たとえあなたが他の誰かを愛しているとしても
藍銅 紅(らんどう こう)
【短編】たとえあなたが他の誰かを愛しているとしても
「すまないパトリシア・ル・バーデル。僕はあなたとの婚約を破棄したい。僕の真実の愛は、このジェシーに向けられている」
放課後の貴族学園。その学園の中に設けられているカフェは大勢の生徒たちでにぎわっていた。
級友とのおしゃべりに興じている者も、家からの迎えの馬車を待つ者もいるのだろう。百近いテーブル数と、そのテーブルの周りの椅子は、だいたい六割くらいがそんな生徒たちで埋まっており、また、そのテーブルの間を、給仕の者たちがせわしなく動いていた。
わたくしも、家からの馬車を待つ間、のんびりと薫り高い紅茶を楽しんでいた。
そこに現れたのが、わたくしの婚約者のブライアン様。
そうして、その右腕には薄桃色の髪の可憐な女生徒がしがみついていた。元平民、だけど最近デュブール男爵家の養女となったジェシー様だ。
婚約破棄をわたくしに告げたブライアン様とジェシー様は、わたくしの許可を取ることなく勝手にわたくしの前の椅子に腰を掛けた。
「……いきなりですわね、ブライアン様。一つお尋ねいたしますが、婚約の破棄は王家のご意向ですか? それともブライアン様個人のお考え?」
「……私の、意思だ」
「そう……」
わたくしは、手にしていた紅茶のカップをテーブルにそっと置く。
ため息を吐くのは淑女には似合わない。だから、傷心だろうとなんだろうと、わたくしはきちんと背を伸ばす。手をそろえて膝の上に置き、まっすぐにブライアン様を見る。
わたくしとは正反対にブライアン様は背を丸めるように俯いている。
だから、わたくしの大好きなアーモンド色の瞳が見えない。薄青色の髪はいつもなら晴れた日の空のようと感じるのに、今は雨に濡れてしおれた草のようだ。
「ごめんなさい、パトリシア様っ! あたしが悪いのっ! ブライアンを責めないでっ! あたしとブライアンは愛し合っているだけなのっ!」
ジェシー様のわざとらしいほど大きな叫び声。カフェにいた生徒や給仕たちが、一斉にわたくしたちのほうを見る。
……ああ、好奇心に駆られた視線が肌に突き刺さるよう。
きっと皆さま、面白がってわたくしたちを見ているのね。
だって、第三王子であるブライアン様が、元平民で、つい先日男爵家の養女となったばかりの小娘を選んだのだもの。
そして、学園のカフェなんていう人の集まる場所で、わたくしという侯爵令嬢に婚約破棄を告げてきたのだもの。
……愛を貫き通す王子様と、その王子に選ばれたヒロイン。そして、その二人の障害となる悪役令嬢役がわたくしというところかしら? 演劇や物語ではおなじみの構図ね。
わたくしは思わず自嘲的にくすりと笑ってしまった。
確かにジェシー様は、ヒロインとしてふさわしい庇護欲を刺激されるような外見をお持ちだ。ふわふわとした短い薄桃色の髪は軽やかで、髪と同じ色の瞳は涙で潤んでいる。
わたくしのように、鮮やかな金の長い髪を、らせん状に巻いているような髪型を持つ令嬢は、観客には、高飛車にも感じられることだろう。
まあ……ね。侯爵令嬢であり、第三王子の婚約者としての自覚をもって過ごしていれば、多少なりとも高飛車な様子であると思われても仕方がない。
だから、かわいらしいジェシー様をお選びになりたいブライアン様のお気持ちはわかるつもり。
……理解はできても、わたくしが傷つかないわけではないのだけれど。
「ブライアン様。わたくしとの婚約を破棄したいのなら、国王陛下にその旨申し上げてくださいませ」
わたくしは、ジェシー様を無視して、静かにブライアン様に語り掛ける。声を荒げたりはしない。
「パトリシア……?」
のろのろと、顔を上げられたブライアン様。困惑の表情が浮かんでいる。
「ブライアン様とわたくしの婚約は、国王陛下のご命令によって結ばれたもの。わたくしの父も、わたくしも、陛下のご命令に従っただけですわ」
「え……? き、君が、僕を好きになったから、無理矢理に婚約を結んだんじゃあ……」
「いいえ、違います」
かわいそうだけれども、そこを間違っていただいては困る。
「ブライアン様のお母様でいらっしゃいますアデル様は、国王陛下の四番目のご側室。陛下に愛されて、ブライアン様がお生まれになりました。けれど、アデル様は子爵家のご令嬢でありましたわね。子爵家では、王家に嫁ぐための持参金も用意できなかったのですよ。ですから、我がバーデル侯爵家がアデル様のご実家の代わりに持参金並びにアデル様の王城での生活費を支援させていただきました」
「え……? 母の……?」
「ええ。しかしながら、我がバーデル侯爵家も、慈善事業でアデル様をお支えしたのではございません。アデル様をご支援する代わりに、ブライアン様とわたくしの婚約を結ぶ……ということにしたのです」
正確に言うのならば、妊娠していたアデル様が王子を産めば、バーデル侯爵家の娘をその王子の嫁にする。アデル様が姫を産めば、バーデル侯爵家の男児にその姫を嫁がせる……という契約だったそうなのだけれど。
結果的に、アデル様は王子を産み、ブライアン様と名付けられ、そうして同じ年に生まれたわたくしが婚約者となった。
ただ、それだけだ。
「支援の代わりに……」
「ええ。ですから、我がバーデル侯爵家はアデル様がご側室となり、ブライアン様がお生まれになって……それからずっと、アデル様とブライアン様の生活や社交のための費用を支援させていただいてきたのです」
これまでそんな事情を知らなかったのか、ブライアン様は呆然としていらっしゃる。
「それじゃあパトリシア様はお金でブライアン様との婚約を買ったんじゃないっ! ひどいわ!」などとジェシー様がまた騒いでいる。
わたくしは冷めた目でジェシー様を見る。睨むことはしない。
「お間違えなきよう。わたくしとブライアン様の婚約が結ばれるということは、わたくしが生まれる前から決まっていたこと。わたくしの意向ではございませんのよ」
そう、わたくしが生まれる前から決まった婚約。
わたくしに逆らえる術などない。
わたくしは言葉を覚えるのとほぼ同時に、婚約者がいることを教えられた。
「ご側室であるアデル様、そしてそのご子息で第三王子のブライアン様。二人を王家の一員としてふさわしい暮らしができるよう、我がバーデル侯爵家が陛下よりご下命いただいたにすぎませんわ」
淡々と、告げる。
感情など、一切、声音にも表情にも出ないように。
「ですから、わたくしとの婚約を破棄したいのであれば、ブライアン様から国王陛下に申し上げてくださいませ。今後わたくしとの婚約は不要。我がバーデル侯爵家からの支援も不要。ブライアン様はそちらのジェシー様との真実の愛に生きると」
ブライアン様の唇がはくはくと、無意味に動く。言葉は発せないようだ。
それはそうだろう。我が家がアデル様とブライアン様にしてきた資金提供。その金額がいくらかなんて正確な費用はわからなくても、子爵家の令嬢が王家に嫁ぐための持参金を考えただけでも膨大な費用だとわかるだろう。
しかも、ブライアン様は今十七歳。
アデル様がご妊娠中から計算したとしても十八年間我が家の資金援助があったからこそ、アデル様もブライアン様も、王族として不自由しない暮らしを享受してきたのだ。
もちろん王室から、側室であるアデル様に対していくらかの生活費は出る。だけど、それだけでは足りないのだ。
正妃であれば、茶会を開くための金は、国庫から捻出される。
だけど、側室は自分の金で茶会を開かねばならない。
正妃やほかの側室たちと張り合うために、美容にも気を配らなくてはならない。
金はいくらあっても足りないくらいだ。
けれど、アデル様のご実家は子爵家。アデル様が一か月に使う化粧品代すら、子爵家では用意できないだろう。
「わたくしは、ブライアン様との婚約がなくなったとしてもかまいませんわよ。陛下のご命令とわが父の命によってブライアン様の婚約者としていただけですもの。あなたがわたくしを不要というのならば、わたくしはあなた様の前から去るだけです」
力なく背を丸め続けるブライアン様と、それでもきゃんきゃんと煩く喚くジェシー様を放って、わたくしはすっと立ち上がる。
「ああ……、ご安心くださいませ。ブライアン様がお生まれになる前から今まで、あなた様とアデル様に我がバーデル侯爵家が支払った支援金を、返せとは言いませんわ。それから婚約破棄における慰謝料も一切いりません。……ですが、今の時点を以て、ブライアン様とアデル様に対する援助は打ち切らせていただきますね」
にっこりと、わたくしができる限りの微笑みを向ける。
そうして、背を伸ばして、淑女の礼を執る。
咲き誇る薔薇のように美しい礼を。ブライアン様の心に、一生残るように……と。
「さようなら、ブライアン様。……お慕いしておりました」
「パ、パトリシア……」
「後天的に、植え付けられた恋心ではありましたけれど、それでもわたくしはあなたとの未来が良きものであるようにと、ずっと願っていたのです……」
わたくしの言葉の意味が、ブライアン様に伝わるだろうか?
まあ……伝わっても伝わらなくてもどちらでもよい。
ブライアン様がこの貴族学園で、ジェシー様と懇意になってから、わたくしが何もしないでいたわけではない。
すでに我が家では、ブライアン様を見捨てる準備はできている。
もしもブライアン様が、わたしに誠意を見せたのなら、話は違ったのかもしれない。
だけど、こんな人の集まる学園のカフェで、いきなり婚約破棄を叫ぶなんて。
そんな手段を取った場合に限り、わたくしがわたくしの判断で、ブライアン様との婚約をなくしていいと……すでにわたくしの父と、国王陛下の許可を取り付けてある。
アデル様には何も言っていない。
ジェシー様は、何も知らないのだろう。
わたくしとブライアン様の婚約がなくなれば、ご自分がブライアン様に嫁げると思い込んでいる。
「……まあ、お二人が婚姻を結ぶことくらいは可能かもしれませんけれどね」
男爵とはいえ一応貴族だ。
第三王子へと嫁ぐための持参金は……まあ、用意できるかもしれない。
そこは男爵家やブライアン様の頑張り次第かもしれない。
だけど、仮にブライアン様の元へジェシー様が嫁げたとしても、その生活はきっとジェシー様の考えるようなきらびやかなものではないだろう。
王城の片隅か離宮かどこかで、ひっそりと暮らすしかない。
飢えはしないけれど、他の側室や王子や姫たちのように、最新のドレスに身を包んで、毎夜パーティに参加する……のは無理だろう。
良くて壁の花。
悪ければ、嘲笑の的。
わたくしという侯爵家の娘との婚約を破棄して、男爵家の養女に過ぎない小娘の手を取った愚か者。
ブライアン様は、そう思われるでしょうね……。
それから、これまで我が家からの潤沢な資金援助によって、贅沢をしてきたアデル様。彼女ももう、これまでのような暮らしをすることはできない。その原因であるブライアン様とジェシー様を、アデル様は責めるだろう。罵るだろう。
……まあ、それでも、陛下に認められて、王城に残ることができるのならば、よいかもしれない。
まともな状況判断のできない第三王子など、王室から放逐されるかもしれない。
ブライアン様が男爵家に婿入りするかもしれない。
男爵家は、養女に過ぎないジェシー様を元の平民の身分に戻すかもしれない。
少なくとも、わたくしのお父様やバーデル侯爵家に連なる者は、ジェシー様の男爵家を虫けらのように潰すでしょう。
わたくしのお母様は、ジェシー様の義母であるデュブール男爵夫人をお茶会などに招待することはないだろう。それどころか、バーデル侯爵家に仇を為したものとして扱うだろう。
バーデル侯爵家の不興を買ってまで、デュブール男爵と懇意にする貴族がこの国のどこにいる?
ブライアン様の、そしてジェシー様の末路を思えば、ズキリ……と胸が痛む。
今は、まだ、痛む
だけど……。
生まれた時から婚約者はブライアン様だと教え込まれてきた。
後ろ盾がないも同然のブライアン様をお支えするために、わたくしは必死になりいろいろなことを学んできた。
淑女教育。王子妃としてふさわしい儀礼。近隣の諸外国語。領地の経営。いくつかの商会も設立した。
わたくし個人の商会の売り上げだけで、ブライアン様やアデル様の生活を支えられるところまで利益は上がっている。第三王子であるからして、王位の継承はきっと無理。それでも一生ブライアン様をお支えできるだけの準備はしてきたのだ。
わたくしはブライアン様の婚約者だから。
いつか、結婚をして、子をなして……そうして、幸せな一生を共に送るのだと……そう、ずっと教え込まれてきたから。
だから、わたくしは、ブライアン様に『恋』をした。
旦那様になる方だから……と。
思い込み……と言っても過言ではない。
恋をしたから、ブライアン様を支えようと奮起したわけではない。
逆だ。
婚約者として、ブライアン様を支えなければならなかったから、義務であるよりは自主的に、自らブライアン様のために動けるようにと、恋心を育てたに過ぎない。
だから、わたくしのブライアン様に対する感情は、教え込まれた恋心。
後天的な愛でしかない。
相手がブライアン様ではなくて、他の方だったとしても、わたくしは、きっと、その方を愛したことでしょう。
でも、わたくしの婚約者はブライアン様で。わたくしが生まれた時からずっとブライアン様を支えよ、愛せと教育を施されてきたのだ。
だから、愛した。
植え付けられた恋心でも、それでも、愛していると感じていた。ずっと、ずっと、何年もの間、ずっと……。
後天的な、教え込まれた感情でも、わたくしはブライアン様との未来を夢見てきたのだ。
けれど、ブライアン様は、違ったようだ。
ジェシー様のような可憐なかたがお好きなら、わたくしは、ブライアン様に対する恋心をすっぱりと捨ててしまおう。
そう思うのに、生まれる前から植え付けられた恋心は、そう簡単には消えてはくれない。
「ブライアン様……、たとえあなたが他の誰かを愛しているとしても、わたくしの、あなたに対する気持ちが、周囲から教え込まれたものであっても……、それでも、わたくしは、あなた様を……お慕いしておりました」
わたくしの瞳からすっと一筋涙がこぼれて落ちた。
ドレスの布を、涙が濡らす。
だけど、その涙はすぐに乾く。
わたくしの、ブライアン様に対する恋心などもすぐになくなる……きっと。
だから、ブライアン様の末路がどうなろうと、そのころにはわたくしの心は動かなくなっているでしょう。
さようなら。
お慕いしておりました。
心の中で、潮騒のように何度も何度も繰り返す。
十日後、第四王子とわたくしとの婚約が結ばれたと、父から聞かされた。
ブライアン様のお姿は、王城にも、貴族学園にも見えなくなった。
アデル様も、ジェシー様も、だ。
彼らがどうなったかなど、わたくしは考えないようにしている。
だけど、潮騒は、わたくしの心の中に、今もまだ響いている。
それでも、わたくしは一歩を踏み出す。
「パトリシア・ル・バーデルでございます。第四王子殿下、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
ブライアン様、お慕いしておりました。だけど……さようなら。
わたくしは、今から第四王子を愛すると決めました。あなたにそうしたように、わたくしはこれから第四王子への愛を育てることにいたします。
だから、本当に、さようなら。
もう、思い出すこともないでしょう。
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過去に小説家になろう様に投稿したお話です。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
たとえあなたが他の誰かを愛しているとしても 藍銅 紅(らんどう こう) @ranndoukou
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