第3話 千代の気持ち

 武士は清和せいわらいと名乗った。

 彼の話では数年前まで江戸にいたのだが、今は諸国を旅していると言う事だ。

 彼が何故一人旅をしているのかと聞くと、特に目的はないらしいが強くなるために各地を渡り歩いているとの事だった。剣術を極めるために全国を巡っているのだと語ったので余程剣が好きなんだと思ったが、同時に、それがどれだけ危険な行為であるかを理解しているのか不安にもなった。

 剣を修行するということは対戦も含まれる。それは必然的に自身の命を危険に晒すことでもあるのだ。

 だが、本人は全く気にしていない様子で、むしろそれを望んでいる様にすら感じられた。

 頼が村に留まり、2週間が過ぎようとしていた。

 千代は薬草を新椀ザルに入れて、泉宅に訪れようとすると。ちょうど井戸の前に居た泉に声をかける。

 彼女はいつものように笑顔で挨拶をし、薬草を渡すと、泉は妙な表情で千代に尋ねる。

「ところで。あの、お武家様とはどうなんだい?」

 千代は思わず顔を赤らめた。その様子を見て泉は少し意地悪な笑みを浮かべると言葉を続ける。

 泉曰く、ここ数日の間に村人達が何度も千代の家に出入りする頼の姿を目撃しており、また二人が親しげに話をしている姿を幾度も見かけたというのだ。

「そ、それは村のことを訊かれていただけで……。それに、私は竜ノ宮神社の巫女です。引退する年齢までの恋は禁じられていますから」

 千代は、そう説明するもののどこか言い訳じみた口調になってしまう自分に情けなさを感じながら答えた。

 そんな様子をみて、泉は、やれやれといった風にため息をつくのであったが、その表情は穏やかであった。

 そして、不意に真顔になると真剣な口調で告げる。

「村の守り神である竜を祀る巫女という、お役目も大事だよ。でも、あんたの人生はあんたのもんだ。後悔だけはしないように」

 そう言って、泉は千代の背を軽く叩いた。

 千代は泉から貰った食材を手に、とぼとぼと住まいへと帰っていた。彼女は自分の置かれた立場や境遇について思いを巡らせる。

(私の人生は私のもの……?)

 その言葉を心の中で反芻はんすうしていると、ふとある考えが頭を過った。

 自分は今、自分が考えている以上に重要な選択を迫られているのだという事である。

 このまま巫女として身を捧げ続けるのか、それとも役目を捨てて想い人と共に歩むのか……。

 まとまらない気持ちのまま自宅に着く。

「ただ今、戻りました」

 住まいに入り、千代は土間から囲炉裏の隅に布団が畳んであるのを見た。それは頼が使っている布団だ。本人の気持ちを形にした様に清らかで乱れのない布団は整然としており、立つ鳥跡を濁さずという言葉が過った。

 彼が手にしていた太刀も無かった。

「そんな……」

 千代は新椀ザルの食材を、その場に落としてしまった。彼女が動揺するのも無理はなかった。なぜなら、この家から頼の気配が消えてしまっていたからだ。まるで最初から誰も居なかったかのように、生活感だけを残して消えていたのである。

 千代は立ち尽くしたまま、目の前にある現実を受け入れられずにいた。頼の気配が消えたことが、まるで心の中に大きな穴を空けられたように感じられたのだ。彼の存在が、こんなにも自分にとって大切なものになっていたことに、改めて気づかされた。

「清和様。どうして……」

 千代は震える声で呟いた。

 彼が去ってしまったという不安が胸を締め付け、息苦しさを覚えた。その場に落ちた食材に目もくれず、彼女はただその場に立ち尽くしていた。

 だが、その時、裏庭から聞こえてきた薪を割る音が、千代の心を現実に引き戻した。驚きとともに、彼女は一瞬その音が何であるのか理解できず、鼓動が早まった。

「まさか……」

 千代は息を飲み、足早に裏庭へと向かった。

 胸の中で膨らむ期待と不安が交錯する。もしかしたら、夢でも見ているのではないかという思いが過る。

 裏庭にたどり着いた千代の目に映ったのは、力強く薪を割る頼の姿だった。彼は真剣な表情で一振り一振り、斧を振り下ろしていた。彼がそこにいるという光景が、現実であることを千代に強く感じさせた。

「清和様……」

 千代は安堵のあまり、彼の名を呟いた。彼の姿が確かにそこにあることに、心の底からの安心感が湧き上がり、目頭が熱くなる。

 頼は千代の気配に気づき、手を止めて振り返った。

「千代さん、どうしたんです?」

 その声を聞いた瞬間、千代の胸に抑えきれない感情が湧き上がった。安堵と喜び、そしてこれまでの不安が一気に混ざり合い、彼女はその場に立っていることができなくなった。

 次の瞬間、千代は自分でも驚くほどの勢いで頼に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。

「清和様!」

 千代は頼の胸に顔を埋め、震える声で彼の名を呼んだ。彼女の腕は頼の背中にしっかりと回され、その温もりを感じながら涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。彼がそこにいること、それがどれほど自分にとって大切で安心できることかが、今ようやくはっきりと分かったのだ。

 頼は一瞬驚いたものの、千代の小さな肩が震えているのに気づくと、優しく彼女の肩を抱きしめ返した。彼の腕の中で、千代は次第に落ち着きを取り戻していった。

「千代さん、大丈夫だ。俺はここにいる」

 頼は彼女の耳元で静かに囁いた。その言葉は、千代の心に深く染み渡り、これまでの不安や恐れを洗い流してくれるようだった。

 千代は頼の胸の中で、小さく頷きながら、

「ごめんなさい、驚かせてしまって。ただ、あなたが居なくなってしまったかと思って……」

 と、涙声で言った。

 彼がここにいてくれること、それだけで彼女は十分だった。頼の胸に抱かれたまま、千代はその温もりと安心感に包まれ、心の底から幸せを感じていた。

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