屋敷に帰ったロイは、娘のミアを広間に連れ込んだ。エルマーとリコは何も言えず、ただ事の成り行きを見守っていた。

 ミアは黙ったまま顔を背けているし、ロイは峻厳な表情でそれを睨むしで、部屋の中はとても重苦しい。

 ロイは、


「十五の小娘が、黙って家を出て行ったきり、三年も連絡もしないとは何事だっ。今まで何処で何をしていた。それに、そんな男みたいな格好で」

「……パパには関係無い」

「何だと。親に向かって、その口の利き方はなんだっ」


 ロイは声に力を込めて凄んだ。ミアは柳眉を逆立てて、父を睨み、紅舌を励まして、


「親? 生まれてからボクを、ただの社交で使う令嬢としてしか扱わず、子供だと思ったことなんて無いくせにっ」

「謝ることもなく、開き直るとは。こんな不肖の娘を持った自分が恥ずかしい」

「今更、父親面しないでよっ。少しは話になるかと思ったら、大間違いだった!」


 ミアは踵を返し、大股に立ち去った。リコは少し逡巡していたが、慌てて後を追い掛けた。

 エルマーは父子を交互に見て、


「先生、よろしいのですか? 本当にご息女、もう帰られませんよ?」

「……構わん。あんなの娘でも何でもない。捨て置け。エルマー、そなたも余計な世話を焼くな」

「そんなこと仰らずに。たとえ軋轢があっても、この世にたった一人しかいない、先生の子ではありませんか」

「……」


 頑固な父親は、痛いところを突かれたのか黙りこくった。

 久方振りに、ミアが帰って来たと聞いたので、腕によりを掛けて料理をしようと思っていた女中は、一部始終を見て、


「旦那様、どうして素直になれないのですかっ。お嬢様が家出されて以来、旦那様は毎月、私の名でお金を届けさせていたではありませんか。お嬢様がいつ帰っても良いように、お部屋の掃除を欠かさぬようお命じになったのは、旦那様ではありませんか」

「言うな。今日はもう寝る」


 と、ロイは私室へ引っ込んでしまった。


 屋敷から逃げるように出たミアに、リコは後ろから声を投げた。


「ミアさんのお父さんなのに、喧嘩したままで良いんですか?」

「煩いんだよ、パパは。娘なんだからこうしろああしろって。ボクは、好きで女に生まれたんじゃないのに」

「……」

「男は良いよね。何をしても、親から煩く言われることなんてない。ボクはリコが羨ましいよ」


 と、ミアは、うんざりしたとでも言いたげに嘆息した。リコは返す言葉も浮かばなかったが、絞り出すように、


「石に布団は着せられないのに……」

「何ブツブツ言ってんの。気分悪いから、ボクはもう帰るよ」


 と、ミアは親心も知らぬまま、紅唇を尖らせたまま夜道に消え去った。


 ――翌日、サン伯爵領と隣接する領邦の主マイヤー辺境伯は、例のルイスと一緒に、チェス盤を挟んでいた。

 戦況は、辺境伯に不利である。彼はチェックを受け、頭を掻きながら、


「いや、予の負けだ。相変わらず強いのう。お前とロイ・ヴェルンスとが対局したら、何方が勝つかな?」

「滅多に負けは致しません」

「さようか。全くヴェルンスめ……高禄で召し抱えると申したのに、それを蹴ってサン伯爵なぞに仕えおった」


 と、辺境伯は苦り切った顔である。すると、部屋の扉が開き、この領邦の元帥が入って来た。小肥りで背の高い男で、軍袍を着ると一段と引き締まって見える。

 彼は、主君の前に跪き、


「そのサン伯爵領ですが、我々の盗賊活動によって、店を畳む者や農地を捨てる者達が多くなり、続々と我が領土に逃げ込んでおります」

「ふふふ。この際、伯爵領の富を根こそぎ奪い取ってやりたいものだな」

「ですが、彼奴らの警戒も厳しくなり申した。このままでは、捕えられる者も現れます。そうなれば、一連の押し込みが我が領邦の仕業だと露顕致しましょう」


 それを聞き、辺境伯は頬杖を突いた。次の一手を思案している。

 元帥は、したり顔で懐から地図を取りだして卓に広げた。サン伯爵領とマイヤー辺境伯領との、国境付近の地図である。 


「煎じ詰めれば、伯爵領の富は、銀山より生じております。彼我の国境は、このヨルド河でございますが、一昨日まで降り続いていた沛雨で、上流が増水しております」

「成る程……。つまり、堰堤を破壊して、河の流れを変えてしまおうというのだな。よろしい、すぐに手配せよ。ヨルド河を氾濫させるのじゃ!」


 その夜、辺境伯の命令を受けた元帥以下数十名の兵は、驟雨と狭霧に乗じ、河の流れを変える堰へ侵入した。侵攻を受けるなど、夢に思っていない僅かな守備兵は、一人残らず斬殺された。

 屍体を河に放り込んだ後、辺境伯兵は続々と槌を手にし、堰の支柱や壁を破壊し、溢れ出る怒濤のように引き上げた。


 ――数日にして、国境の河の流れは一変した。サン伯爵領に大きく喰い込むように変形した河筋は、辺境伯の思惑通り、伯爵領の銀山を、河筋の外側にしてしまった。

 即日、サン伯爵領に使者が派遣され、


『此度の豪雨によって、国境の河の流れが大幅に変わった。そのため、慣習に基づき双方の領土を変更するよう、お願い申し上げる。拒まれるとあらば、当方、元帥以下精兵を連れ、閣下との談判に出向く所存』


 と、明らかに脅迫の手紙が送りつけられた。

 サン伯爵と執政は、手紙を見るや否、家臣全員に登城するよう命じた。ただでさえ今まで、辺境伯軍が国境付近で大規模な調練をしたり、事故に見せ掛けて矢を射かけたりしてきていたので、理不尽な要求に、家臣団は怒髪天を衝いた。

 「合戦だ」と口々に奮い立つのを、執政は宥め、主君に意見を乞うた。


「戦は、いかん。戦をすれば、良民は塗炭の苦しみに喘ぎ、王国の癇気に触れれば、忽ちお取潰しだ」


 と、病の床に伏せる伯爵は、蒼白い顔で言った。執政は、項垂れて考え込んだ。

 会議は騒然としてまとまらず、一旦休憩となった。その間、家臣達は思い思いに雑談する。エルマーは別室で待機していたが、ロイから事情を聞いて、彼に何事か耳打ちした。

 三十分ほどの休憩を経て、また会議となった。すると、ロイが不意に立ち上がり、


「此度の要求に当たって、一つ、血を流さぬ戦を提案致しとうございます」

「なんじゃ、申してみよ」


 然らば、とロイは膝を進め、


「チェスで勝負を付けるのでございます」

「何だと? この一大事に戯れ言はよせ」

「戯れ言ではございません。聞くところによれば、マイヤー辺境伯は大のチェス狂い。向こうも戦は避けたい筈です。こちらから申し入れれば、必ずや受諾するでしょう」

「ふむ……確かに当領にはそちがいるからな。相解った、そのように致そう。皆の者、それで良いな」


 伯爵の鶴の一声を受け、一同に反対する者はいなかった。数時間後、使いの者がサン伯爵からの返書を手に、城から出立した。


 サン伯爵からの提案を受けた辺境伯は、すぐに領内に布令を出し、チェス勝負のことを喧伝した。

 辺境伯領の首府の教会で、サン伯爵方ロイ・ヴェルンスとマイヤー辺境伯方ルイス・ヒエブラントが対局するという話である。どちらも天下に聞こえた名人なので、城下は俄に騒々しくなった。

 伯爵方の代表ロイの一行が到着すると、一目見ようと、住民達は沿道に蝟集した。その群衆の中に、ミアがいた。矢張り、血を分けた父親が少し気になるらしい。


 遠目に父の姿を確認すると、脇を固めるエルマーとリコに気が付かれる前に、彼女は裏通りに身を隠した。建物と建物の間で、湿気が多く薄暗い。

 ミアが俯き加減で歩いていると、彼女は俄に気配を感じた。腰に差した鋼鉄の棒は、伸縮式である。収縮時には二尺くらいになる。彼女はそれを取り、伸ばさずとも辺りを警戒した。

 路地の奥、闇の向こうから、男が歩いてきた。彼は、ミアの前に立つと、


「失礼、貴女はロイ・ヴェルンスさんのお嬢様ですね。ちょっと、お父上のことでお話が。実は、お父上は狙われておいでです」

「え? パパがっ。あッ」


 父親の名前を出され、ミアはつい油断した。後ろから迫って来たもう一人の男が、彼女の鼻先に布を押しつけ、強烈な睡眠薬を嗅がせた。

 ミアは、後ろの男に肘打ちした。渾力を込め、相手の腕を粉砕する。何とか拘束から脱したが、そぞろ歩きをした後、糸の切れたようにぶっ倒れた。

 

 ――ロイ一行には、城下でも特に質の悪い宿があてがわれた。雨漏りは多く、床も注意しなければ踏み抜いてしまう。

 用意して貰う身分でとやかく言えないが、明らかに侮られている。血の気の多い者は、切歯扼腕するばかりであった。

 深夜になって、皆が寝静まったのを見計らうように、ロイを訪ねて来た者がいた。マイヤー辺境伯領の元帥である。元帥は、まだ起きていたロイと会い、


「折り入って、内密に相談したき議がございまする。実は、貴殿のご息女ミア様のことですが」

「み、ミア?」

「先頃、当領内において、強盗と殺人の罪で捕縛されましてな。それがしも高官ゆえ、手立てがないわけではない。ご息女のお命を助けたければ、此度の試合、負けて頂きたい」

「……」

「沈黙は同意とみなしますぞ。では、よろしく」


 元帥は、皮肉な微笑みを見せて立ち去った。ロイは唇を噛み締めながら、床を睨んでいた。

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