三
ロイ・ヴェルンスの邸宅に逗留しているエルマーは、駆け出しの弟子扱いを受けていた。家の掃除、洗濯、馬の手入れなど、師匠の身の回りの世話をして初めて、チェスを教授してもらえる。
エルマーは自分から承諾したこととはいえ、「当てが外れたな」とぼやいていた。馬を洗っていると、この家で唯一の女中がやって来た。
彼女は、もう二十年もここで勤めているらしく、エルマーよりも遙かに仕事が早い。エルマーは彼女を見ると、
「いやはや、チェスの修行は厳しいものです。チェス駒を持たせてもらう前に破門です」
「旦那様、あまりに厳しすぎて、弟子は一月も持たないんですよ」
「確かに納得です。それだと、後を継ぐ者がいないですな」
エルマーが言うと、女中は哀しげな目をし、
「実は、お嬢様がいらっしゃるのです。ですが、厳格なお父上に反発して、三年前から、全く家に帰ってこられないのです」
「成る程……。親子のすれ違いですか」
「そうだ。旦那様が、これをエルマーさんにって」
と、女中は一冊の本を差し出した。表紙には『チェス類孝・入門編』と題が書かれてある。著者は、他でもないロイ・ヴェルンスであった。
エルマーが、何気なく開いてみると、紙が一枚挟まっていた。
『明後日までに読んでおくように』
と、紙には記されていた。
――ミアは、目の前の光景が信じられなかった。今、自分の陣営にはキングと僅かなポーンしか残っていない。そして、キングは逃げ場を無くしていた。
白い駒が、みるみる黒に取られていくのを、彼女はどうすることも出来なかった。ルイスは涼しげな表情で、扇子など使い、余裕綽々である。
ミアは俯いたまま、声を震わせて、
「ボクの……負けです」
「まだまだ、このルイスに挑むには未熟。いや、訂正しよう。駄馬はいくら頑張っても、駄馬に過ぎないからな。君は、駿馬にはなれぬよ」
「……!」
ミアは席を蹴って立ち上がり、そのまま広間から出て行ってしまった。リコは慌てて後を追っていった。
ミアは、選手それぞれにあてがわれた部屋に駆け込んだ。リコが恐る恐る扉を開けると、彼女は卓に突っ伏して背中を震わせていた。
リコは彼女の横に座り、
「ミアさん……勝敗は時の運ですよ。そんなクヨクヨすること無い」
「ほっといてよ。ボクが弱いから負けたんだよ。才能がないから」
「でも、チェスが好きなんですよね? 好きっていうのは、立派な才能ですよ」
と、リコが励ますと、ミアは、泣き腫らして真っ赤になった顔を上げた。紅涙が細く、頬を伝う。
ミアは少し落ち着いたようである。ゆっくりと静かな口調で、
「ボクはね……憎い相手に勝つために、チェスの修行をしてるんだ。それで自信があったのに、今日、それを見事に粉砕されちゃった」
「憎い相手? 誰ですか」
「この領邦のチェス指南役のロイ・ヴェルンス。ボクの父親。理不尽に厳しくて、いつも怒ってるから、ボク一人でもチェスなんて強くなれるんだってことを証明したい」
「・・・・・・」
「棒術だって、パパが危ないから辞めろって言ったけど、どんな師匠よりも強くなれたから、チェスだっていけると思ってた」
と、ミアは沈鬱な表情で俯いた。リコは何も言えず、気まずい雰囲気が部屋を支配した。
ふと、リコは話題を変えようと席を立ち、
「そうだ。今も言ってましたけど、棒術をやるんでしょ」
その時である。二人のいる部屋の近くで、女の悲鳴が響いた。リコは考えるよりも先に身体が動き、ミアが何か言う前に飛び出した。
声がした方向へ足を飛ばすと、この家の内儀が血まみれで斃れていた。その目の前には、ルイスがいる。リコは腰の短い剣を抜いて、
「おい! そこを動くな!」
と、叫んだが、ルイスは書斎の裏口まで逃れた。すると、戸を破って黒づくめの男達がどやどやと入って来た。
相手は十五人。どう考えても不利である。リコは歯噛みして後退りした。盗賊達は、ギラギラとした刃を近付けてくる。
右から、一人躍ってきた。リコは身を投げ出した。地面を転がって刃を躱す。相手の脾腹を鋭く抉った。起き上がった瞬間、また一人が斬りつける。リコは、身を仰け反らせた。刃が、眼前を過ぎた。
逃げる事も出来ない。リコには力がないので、エルマーのように斬りまくることも出来ない。囲まれた今、彼は防戦一方であった。
すると、彼の横にいた男が、血を撒き散らしながら吹っ飛んだ。更に、前の者も、骨の砕ける音と共に、壁に叩きつけられた。
「お前らが最近、暴れてる盗賊? 丁度良いや。憂さ晴らしついでに、ボクが退治してやるよ」
と、ミアは鋼鉄六尺の八角棒を構えた。一端を右の後ろへ深くしごき、左手は軽く、槍にすれば千段の辺りを握る。その応変の構えを見て、盗賊共は容易に斬り込まない。
廊下の方から、大勢の声がした。形勢不利と悟った賊の頭目は、「退却」と下知した。リコとミアは後を追ったが、敵は、統制の取れた素早い動きである。外に出てて、暫く追い掛けたが、真っ黒な集団は、一塊になって逃げていった。
ミアは舌打ちして棒を弄び、
「逃がしちゃったか、残念」
「凄いですね……うわ!」
リコは、ミアが持つ六尺の棒を引き寄せようとして地面に転がった。八角形の棒は、中身まで鋼鉄で出来ているらしく、その重さたるや、屈強な男でも腰が砕けるだろう。
リコは棒に潰され、泡を食って暴れ出した。ミアは呆れ返り、片手で軽々と棒を持ち上げた。それを掴んでいたリコも一緒に振り上げられ、そのまま地面に落下した。
ミアが柳眉を顰めると、リコは恥ずかしそうに頭を掻いた。その愛嬌のある姿に、彼女も思わず微笑んでいた。
「リコ? お前、こんな所で何やってるんだ」
不意に、後ろから声がした。聞き慣れた声の主は、エルマーであった。
リコは弾かれたように彼に近付いて、
「今まで何処にいたんだよ。こっちはエルマーさんを捜し歩いてたのに」
「すまんすまん。今、お城からの帰りだが、チェス指南役の先生がいらっしゃるぞ」
「下男にでもなったの?」
「莫迦。弟子入りだ。先生、これは俺の連れでリコといいます」
と、エルマーは後ろにいたロイに紹介した。ロイは仏頂面で、リコを見て、
「エルマーの連れなら仕方が無い。この町にいる間、私の屋敷に泊まると良い……む?」
「どうかしましたか?」
見開かれたロイの眼は、リコの先にいるミアを見ていた。彼はリコに構わず、ミアに近付いて、
「三年も家に帰らないなんて、何事だ!」
と、有無を言わさず平手で打った。そのまま、憮然とした表情のミアを連れ、「帰るぞ」と、夜道を早足で歩いていった。
エルマーとリコは状況が理解出来ぬまま、慌ててロイについていった。
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