三
夜が来て、朝になった。孤児院の苦境など余所に、今日も一日が始まった。爽やかに晴れた海沿いの町は、徐々に盛んな活動に満ちあふれる。
安宿で眼を覚ましたエルマーが孤児院に行ってみると、まだ早いというのに子供達が働いていた。瓦礫の撤去や、壁の修復など、仕事は山ほどある。セシール母子の元、皆が力を合わせていた。
昨日海で、エルマーの頭を棒で突いた少年ロイドが彼に気が付いた。やや警戒したような口調で、
「お兄さん、何しに来たんだよ」
「気になって様子を見に来たんだが、今日はパン屋は休みか」
「休みたくないから、こうやって働いてるんだよ。俺は九歳で、一番歳上だから、頑張らないと……そうだっ」
と、ロイドは何か閃いた。エルマーのことを見て、ニヤリと微笑んでいる。
彼はエルマーの腕を引いて敷地内の一角まで連れて行き、薪割り台の前で、
「お兄さん、あれだけ剣術が強くて力もありそうだから、薪を割ってくれよ。いつも、三人掛かりで何とか割ってるんだ」
「薪を? 俺がか」
「どうせ浪人なんだから暇でしょ? ね、お願いだから」
「別に構わないが……」
と、エルマーは文句を言う気も失せ、斧を持って、コンコンと薪を割り始めた。すると、表の方からセシールがやって来て、
「本当に有難うございます。お給金の方は何とか工面しますので」
「いや、薪を割っているだけです。それにしても、皆、幼いのに働き者ですね。リコとは大違いだ」
「誰が大違いですって?」
と、院長の後ろから声がした。リコが、寝惚け眼を擦りながら立っている。彼も孤児院のことが気になって、目覚めたままの姿でやって来たのだ。
剣も差していない寝間着姿に、エルマーは苦笑し、表の掃除を手伝うように促した。
――陽が高く昇った頃、漸く、パン屋は開店した。孤児院の収入源というだけでなく、親の無い子供達の社会勉強という趣旨である。
孤児院の母屋の大広間を使い、セシール達の焼いたパンが、香ばしい匂いを漂わせていた。味の評判自体は上々らしく、開店と同時に、客が列を為し始める。
エルマーは裏で黙々と、パン窯に使う薪を割り続けていた。すると、リコが溜息と共に逃げて来た。
「どうした。店の方を手伝っていたんじゃないのか」
「も、もう厭だよっ。あのロイド君、人使いが荒すぎるよ。僕も薪割りを」
「あ! こんな所にっ。リコ、怠けるなっ」
と、ロイドが遅れてやって来て、リコの襟髪を掴んだ。引きずられて行くリコを、エルマーは笑いながら見送った。
その時、母屋の方から悲鳴が聞こえてきた。客が、潮の引くように逃げ出していく。リコとロイドが母屋に飛び込むと、真っ黒な虫の大群が床を這いずり回っている。念入りに掃除をした筈なのに、数え切れない量の虫に、少女達は其処彼処を逃げ回っていた。
――怒り狂ったお客達を前に、セシールとジゼルは陳謝する他無かった。地面に手を付いて謝る二人を見て、孤児達は自分が悪いのではないかと愁眉を曇らせていた。
不意に、母屋の扉が開き、エルマーが、高手小手に縛めた一人の男を連れ込んだ。見れば、リード一家の一人であった。
「こいつが換気口で何か怪しげなことをしていた。捕まえてみたら、懐に虫を入れた瓶を入れていた。悪戯をしたのはこの男だっ」
と、男を床に叩きつけた。セシール母子も孤児達も一斉に彼を取り巻いた。ロイドは、いきり立って、男を殴ろうとしたが、エルマーが彼を止め、
「此処は俺とリコに任せろ。リコ、空き樽を持ってこいっ」
「はいよっ」
と、リコが素早く空き樽を転がしてきた。エルマーはニヤリと笑って男を見た。
大通りに、男の情けない叫びが響く。自分の放った虫を全て詰めた樽に放り込まれた男は、エルマーに樽ごと転がされ、暗闇の中で叫んでいる。
リコは先導して群衆を散らす役目をし、二人と樽は、リード一家の本部まで来た。リコは大層な正門をドンドンと叩き、
「頼もう! リード一家の親分さんにお目通り願います。開門、願います」
「そんなことでは駄目だ、リコ。おい、開けろ! 開けないと、門をぶっ壊すぞ!」
と、エルマーが腹の底から声を出し、門全体が震えるほど強く、二度三度蹴った。閂が外れたらしく、門が半開きになる。
エルマーは樽を担いで、ズカズカと敷地内に押し入った。止め立てしようとする者は、押し退けられたりリコに蹴飛ばされたりした。美しい庭園を抜けて、小さな建物の前まで行くと、果たしてそこに親分のリードはいた。
エルマーは樽を頭上に持ち上げて、
「お前が親分かっ。暴力沙汰だけでなく、卑怯な真似までするとは許せん。だが、お前の腐った性根が敵を作った。俺だ。俺は今日から、セシール孤児院の用心棒だ」
「僕もいるぞ。ロイド君達に手を出したら、タダじゃおかないぞっ」
と、リコが言うのと同時に、エルマーは、リードのいる部屋に向かって樽を投げつけた。壁にぶつかって弾けた樽から、男と大量の虫が飛び出てくる。
当然、部屋の中にいた連中は右往左往し、必死で虫を潰そうとして互いにぶつかった。宣戦布告したエルマーとリコは、その様子を見、笑いながら去って行った。
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