第4話 竜の花嫁

 夜、千代は縁側に座り夜空を眺めていた。

 月は明るく輝き、青白い光が辺りを照らしている。風は無く、虫の鳴き声だけが響いており静かな夜だった。

 しばらくして襖を開ける音が聞こえ振り向くと、そこには太刀を右手に携えた頼が居た。

 頼は穏やかな表情で千代に近づき、彼女の隣に腰を下ろした。

「美しい夜だな」

 と、頼が静かに呟く。

 千代は小さく頷き、

「……はい、まるで夢の中にいるようです」

 と答えつつも、その表情にはどこか不安の色が感じられた。

「千代さん、何か心配事でもあるのか?」

 頼は千代の顔を覗く。

 千代は一瞬、言葉を詰まらせたが、やがて月を見つめながら静かに話し始めた。

「私は、《竜の花嫁》として務めがあるのです。掟を破ってしまったから……」

 そこまで言うと、彼女は口を閉ざしてしまった。その先の言葉が出てこないようであった。

 不意に辺りが静かになる。

 虫達の鳴き声が一瞬の静寂に包まれた。

 空気が重く感じられ、何か大きな力が押し寄せてくるような感覚が全身を包む。

 千代は、立ち上がって夜空を見上げた。

 空が徐々に暗くなり始めた。

 月は夜空の中心に浮かび、淡く青白い光を放っていたが、やがてその輝きがゆっくりと失われていった。月の端に小さな影が差し込み、次第にその影が広がっていく。まるで見えない手が月を覆い隠すかの様に、月は徐々にその輪郭を失い、闇に飲まれていくようだった。

 空は異様なほど暗くなり、千代は息を飲んだ。

 その瞬間、胸の奥に何か不吉なものが忍び寄るのを感じた。自然の理を超えた現象が起こっていることに、千代は畏怖の念を抱かずにはいられなかった。

 月蝕が進行するにつれ、千代の胸に押し寄せる不安と恐れは一層深まっていった。

まるで天地が逆転し、世界が一瞬で変わってしまう様な、そんな異様な感覚が彼女を支配していく。

「そんな。今日が月蝕だったなんて……」

 千代は部屋に行き、白衣に緋袴という巫女装束に着替えると、頼が呼び止めるのも聞かずに急ぎ神社へと走った。

 竜ノ宮神社に到着すると、千代は社殿の前に座り、祝詞を唱え始めた。

「天地を司り、万物の生を守護し給う大いなる竜王よ、その御力にて我が村を育み、恵みを与え給いしこと、常に感謝申し上げます。

 いま、天に兆し現れ、月が影を帯びし時、その不吉なる光に恐れおののき、我らの心乱れるも、全ては竜王の御心のままにございます。

 どうか、我が身を捧げ、御心を鎮めたまえ。

 この身は《竜の花嫁》として、誓いをもって生まれしものでございます。

 もし我が行いに過ちありし時、その罪を贖うため、我が命も魂も差し出す所存にございます。

 どうか、我らをお許しくださり……」

 しかし、いくら唱えても周囲を包んでいる闇に変化はなかった。

 空の様子はますます不穏になり、月は完全に影に覆われてしまった。突然、地面が震え始めた。遠くから雷鳴のような轟音が聞こえ、村全体が揺れるような感覚に襲われた。

 それはすなわち、千代が犯した罪に対する罰であった。

 彼女の頬を涙が伝った。自分がしたことへの後悔が胸の中に広がった。

「千代さん……」

 その時、ふと後ろから声がした。振り返ると、そこに立って居たのは頼だった。

「竜王が……!」

 千代は驚愕の声を上げた。

 神社の境内から奥にある山の方を見つめる千代と頼の視線は、徐々に迫りくる巨大な影に釘付けになった。

 山肌を揺るがせる様な低いうなり声が響き渡り、空気が重く沈むような圧力が彼らを包み込む。

 月明かりのない夜であっても、徐々に山のシルエットから浮かび上がってきた。その巨体は、まるで山自体が動き出したかのような圧倒的な存在感を放っていた。

 竜だ。

 竜の鱗は岩のように硬く、黒光りしており、離れていても土石流が生じる時の様に、土と苔の匂いが漂ってきた。

 その四肢は太く、まるで大木の根のようにしっかりと大地に食い込んでいる。あしゆびは細長くしなやかに伸びた形をし爪は鋭く、まるで大地を切り裂くように力強い。竜の尾は長く、先端には棘のようなものがいくつも生えており、一振りするだけで周囲の木々をなぎ倒していくことだろうと思われた。

 そして、何より特徴的なのはその顔だ。トカゲに魔が憑いたかの様な異形で、頭部は大きく裂けたような口を持ち、そこから覗く牙は鋼よりも頑丈に見えた。

 その全長は、13間(23.6m)はあろうかと思われる。

 竜は山肌を崩し移動を行っている。

 その先には村があった。

「私のせいで村が……」

 千代の声は震えていた。彼女の心は恐怖と後悔でいっぱいだった。

 竜の目は燃えるように赤く輝き、彼女の犯した罪、花嫁としての役目を果たせなくなったことに対する怒りが、その目に映し出されているように感じられた。

 手を地につけ深く項垂れる千代に、頼は自分も膝をついて彼女に面を上げさせた。

「事情を話してください」

 頼は、あの巨体を持つ竜を見ても全く動じていない様子だった。彼は千代の目をじっと見つめて尋ねた。

 彼女は小さく頷き、これまでの経緯を話し始めた。

 この地は、人が住むには悪環境であったという。

 土地は痩せ作物は育たず、漁に出ても魚は全く獲れないという状態だった。

 そんな時に現れたのが竜だった。

 竜は村の平和と豊穣を約束する代償として、自身に対する崇敬と感謝を表すだけでなく花嫁を要求した。《竜の花嫁》としての務めは、竜の怒りを鎮め奉仕を行うこと。

 その為、花嫁は恋を禁じられ、仕えるためには純粋な心を持ち続け掟に従って生きていかなければならないのだ。

 千代は自分の罪を告白し懺悔するように語った。

「私は、掟を破って竜以外に恋をしてしまいました。竜王は花嫁が誓いを破ったと感じ、そのせいで竜王は怒りを示すために村を襲おうとしているんです。

 月蝕が起こる夜、月の光が一時的に失われ、闇が世界を包み込みます。この現象は竜王にとって、闇の中で彼の力が最大限に引き出される時でもあるんです。本来は、《竜の花嫁》は祝詞を上げることでそれを防ぎますが……。私は、それを失念していました」

 彼女は再び頭を垂れた。その瞳からは大粒の涙が溢れていた。

 千代の言葉が終わると同時に、空はますます暗くなり、まるで夜が永遠に続くかのような深い闇が村全体を覆った。

 竜の咆哮が再び山中に響き渡り、その声は今や神社のすぐ近くまで迫っている。木々の間から、その巨大な影が見え隠れし、地面は揺れ続けた。

 神社のある高台から見ても、村の方が騒がしくなっていることが分かった。村人達は混乱し逃げ惑っているようだった。

 しかし、それも無理もないことだった。彼らはこの村以外に住む場所を知らず、逃げる場所などないのだ。

「清和様、村の人の避難誘導をしてください。田畑も家も失うことになるでしょうが、命があれば再建できます。お願いします!」

 そう言って頭を下げる千代に、頼は頷いた。

 彼は立ち上がり、すぐに駆け出そうとしたが足を止め振り返った。そこには千代の姿があった。

「千代さん! 急いで避難を!」

 頼は千代の腕を掴み、必死に彼女を連れ出そうとしたが、千代はその場から動こうとしなかった。

「いいえ清和様。これは私の責任です。私が竜王の怒りを鎮めなければ、村だけでなく人の命まで奪われかねません」

 千代の声は震えていたが、その目には決意が宿っていた。

 竜は怒りの咆哮を上げ、口から火を吐き出した。

 その炎は山肌を舐めふもとの村まで届くと、たちまち辺り一面を燃やし尽くした。火は風を呼び、竜巻となって村に襲い掛かった。家屋や田畑は次々と破壊されていく。

 村人たちの悲鳴が辺りに響き渡った。中には地面に伏して泣き崩れている者もいる。竜は再び地を揺らしながら前進を始めた。

 千代はそれを見つめて自身の罪に押しつぶされそうになりながら、神社の前まで迫る竜に対し、許しを請うように両膝を折って手をついた。

「竜王の怒りを鎮めるには《竜の花嫁》を生贄として捧げなければなりません。それが掟なんです」

 祈るように目を閉じる千代の後ろで、頼はただ黙って彼女を見つめていた。

 竜はゆっくりと距離を詰めてくる。

 その一歩一歩が地震となり、大地を揺らすのだった。やがて、竜は社殿の屋根に前足を置くと、屋根を破壊し始めた。瓦礫が飛び散り、土煙が舞い上がる。竜はそのまま千代達の前へと侵入してきた。

 竜の姿は二人の前にそびえ立った。間近で見る、それはまるで天を覆い尽くすかの様に大きく、また恐ろしく見えた。

 千代は震える手を合わせ、祝詞を捧げ始めた。彼女の声は最初かすかだったが、次第に力強くなり、竜の咆哮と混ざり合って響き渡った。竜の目が千代に向けられ、その怒りは頂点に達しようとしていた。

 しかし、千代は一歩も退かなかった。彼女は竜の目を真っ直ぐに見つめ、涙を流しながらも祈り続けた。彼女の声は、竜の怒りを受け止めるように、ひたむきで真摯だった。

「竜王よ。どうかお怒りをお鎮め下さい。あなた様が望むのであれば、我が命を差し出します。ですから、どうかこの地に住まう者たちの命だけは奪わないでください……」

 竜は彼女を見下ろし、その目に千代の姿を映した。

 だが、その目にあるのは憤怒だけだった。竜は唸り声を上げると同時に、大きな前足を振り上げた。

 鋭い爪が振り下ろされようとした。

 竜の爪が振り下ろされる瞬間、千代は覚悟を決めて目を閉じた。

 その刹那、風を切る音が聞こえた。

 強い風が巻き上がり、土煙が舞い上がった。

轟音と共に境内全体が激しく揺れた。

 千代は目を開いた。

 すると今しがた自分が居た場所の敷石が、竜の前足によって煎餅せんべいの様に割られていたことに気づく。

 一瞬の出来事だった。

 もしあのまま、そこに居たらと思うとぞっとするような恐怖を感じた。

 そんな安堵感が込み上げてきた時、ふと目の前に人影があることに気付いた。強い力で自分が引き寄せられたかと思うと、誰かに抱きしめられたのが分かった。千代が目を向けるよりも早く、耳元で声が聞こえた。

 聞き覚えのある声だったが、その時ばかりは彼の声を聞くだけで心が安らいだ。

「無事ですか?」

 頼だ。

 声の主である彼は心配そうに尋ねたが、その表情に動揺はなかった。千代は頼の腕に包まれ、彼の匂いを感じることで、彼女は思わず涙がこぼれそうになった。竜に喰われる覚悟を決めたつもりだった。村を守る為に人生を捧げるのが自分の役割だと聞かされて育ったが、彼と出会ったことで千代の中に揺らぎが生じた。

 何気ない語らいが楽しかった、自分の作った粗末な料理を美味しそうに食べてくれる姿が嬉しかった、誰も居ない住まいだったのに、自分を待っていてくれた時の彼の姿を思い出す度に胸が締め付けられるような気持ちになった。

 そして何より、彼が自分に向けてくれた優しい顔が忘れられなかった。

 もう会えないかもしれないと思った時、後悔の念に襲われた。彼を愛してしまったことを後悔した訳ではない。もっと一緒に居たかったという想いが溢れ出したからだった。

 しかし、今は違う。こうして彼に守られていることが何よりも嬉しいと感じることができた。

 彼の温もりを感じ、心から安堵した。

「清和様!」

 千代は危機を救ってくれた武士の名を叫んだ。

 頼は千代の頭を優しく撫でると、そっと彼女の身を離した。

 立ち上がった頼は、竜を見上げた。

 竜は頼を睨み付けた。その目は赤く輝き、口からは炎が漏れ出している。

「竜王か御大層な呼ばれ方をしているな。千代さんは掟を破ったが、少なくともそれまではお前のことを愛し続けていた。なら、お前も千代さんのことを想っていたのではないか? それなのになぜ、お前は怒りに身を任せようとしている」

 頼は訴えかける。

「……《王》は人をかしずかせ支配させる存在ではない。真の王とは、愛と慈しみをもって民を守り導く者だ。民が王を恐れて従うのではなく、心から王を敬い、その力を信じて皆を導く存在こそ、真の統治が成り立つのではないのか!」

 頼の問に竜は、口元を歪めた。

 それは見下しのわらいだ。

「この地は悪環境だったと聞いた。だが、それは本当にお前が変えたものか? 違うな。この地は人々の絶え間ない努力によって豊かな土地になったのだろう。竜王の力ではなく、人の力が実った結果なのだ。お前は、人の尻馬に乗っただけの哀れな存在でしかない!」

 竜はそれを聞くと逆鱗に触れたのか、頼と千代に向かって怒りの炎を吐きつけた。凄まじい熱気が二人を襲い、千代はムダだと分かっていても思わず腕で顔を覆うようにして防ぐしかなかった。

 周囲に太陽が落ちてきたかのように白くなり、千代は恐怖に顔を歪めた。

 千代は死んだと思った。

 恐る恐る目を開き、自身の姿を見るが服はおろか火傷一つ負っていなかった。

 周囲を見る。

 辺り一面火の海となっていた。煙が立ち上り、パチパチと音を立てて燃え盛っている。地面からは蒸気が立ち上ぼり、視界が悪くなるほどだった。

 しかし、そんな中でも頼の目はしっかりと竜の姿を捉えていた。

 頼の手には、腰に佩いていた太刀が抜かれ握られている。

 刃渡り、三尺五寸五分(約107.6cm)の長刀だ。

 刀身は、細身で腰から反りが強くつき、先が伏しごころとなった平安時代後期の古雅な姿を示している。地鉄は、板目肌が肌立ちごころとなり、白け映りのような映りが鮮明に立っている。刃文は、匂口が締まった直刃を焼いて区上で焼き落としている。鎬が高く、鎬地が強く柾目肌まさめはだとなっていることから、平安時代後期の大和国で制作されたものと考えられた。

 その姿は、古式ゆかしい太刀の姿を彷彿とさせるものだ。

 千代は、その時になって初めて理解した。

 頼が太刀を使い、炎を斬り裂いたという事実に。

「竜王の炎を斬るなんて……」

 頼の毅然とした態度で立ち続ける姿に、竜は巨体を揺らして距離を取った。それは驚きを意味していた。

「竜よ、驚くな。この程度のこと造作もない、この太刀ならな……」

 頼の太刀は、炎の照り返しではなく自らが光を放っているかのように光り輝いていた。それはまるで夜空に浮かぶ月のように美しくも妖しくもあった。

 その姿を見て、竜は確信する。

 猛獣が喉を鳴らすような畏怖を感じさせる唸り声で、一つの言葉を発した。

「……シシ、オウ」

 と。

 頼は目を細めた。

 次の瞬間、頼は太刀を手にして竜へと突進していた。

 その動きはまるで疾風の如く速く、瞬く間に距離を詰める。まるで稲妻が夜空を裂くような鋭さだった。

 竜は彼の動きを追うように、その巨体を大きくうねらせる。その動きだけで長い尾が倒壊した社殿を更に破壊し、うねりを上げて振り下ろす。

 頼はその攻撃を、間合いを詰めながら横に躱すと、そのまま懐へ入り、竜の鱗を鋼を砕くかのように胴を斬り上げた。鈍い金属音が鳴ったかと思うと、鱗の一部が剥がれ落ちる。

 並の刀剣ならば傷つけることすら叶わぬ竜の体を、頼は確かに斬り裂いた。

 竜は大きな口を開けて、叫ぶ。

 痛みを覚えるなど、生まれてから一度も感じたことのない感覚だった。

 竜は牙を見せると、頼を噛み砕こうとしてきた。それをすんでの所で避けた頼だったが、竜の首のうねりによって生じた突風により吹き飛ばされてしまった。境内を囲む木に背中からぶつかり、地面に倒れこんだ。

 頼は全身に広がる痛みに顔をしかめながらも、すぐに立ち上がる。

 竜は巨体とは思えぬ速度で距離を詰めて来ると、右前足を振り下ろして来た。間一髪それを避けると、竜の前足は木を大きく抉りながら、土煙を上げた。

 その威力を見て、千代の顔から血の気が引いた。まともに喰らえば命はないと思ったからだ。

 竜に人間が敵うハズがない。

 だからこそ、竜なのだ。

 しかし、頼は恐れることなく立ち向かう。

 自分を狙った竜の前足を太刀で斬ると、切断こそできなかったが刃は骨まで届き、肉を切り裂き鮮血が流れた。

 苦悶の表情を見せた竜であったが、すぐに尻尾を使って反撃してくる。今度は薙ぎ払う様に攻撃してきた為、頼は上に飛んだ。頼の真下を巨大な尾が通り過ぎると同時に彼は着地すると、再び竜へ向かって行く。

 千代は自分の見ている光景を信じることができなかった。

 人が竜に立ち向かう。

 目の前で起こっていることは現実なのか?

 それとも夢か幻なのだろうか?

 そんな思いを抱きながらも、目の前の出来事から目を離すことができない自分が居た。

 同時に、これが決して夢などではなく現実に起きていることなのだということを認識させられた。

 千代は恐怖から震える身体を自分で抱きしめながら、必死に頼の姿を目で追った。

 千代の瞳は頼の姿を捉え続けていた。

 竜の巨大な体躯と、その圧倒的な力に対して、頼が一歩も引かずに立ち向かっていく様子は、信じがたい光景であった。彼の太刀が閃くたび、竜の皮膚に深い傷が刻まれ、その巨体がわずかに揺れる。千代は、その一挙一動に息を呑みながらも、心の底で頼の勝利を祈っていた。

「清和様……。どうか……ご無事で」

 千代は震える声で呟いた。

 それは勝利ではなく、彼が無事であることに対する祈りだ。彼女の心は恐怖と希望の狭間で揺れ動いていた。竜の圧倒的な威圧感に飲み込まれそうになりながらも、頼の姿が彼女に力を与えていた。彼は、人でありながら、竜という神秘的で強大な存在に対して、怯むことなく立ち向かっていた。

 頼が竜の力を凌駕していく様子は、まるで神話の英雄のようだ。彼は竜の怒りを正面から受け止め、その力をねじ伏せようとしていた。

 竜は苦しみながらも再び左前足を振り下ろし、鋭い爪で頼を攻撃しようとした。

 しかし、頼はその動きを見切り、瞬時に太刀を構えてその爪を受け止めた。

 太刀と竜の爪が激しくぶつかり合い、火花が散った。その力比べにおいて、頼は一歩も引かず、むしろ竜の力を押し返していく。

 押し切る。

 竜は怯んだかに思えた。

 だが、それは次の攻撃に備える予備動作だった。

 竜は頭を高く持ち上げ、大きく口を開けた。

 次の瞬間、竜の口から炎の奔流が放たれ、頼に向かって突き進んできた。火炎は怒涛のように広がり、辺り一面を焼き尽くそうとする。

 しかし、頼はひるむことなく太刀を掲げ、全身の力を込めて振り下ろした。

 炎が激流の中に立つ岩のように真っ二つに裂ける。

 炎の流れはそのまま左右に分かれ、やがて消えていった。

 その様子を見ていた竜は再び驚き、目を見開いた。

 竜の目に映ったものは、燃え盛る炎の中で悠然と立っている一人の武士の姿だった。

 頼の持つ太刀の刀身には陽炎のような光が揺らめき、周囲には火の粉が飛び交っている。炎に照らされた彼の顔は凜々しく、その瞳は真っ直ぐに竜に向けられている。その姿はまさに鬼神の如くであり、見る者を圧倒させる迫力があった。

 竜は怒りに震え、地を踏み鳴らして周囲の大地を揺るがせた。その巨大な体と頭を低く構え、鋭い目が頼を見据える。

 竜の口元から、ただならぬ熱気が漏れ出していた。今までとは異なる、異様な熱の波が辺りに漂い始めたのを千代は感じた。

「清和様、気をつけて!」

 千代は思わず叫んだ。

 竜の体の奥が赤く輝き始め、その熱が長い首を通って次第に口元まで押し寄せてくる。竜は鼻から大きく息を吸い込むと、その胸が膨らみ、まるで火山が噴火する前のような不穏な活力が溜まっていくのが見えた。

 竜の口の端から溶けたような炎が溢れ出し、地面に触れた場所は燃えるどころか一瞬にして融解していった。

 頼はその異様な光景を目の当たりにし、眉をひそめた。彼は太刀をしっかりと握り直し、再び八相に構えを取り直した。

 竜が放つその炎は、これまでのものとは比べ物にならないほどの破壊力を持っていることを直感したからだ。

「正念場だな……」

 竜がついに限界まで力を溜め込み、大きく口を開いた。

 その瞬間、竜の口から巨大な溶岩の様な炎が奔流となって吐き出され、頼に向かって突き進んできた。

 火球。

 その炎の塊は地を焼き尽くし、すべてを溶かしながら進んでいく。まるで太陽の業火そのものだった。

 その炎の塊はヒトデの様に広がると、頼を包み込む様に迫ってきた。

 頼は竜の炎を斬る技量を持っていた。

 だから竜は考えた。

 炎を斬られるなら、斬られても頼を上下左右前後から包み込む形で攻撃すればいいと。例え避けたとしても火壁の周囲は溶融する程の高熱を発しており人間の肉体など一瞬にして蒸発してしまうだろう。

 逃げ場などない攻撃であった。

 頼は、その攻撃を迎え撃つべく、呼吸を整えると集中力を高めた。

「一緒に焦熱地獄に付き合ってもらうぞ。獅子王」

 すると頼は太刀の切先を、迫る火壁に向ける。

 太刀の刀身が青白い光りを放ち始める。

 頼はその炎に一歩も引かなかった。彼は太刀に全ての力を込め、竜が放った必殺の炎に逃げるどころか前に進み出た。

 太刀が矢の様に閃き、頼は火壁に向かって突き進んだ。

 爆ぜる。

 火の壁は破裂し、頼は衣に火を纏ったまま一直線に駆け抜けた。

 そして、その先にいる竜の顔めがけて突進すると、そのまま太刀を竜の眉間に突き立てた。

 太刀と鱗と肉と骨が、ぶつかる鈍い音が境内に響く。

 一瞬の静寂。

 竜の頭が、ゆっくりと地面に落ちていった。

 続いて胴体はゆっくりと横倒しになり、最後に残った尻尾も追従し崩れ落ちる様に倒れたのだった。

「清和様、勝った……のですか?」

 千代は竜を打ち倒した武士の姿を見た。

 頼の衣には火が付いており、肉を焼く悪臭が鼻をつく。それは彼が火傷を現在進行系で負っていることを意味していた。戦いの役にもたたず、ただ守られるだけしかなかった千代ができるのは、火をはたき落とすことしか思いつかなかった。

「清和様!」

 千代がそう呟くと共に、頼の元に駆け寄ろうとする。

 だが、頼はそれを叫んで制した。

「来るな!」

 その叫びと共に竜の目に光が宿り、伸びた左前足が頼の胸から下を湯呑みでも持つ様に掴んだ。竜の巨体が蘇った様に起き上がり、首を持ち上げる。竜は眉間を貫かれ半ば、その顔は死んでいたが、怒りの形相で牙をむき出しにしていた。

 頼は宙吊りになる。

 竜は圧倒的な力で頼を握ると、岩に圧迫されたかの如き力で爪が彼の身体に食い込む。頼は内蔵損傷から喀血し、口元を赤く染めあげる。

 竜の目には怒りと憎悪が渦巻いており、その巨体が再び目の前で甦ったように動き出した。頼の視界に、竜の牙の間から漏れ出る灼熱の炎が映る。竜の喉の奥で、再び炎が猛り始める音が聞こえた。

 頼の身体はもはや動かず、激しい痛みが全身を駆け巡っていた。血が口元を赤く染め、彼の呼吸は浅く苦しげだった。

 頼は、もはや身動きが取れず、完全に詰んでいた。

 千代の目には、頼が絶望的な状況に追い詰められているのがはっきりと見えた。戦う術のない自分ができることは命乞いだけ。彼女は、その場にひざまずくと竜に懇願した。

「やめて! 清和様を殺さないで!」

 千代は震える声で、その心から湧き上がる強い感情を抑えきれなかった。

「竜王。私は……。私はあなたにすべてを捧げると誓いました。それでも、彼だけは……清和様だけは奪わないでください。彼がいなければ、私の命に何の意味もありません。どうか、お願いです……」

 千代の瞳には涙が溢れ、その声は震えながらも必死に訴え続けた。

「私は清和様を心から愛しています。彼と出会ってから、初めて自分が生きていると感じられるようになったのです。彼がいるから、私は生きていられます。彼の存在が私の全てです。

 命が必要なら、どうか私を殺して下さい。清和様を助けるためなら、私は何でもします。私の全てを捧げます。だから……お願いです。どうか、清和様だけは、私から奪わないで……。」

 千代は涙を流しながら、竜にその想いを伝えた。

 頼は千代の懇願を耳にし、その言葉が心に深く染み渡った。彼は千代が自分をどれほど大切に思っているのか、その覚悟を初めて理解した様に感じた。

 彼の胸に痛みが走ったのは、単に身体の傷のせいではなかった。千代の言葉が、自分に対する愛情が、心の奥底に届いたのだ。頼は目を閉じ、千代の声に耳を傾けながら、静かに呼吸を整えた。

(千代さん……)

 頼は心の中で彼女の名前を呟きながら、自分が今まで何を守ろうとしてきたのか、改めて思い返した。彼が戦ってきた理由、これからも戦い続ける理由が、目の前のこの女性にあると強く感じた。

 だが、頼は千代にその想いを口にすることなく、ただ静かに心の中で誓った。彼女の為に、彼女が生きられる未来の為に、何としてもこの竜を討たなければならないと。頼の瞳には微かな光が宿り、その決意を示すように静かにを気取られぬ様、静かに握り直す。

 竜の怒りは収まることなく、喉の奥で炎がさらに激しく燃え上がる音が聞こえてきた。

 竜は唾棄でもする様に千代の前に火を吹いた。

 千代は眼の前で突然燃え上がった炎の大きさと、焼けただれそうな熱量に慌てて退いた。彼女の顔に悲壮感が浮かぶ。命がけの千代の訴えは、虫けらの様に踏みにじられた。

 竜の牙の間から炎が漏れる。

 このままでは頼は焼かれて、死ぬことは確実だった。千代には、それを見ていることしかできなかった。

 そこで千代は気づく、竜の眉間に太刀が無いことに。

 竜の顔が、頼に近づく。

 竜の身体から発生した炎が喉を、ゆっくりと登る。

 避けようのない距離から炎を吐こうとしているのが分かった。

 目の前に迫る竜の顔が、まさに息を吹きかけようとした、その瞬間、頼は最後の力を振り絞り、意を決して行動を起こした。

「待ってたぞ……!」

 頼は残された僅かな力を振り絞る。激痛が走り、口の中に血の味が広がるが構わない。彼は、竜の下顎に向かって手にしていた太刀を突き刺した。

 竜の下顎に亀裂が入り、そこから火炎が噴き出すのが見えた。

 竜の目が大きく見開かれる。

 今まさに、竜は炎の息を吐き出さんとしていた。

 頼は血を吐きながら、太刀を握る腕に力を込めて竜の喉をかっさばいた。

 次の瞬間、竜の喉から溢れ出した炎が噴出し、激しい熱と共に噴き出した。

 その炎は瞬く間に竜の内部から外部へと広がり、頼と竜の双方を包み込む。

「清和様!」

 千代は、その光景を目の前で見ながら叫ぶ。

 炎が竜巻となって巨大な竜と頼の姿を飲み込み、その熱気が周囲に広がっていく。

 千代は手を伸ばしたが、すでに手遅れだった。

 巨大な火柱が立ち上る。

 火の粉が飛び散り、木々を焼き尽くしていく。火柱の中で、竜の体が炎に包まれていくのが見えた。その熱量は凄まじく、周囲の地面や岩までも溶解させていく。まるで地獄の釜がひっくり返されたかの様な有様であった。

 千代は魂が抜けた様に座り込むしかなかった。彼女の着物の裾も熱で焦げ付つくが、それを気にすることはなかった。眼前で起きたことが信じられなかったのだ。

 頼はどうなったのか?

 そんなことを考えることすら無意味である気がした。今見ている光景こそが現実であり、受け入れる他なかったからだ。

 どれだけの時間が流れたのだろう。

 月蝕は終わり、月の光が降り注いでいた。

 やがて火柱が消えていくが、そこには何も残っていなかった。

 全てが灰となり燃え尽きたのだ。あれほど大きかった竜の骸すら残っていないほどの威力だったのだ。

 そこには、ただ焼け焦げた大地と、消え去った炎の残り香が漂うだけだった。頼がどうなったのか、竜がどうなったのか、全てが炎の中に消えてしまったようだった。

「清和様……」

 千代は涙を流しながら、頼の名前を呼んだ。

 しかし、その声に応える者はもういなかった。

 辺りにはただ静寂だけが広がり、炎の跡だけが竜との戦いの激しさを物語っていた。

 ただ、竜との壮絶な戦いは終わりを迎えたことは確かだった。

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