――翌日、昼から第一局が始まった。ロイの介添え人はサン伯爵の執政だけなのに対し、ルイスの方には辺境伯、元帥、そして護衛と称する剣士が二十名もいた。

 そんな敵地真っ只中でも、ロイは、傍目から見ても全く衰えなかった。しかし、本人は自分の指が震えていることに気が付き、幾度も自分を叱咤していた。


 対局が終わった。第一局は、ロイの完勝であった。供回りの者は狂喜したが、当の本人は、明らかに憔悴しきっていた。

 リコは、エルマーと共に教会の別室で待機し、審判が読み上げる駒の配置に耳を傾けていた。その間、誰も声を発しないので、子供にはどうもやりづらい。

 終わって、皆が引き上げる間際、彼は飛び上がり、


「ちょ、ちょっとトイレ。先に帰ってて、後で行くから」


 と、彼は駆け足で厠に向かった。

 間一髪、リコが用を足していると、厠の外から微かな話し声が流れてきた。


「莫迦者っ。良い所なしの完敗ではないか」

「申し訳ありません。ですが、明日は必ず」

「ううむ……。そうだ、捕えたミアとかいう娘のチェス駒があっただろう。あれを使おう」


 聞き耳を立てている内に、声の主二人は遠ざかった。リコは、何事も無かったかのように手を洗い、急いで宿に戻っていった。


 宿の部屋に戻ったロイは、食事も摂らず一心不乱に、チェスに書物に眼を通した。エルマーとリコがやって来て、


「ロイ殿、マイヤー辺境伯軍元帥から届け物だそうです」

「何だと? 袋?」


 と、ロイが袋を開けてみると、バラバラとチェス駒が出て来た。その中のクイーンの駒だけが、首が取れたように割れている。

 不吉な贈り物に、ロイは顔を顰めた。エルマーは理解出来ず、


「どうかしたのですか?」

「い、いや何でも無い。気にするな」


 と、ロイは言い繕うと、足早に寝所へ行った。エルマーが怪訝な顔をしていると、リコが、駒をしげしげと見て、


「あれ? これミアさんのだよ」

「ミア君の?」

「そう言えば、昼間……」


 と、リコは厠で盗み聞きした会話をエルマーに伝えた。エルマーは、顎に手を当て、


「そうなると、ミア君は何者かに拉致されたということになる。まさか、元帥が」

「エルマーさん、僕の勘だけど、最近暴れてる盗賊の頭はあの元帥だよ。この間、聞いた声とそっくりだった」

「ああ。俺も頭目と打ち合ったが、彼奴の眼光があの元帥と同じだった。汚い真似を……」

「どうしよう?」


 と、リコはエルマーを見た。彼は少し考えると、小声でリコに何か言い始めた。


 翌日、またも昼から対局が始まった。エルマーとリコは、別室待機をせず、対局が始まると何処かに消えてしまった。

 第二局も滞りなく進んだ。しかし、ロイの脳裏には、娘の割れたチェス駒が絶えず浮かんでいた。自分が買い与えたチェス駒と、それを使っていた娘の笑顔を、忘れられる筈がない。

 彼の表情の変化を見抜いた元帥は、


「おや、ロイ殿。駒にヒビが入っておりますよ。これは不吉ですな。早速、お取り替え致そう」

「……いいえ、結構です」


 と、ロイは声を震わせながら固辞した。


 エルマーとリコは、密かに会場を抜け出し、例の元帥宅へ赴いた。エルマーは、小門を叩き、


「御免! 元帥閣下から、火急の用事だ。すぐ開けてくれっ」

「へいへい。今すぐに」


 と、中から声がして、ゆっくりと門が開かれた。エルマーは瞬時に腕を伸ばし、小者の襟首を引っ掴んだ。

 そして、ニヤリと笑い、


「今から俺が、面白い詰めチェスを見せてやろう。さあ、中に案内しろ」

「僕は勝負の見届け人だよ。悪いことは言わないから、早く中に」

「チェスが厭なら、俺の剣技はどうかな? お前のようなポーンの首ならポーンッと落とせるぞ」

「エルマーさん、サムいよ」


 そのまま、彼らは人が殆ど出払った邸宅を、何の遮りもなく歩いた。小者は、生まれたての子鹿みたいに身体を震わせて、庭の隅にある蔵へエルマー達を案内した。

 エルマーは、彼に当身を喰らわせて気絶させ、蔵の扉を蹴破った。埃っぽい臭いが鼻をつく。薄暗く湿っぽい蔵の奥に、ミアが一人、手首を鎖で吊られて壁に凭れていた。

 逃げられないよう服を破かれ、僅かに隆起した双丘が露わになっている。人を人とも思わぬ扱いに、リコは思わず眼を背けた。エルマーは彼女に近付いて、


「ミア、ミア君。しっかりしろ」

「……!」

「リコ、突っ立ってないで手伝え。お前がミア君を担ぐんだ。俺は周りを警戒するから」


 と、エルマーは帯剣の柄頭で、発止と鎖の根元を破壊した。引き締まったミアの両腕が、解放されてゆっくりと下ろされた。エルマーは「逃げるぞ」と先んじて外を警戒した。

 猿轡を解かれたミアは、近付いて来たリコを睨み、


「遅いじゃないかッ。連中がボクに、何しようとしてたか解る?」

「え?」

「ああ、全く。情けない。そんなんだから、リコは男のくせに女の子みたいな顔になるんだよ。一緒にいる人とは大違い」


 意気阻喪とした様子は微塵も無い。想像の埒外の反応に、リコは困った顔で頭を掻いた。

 エルマーは「逃げるぞ」と先んじて外を警戒し、リコは、自分の上着をミアに掛けてやり、そのまま彼女を背負おうとした。

 ミアは眼を皿のように見開いて、真っ赤な顔で、


「何するんだよっ。子供じゃないんだから、自分で歩けるっ」


 と、リコの頭に拳骨を落とし、愛用の八角棒を持って外に出た。リコは、痛む頭を押さえながら、


「グーはないだろ、グーは!」

「何してるの? 早く逃げないと捕まるよ」

 

 と、ミアは勝気な笑みを見せ、外に出て行った。リコは舌打ちして彼女に付いていった。


 ――エルマー達三人が、ロイの宿に戻ると、供回りの連中は意気消沈していた。その日の対局は、まだチェックされていないにも関わらず、ロイが投了したというのだ。

 エルマーは再現された盤面を見、首を傾げた。リコも、


「どう考えても、勝ち負けはこれからだよね?」

「ああ。ロイ殿が此処にナイトを進めれば、次の手ではチェックだって取れる。……まさか。ロイ殿が心配だっ」


 と、エルマーはロイの部屋の戸を叩いた。応答がない。リコと腹を満たしたミアもやって来た。

 ミアは二人の様子に呆れたようで、


「切羽詰まった顔することないよ。パパも、もう歳だから疲れやすいの」

「……」


 エルマーは戸の向こうから立ち込める、淡い月影のような死の気配を感じ取っていた。彼は「失礼!」と言い放って扉を開けた。

 豁然、三人の視界に飛び込んできたのは、血の冥勃に沈むロイの身体であった。頸動脈を掻き切って自刃していた。

 

「パパ……? パパ、パパッ!」


 と、ミアは父の屍体に飛び付いた。


「は、早くッ。早く医者を!」

「もう亡くなっている。遅かった」


 と、エルマーは無情な一言を告げた。

 他人からの宣告は、鬱勃していた父への情、悔恨を噴出させるには充分であった。ミアは、人目も憚らず、滂沱の紅涙を流した。

 リコも歯噛みして、痛恨の念に堪え得ない様子。ふと、彼は卓の上に、手紙が置かれているのに気が付いた。手に取って見れば、『上』と表題に書かれている。


『本日の対局、投了致したるは、それがし一人の身勝手故候。辺境伯軍元帥、我が娘を拐かし、それがしを脅迫し候えば、それがし投了致し候。たとい、不肖の娘といえど、真に我が子に候。然れども、家臣に候間、私情故に御国の大事を誤り候。以て、自刎してお詫び申し上げ候』


 リコは読み終わると、それをエルマーにも見せた。そして、彼は勃然と奮い立ち、


「エルマーさん! もう我慢ならないっ。城中に斬り込んで、辺境伯と元帥の素っ首刎ねてやるっ」

「待つんだ。二人ではどうにもならない。それよりも名分を立てるんだ」


 と、エルマーはミアを見た。父の死骸に突っ伏して、なおも背中を震わせている。エルマーは彼女の横にしゃがみ込み、


「弔い合戦だ。明後日、チェスの最終局がある。お父上の代わりにお前が指すんだ」

「……出来ないよ。ボクは、パパみたいになりたくないから、家出したのに」

「意気地のないことを言うな。リコに聞いたが、随分と修行して、チェスの腕前を上げたそうじゃないか」


 ミアはそれでもかぶりを振って、涙で充血した眼をエルマーに向け、


「出来ないったら出来ない! パパの代わりに戦うなんて、無理だよ」

「莫迦者!」


 と、エルマーは彼女の頬を平手打ちした。地面に倒れ込む彼女を、リコが慌てて支えた。

 エルマーは眉を嶮にして、峻厳な顔付きで、


「お前のお父上は、勝てる勝負を投げた。袂を分けたつもりでも、愛おしい我が子を片時も忘れなかったのだ。心底、愛おしいお前のために、サン伯爵領の命運まで投げ出したのだ。その心が解らないのか!」


 ミアは俯いたまま、黙って啜り泣いた。リコはエルマーに近付いて、小声で、


「それはそれだけど、あの連中どうするの? 勝ったとしても、あんな外道、許しておくの?」


 リコの問いかけには応じない。

 代わりにエルマーは、雄駆を伸ばす雄獅子や猛虎でも、忽ち昏倒しそうな形相で、一言、


「許さん……!」

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