ろに立つ。


 椿 雪村さん。

雪村 …。

 椿 卒業式、やりましょう。

雪村 …。

 椿 ここで。私と、雪村さんと、あやめさんの分。

雪村 …。


 しばらくの間。

 雪村、おおきく深呼吸をし、椿と向き合う。


雪村 …わかった。やろうか、卒業式。

 椿 はい。

雪村 とはいえ、どうする?

 椿 え?

雪村 何か作る? 卒業証書とか。

 椿 ちゃんとやるんですね。

雪村 やるからにはね。

 椿 わかりました。ちょっと待ってください。


 椿、机の中からルーズリーフを取り出す。


 椿 どうぞ。

雪村 …俺が書くの?

 椿 言い出したのは雪村さんです。

雪村 そうだけど…。

 椿 雪村さんの分は私が書きますから。

雪村 …字、下手だよ。

 椿 良いんです。書いてください。

雪村 本当に…?


 雪村、紙を二枚取り出す。

 椿、紙を一枚取り出す。

 それぞれ、服からペンを取り出して書き始める。


雪村 こういうのって、何が書いてあるっけ?

 椿 良いですよ、名前と「卒業証書」で。

雪村 それだけで良いの?

 椿 ちゃんとしたやつは明日もらえるので。

雪村 それもそうか。

 椿 でも、気持ちは込めてくださいね。

雪村 …何だか楽しそうだね。

 椿 そうですか?

雪村 その方がいいよ。女の子は笑顔が一番だから。

 椿 …一歩間違ったらセクハラですよ。

雪村 あれ、照れてるの?

 椿 照れてないです! 早く書いてください!

雪村 はいはい。

 椿 …下の名前、ひらがなですか?

雪村 ひらがなだよ。す、に濁点ね。

 椿 はい。

雪村 君の名前は?

 椿 そのままの漢字です。

雪村 わかった。

 椿 …出来ました?

雪村 うん。出来た。

 椿 じゃ、やりましょう。


 椿、証書を持って雪村の前に立つ。


雪村 …俺から?

 椿 年齢順で。

雪村 恥ずかしいな。こういうの。

 椿 読みますよ。

雪村 うん。

 椿 卒業証書、雪村しずく様。あなたは本校の全課程を終え、卒業したことを称します。


 椿、証書を雪村に渡す。

 雪村、受け取る。


雪村 ありがとう。

 椿 誰も悪くなかったんです。

雪村 え?

 椿 今までも、いろんな人に言われてきたのかもしれませんけど、言わせてください。

雪村 …うん。…ありがとう。

 椿 次は私ですね。

雪村 君の?

 椿 言ったじゃないですか。年齢順です。

雪村 …わかったよ。


 雪村、証書を持って椿の前に立つ。


雪村 卒業証書、中山椿様。

 椿 はい。

雪村 あなたは本校の全課程を終え、卒業したことを称します。

 椿 はい。

雪村 君がいつか、どこかで、綺麗な花を咲かせられることを、心から願ってるよ。

 椿 …はい。


 雪村、証書を椿に渡す。

 椿、受け取る。


 椿 ありがとうございます。

雪村 どういたしまして。

 椿 次…。

雪村 大丈夫、わかってる。


 雪村、証書を持って花氷と向き合う。


雪村 卒業証書、高崎あやめ様。

 椿 …。

雪村 あなたは本校の全課程を終え、卒業したことを称します。

 椿 …。

雪村 …。


 雪村、証書を花氷の前に置く。

 雪村、花氷にしばらく触れ、そっと離れる。


雪村 …。

 椿 もう、良いんですか?

雪村 …うん。

 椿 言いたかったこと、言えましたか?

雪村 言えたよ。ちゃんと。

 椿 そうですか。

雪村 随分、待たせちゃったけどね。

 椿 何を言ったんですか?

雪村 知りたい?

 椿 はい。

雪村 教えない。

 椿 …だと思いました。

雪村 嘘。

 椿 え?

雪村 さよならと、ありがとう、ってね。ずっと言えなかったから。

 椿 …そうですか。

雪村 だから、もう割らなくていいんだ。

 椿 …。


 二人、花氷を見つめる。


 椿 …作れますか?

雪村 …え?

 椿 椿の花氷。

雪村 …うん。

 椿 私でも、上手に出来ますか?

雪村 …もちろん。

 椿 教えてください。花氷の作り方。

雪村 …喜んで。


 二人、教室から出て行く。

 雪村、一度だけ花氷を振り返る。

 あやめ、教室の外から二人を見送り、中に入る。

 あやめ、証書を大事そうにポケットにしまい、花氷を手に取る。


あやめ …さよなら。


 あやめ、花氷にキスをする。

 窓から夕日が差し込み、あやめの姿は影になって浮かび上がる。


 ゆっくり暗くなっていく。


おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花氷 チヌ @sassa0726

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ