第2話 太刀の武士
一週間前のことだ。
山林で村人が何かに襲われるという事件が起こった。
幸いなことに猟師が現場に居合わせたことで鉄砲によって事なきを得たが、村人の証言によれば化け物が出たという話になった。
多くの村人は半信半疑だったが、夜になると、どこからともなく聞こえてくる遠吠えのようなものを聞くたびに、不安な気持ちに駆られたのだ。
以来、山に入る村人は少なくなっていたが、
母の話によれば山林で化け物に襲われたと述べた。
千代は普段から薬草の採取で山道に慣れていただけに、誰よりも先行して山林に残された娘の捜索を勝って出たのだ。
霧の深い山林を千代は歩き岩陰で泣いている少女を見つけることができたが、そこに件の化け物が姿を見せた。身の丈、一丈(約3.03m)はあろうかと思われる全身毛むくじゃらで顔は猿に似た、手足は熊の様に大きく鎌の様に長い爪をした化け物だった。
千代は少女を抱いて逃げ出すが、すぐに転んでしまう。
迫る化け物に千代は恐怖のあまり動けず、ただその姿を見ていることしかできなかった。
その時だった。
誰とも知らぬ
その人を見た瞬間、千代は我を忘れてしまった。
それは、腕に抱いた少女のことすら忘れてしまうほどの衝撃を受けた。
まさに神の降臨とも言える光景だった。それほどまでに千代は、目の前にいる人物の美しさに心を奪われてしまったのだ。
青磁色の着流しに、黒い袴を履いていたのは、天与の美貌を持った青年だ。
癖のない艶やかな黒髪を背まで流し、その髪を房の付いた蒼い紐を使い首の後ろで一つに結っていた。
額にかかる髪の間からは、凛然たる双眸があった。澄んだ黒い瞳は、高く広がる空や、どこまでも広がる海を思わせる高揚さがある。
だが、女性にも稀な、その見目麗しい貌は、ただ顔形が良いから美しいのではなく、練磨された精神が見せる品性そのものだ。見る者に目からだけではなく、肌に、耳に、何より心に、深く快く感じられるものがあった。
徳が。
品性を得た者には、徳が生まれる。
青年の美しさの本質は、それであった。
緑の優しい草原が見せる大地の尊さ。
青くどこまでも輝く海の偉大さ。
赤く染まった夕焼けの壮大さ。
大自然が生み出した美しさは、人心を惹きつけてやまない。気高い徳を感じさせる青年に千代は一目で惹かれてしまった。
武士は、鋭い目で怪物を睨みつけると、一瞬の迷いもなく腰に佩いた太刀を抜いた。
【太刀】
日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60 cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで
刀が刃を上向きにして腰に差すのに対し、太刀は太刀紐を用いて刃を下向きにして
これだけ見れば単なる佩用の違いだが、その構造も太刀と刀は異なる。
太刀は刀の前身となる刀剣で、平安時代~安土桃山時代にて、馬上での戦いを想定して発展したものであるため、反りが強く長大な物が多いという特徴がある。
太刀は刀に比べて、馬上で戦うために刀身が
速やかに抜き合わせて敵を制するには、反りが浅く長過ぎず軽便で使いやすい刀が好まれるようになった。やがて太刀は騎馬戦から徒歩戦という戦闘様式の移り変わりによって、第一線の座から姿を消していく。
だが、太刀の性能は刀に劣るものではない。
騎馬武者が戦闘の主力となった時代に誕生した太刀は、そこに至る二つの理由があった。
第一の理由は、騎馬武者が着用する重く強固な大鎧が、今までの直刀では断ち斬れないこと。
第二の理由は、戦闘の規模が拡大するのに伴って、長時間の使用に耐えられる軽量性が求められたこと。
頑丈かつ軽量な構造を追及されるという、この相矛盾する要求に、太刀の製法はかつてない工夫が施された。
鍔元に比べて剣尖近くの幅が極端に狭い太刀は、小峰で踏ん張りが強い。
すなわち、片手でも扱いやすい軽量でありながら手元が重くなるように作られ、取り落とすことが少ない。反りは
大鎧を断ち斬ることを目的としていただけに、両手で握って扱う時の斬撃力は非常に高くなり、熟練者の手にすれば人間に致命的な傷を負わせることはもちろん、人間の四肢を切断するには充分な威力がある。
なお、太刀という呼び名は、断ち切る刀という意味である。
太刀は、斬る性能に優れ、比較的軽量であるため扱いやすく、攻撃にも防御にも有利な刀剣なのだ。
太刀の刃は月光を浴びて一瞬きらめき、次の瞬間には怪物の巨体へと迫る。
武士の動きは素早く、太刀筋は鋭く正確だった。
化け物が咆哮を上げて武士に襲いかかるが、武士は恐れることなく一歩前に踏み込み、力強い一撃で怪物の腕を斬りつけた。
血飛沫が飛び散る中、武士はさらに追撃をかけ、斬撃を重ねていく。
怪物は苦しみながら後退し、武士の勇猛さに一瞬怯んだかのように見えたが、怯えて動けない千代と少女に狙いを定めると、再び襲いかかった。
武士は、その行為を、身を呈して止める。彼は背中を裂かれるが、それでも倒れることなく、怪物の前に立ちふさがった。
そして、武士は太刀を化け物に振り下ろす。
肉を切り裂く鈍い音が辺りに響き渡り、やがて静寂が訪れた。
激しい攻防が繰り広げられたが、最後は武士の一撃により決着がついた。
化け物はその場に崩れ落ち、二度と起き上がることはなかった。
戦いが終わり、千代が安堵の表情を浮かべていると、武士は傷ついた身体のまま千代と少女の元に駆け寄った。
無事を確かめる為だ。
そして、千代が無事であることを確認すると安心したのか、その場で気を失ってしまったのである。
その後、千代は村人達を連れて武士を救助し、何とか命を取り留めた武士は数日の間、眠り続けた。
高い熱を出した武士に薬を調合し、献身的に看病をしたのは千代だった。
今、武士は千代の住まいに身をおいていた。
千代は食材の入った籠を手に、村の通りを抜けて神社の境内の外れにある住まいへと戻った。戸を開けると、土間に足を下ろして草鞋の紐を結んでいる武士の姿があった。
千代は驚く。
「何をしているんですか」
突然の武士行動に動揺しつつも平静を装って問いかけた。
すると、武士は答える。
「……世話になった。俺は、もう旅立たなければならぬ」
その言葉に衝撃を受けながらも、彼女は毅然として言った。
「何を言ってるんですか。ようやく傷が塞がったばかりなんですよ!」
しかし、武士は静かに首を振った。
千代を振り切って、武士は太刀を手に立ち上がるが、脚には芯が入っていないかのようにふらついていた。
千代は武士の身を
「……お願いです、無理をしないでください」
千代は切実に訴えた。彼女の声には、これまで感じたことのない温かさと柔らかさが込められていた。美しい青年の力強さと同時に見え隠れする脆さに触れた千代は、今度は自分が彼を支え守らなければという想いに駆られていたのだ。
武士は、自分を支える千代の手に目を落とし、その優しさに気付いたか目を伏せた。
「俺は、ここで世話になる訳にはいかない。しかし、あなたのその気持ちは、ありがたく思う」
千代は、武士の言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「なら、せめて傷が完治するまでここにいてください! ……それに、行く当てはあるのですか?」
青年は言葉に詰まる。
千代の見立てでは、彼は武者修行中の剣士だと想像した。ならば、傷も癒えていないうちに旅立つというのは無謀としか思えなかった。
千代は武士が論じて来るよりも先に言葉を発して先手を取る。化け物から救ってくれた、この心優しい青年を守りたいと思ったからだった。
「先日の様な化け物が、まだ居るかも知れません。居てくだされば村の者も安心します。どうかもう少し、ここに留まってくださいませんか?」
千代の声は震えていたが、その言葉には彼を失いたくないという純粋な気持ちが込められていた。彼女の目は真剣で、武士の心にも深く届くものがあった。
武士は一瞬、何かを考え込むように視線を伏せたが、やがてその目を千代に戻し、静かに頷いた。
「……分かった。少し、ここに留まろう」
彼の言葉に、千代の顔に笑顔が広がった。それは嬉しさのあまり泣き出しそうな笑みだった。
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