1章-1 ボロ屋編

異世界に立つ

 目が覚める、という言い回しが該当するのかはわからないが、それに近い感覚だったと思う。

 俺は薄暗い路地裏に立っていた。


 消えると思われていた意識ははっきりしており、四肢もしっかりついている。


 これといって特徴のない平坦な顔や剃り忘れた顎の無精髭もそのままであった。

 俺の体には迷彩柄の戦闘服やヘルメットがしっかりと装着されていた。


 手には、死の間際まで握っていた89式小銃が変わりもしない姿でしっかりと存在していた。

 リロードしたばかりの弾倉も、残り5つの予備の弾倉も。


 初めのうちはぼんやりと周囲の様子を見渡していたが、情報は全く入ってこなかった。


 何せ困惑していたのだ。

 この時の俺に簡単な足し算をやらせたら理解不能な答えが返ってくるだろう。


 とにかく、なんとか頭を整理して文字通り光の差す方へと歩いていく。


 視界に飛び込んできたのは、見知らぬ土地だった。

 というのも、見知らぬ土地と表記した通り


 中世、近世ヨーロッパ風の街並みに、コスプレのような格好の通行人達。

 中世ヨーロッパの庶民のような質素な服装や、革命期のフランスにいそうな貴婦人の姿もある。


 と、時代遅れのロングソードやアーマーを装備した連中が俺の前を横切っていった。


 我が日本には劣りはするものの、それなりに綺麗に舗装された道を駆け抜けていくのは、馬に似た生物と(顔は疑いようもなく馬なのだが、足が6本あった)それが引っ張る木製の車である。


 激しく笛を鳴らしながら、制服警官らしき男が道の真ん中で交通整理を行っているのも見える。


 彼らの格好と俺の格好を見比べれば、俺が浮いていることなど一目瞭然だ。

 銃を持っている奴もいない。


「……マジかよクソッタレ」


 ふと、足元に何かが触れた感覚があった。

 見下ろすと、白いもふもふが俺を見上げていた。


 丸い体はミニバスで使うボールほどの大きさで、全身が白い毛で覆われている。

 極小サイズの猫のような耳がついており、ビー玉のような目と小さな口もちゃんとある。


 なんだこいつは。

 猫でもないしモルモットでもない。


 だが、なんか可愛い。


「ぴゅう」


 鳴いた。

 めっちゃ可愛い。


 さっきの馬といい、こいつといい、ひとつ明らかなことがある。

 地球上に存在するものではない。

 これだけは確定事項だ。


 重度のオタクだった友人達の影響でジャパニーズ・オタク文化に触れてきた俺はここでなんとなく察することができた。


「異世界に来ちまったのか、俺は……」


 皆が俺に気づく前に、俺は路地裏に引っ込んだ。

 もふもふも俺に着いてくる。


 仲間への通信を試みたが、無駄な努力だった。


 途方に暮れて空を見上げている時に、俺はようやくがこの場にいないことに気がついた。


 なぜ今まで忘れていた。

 俺とほぼ同時に死んだ親友、佐原がいない。


 声をできるだけ立てずに、親友を探した。

 それでも、彼女は見つからなかった。

 自ら出てくることもしなかった。


「おーい、どこ行ったよ……? 隠れてねえで出てこいよ。悪戯にしちゃ悪質すぎんぞ……」


 声を発しても無駄であった。

 親友が姿を現すことはついぞなかったのである。


 周囲をもふもふと共に彷徨きまわって約1時間。

 猛烈な脱力感に襲われ、俺はその場にへたり込んだ。


 栗色の短い髪と、男が卒倒するほどの可愛らしい笑顔が何度も脳裏にちらつく。

 会いたいと何度も願った。

 出てきてくれと何もない空間へ懇願した。


 時だけが無情に過ぎていき、佐原が姿を現すことのないまま夜が来た。


 もう察している。

 答えは出ている。

 俺はたった1人で、この見知らぬ土地に放り込まれたのだ。


 俺は、両膝に顎をうずめて親友と謳歌した日々を思い浮かべる。

 あの頃に戻りたい。

 なんで俺達はあそこで死んだ。

 神は無慈悲だ。


 足元にじゃれつくもふもふを拾い上げ、抱きかかえる。

 その姿はまるで、幼子のようであった。


「……何でお前は来なかった」


 理不尽な文句を死者に向かって放つことしか、俺にはできなかった。




 ★★★★★★




 その夜。


 建物の屋根が俺の世界でいうところの月光を遮ってしまうので、元々暗かった路地裏はほとんど闇に包まれてしまう。

 さっさと暗闇に目を慣らして警戒しつつ、俺は蹲って動かなかった。


「……こんな夜には修学旅行を思い出すな。ホテルであいつ、女子のくせに夜の男子の部屋に堂々と入ってきやがって……。ゲームしたっけなあ……」


 未熟だと思う。

 同僚の死が戦場では日常茶飯事だということくらい理解すべきだろうが、俺にはできなかった。


 世間一般ではたった1人の自衛官の死。

 自衛隊という組織全体では1名の隊員の戦死。

 俺の中ではかけがえのない人物の死。

 第三者には決して理解されない感情がそこにはある。


「こんなところにたった独りで放り出して、神様は俺に何をさせたいんだか。世界を救え? 馬鹿言え、俺の仕事は日本国の防衛だぞ? 荷が重すぎらぁ」


 そんな独り言をただ繰り返す。


 俺の心はマリアナ海溝よりも深いところに沈んでいる。

 勇猛果敢な三等陸曹は見る影もなく、ここにいるのは帰らない死人にすがり続ける哀れな男。


「……お前だけだよ、俺の話聞いてくれるのは」


 側のもふもふに話しかける。


 俺はこいつに話しかけている体でいるが、実際のところただの独り言だった。

 このもふもふした謎の生物に、俺の言語が伝わるはずがないのだから。


「おいコラ! 逃げてんじゃねえよ!」


 暗闇の中から声が聞こえた。

 続いて、幾人かの足音と、人を殴打する音。


 暗闇に慣れた目は、小柄な人影を壁に押さえつける2人組をしっかりと捉える。


「あ、あう……!」


 女の声だ。

 襲われているのは女の子か。


 見た感じ、高校生くらいの少女だ。

 流石に細かい特徴は捉えられなかったが、この闇の中でも目立つくらいには可愛い顔つきをしている。


「うるせえー。お前らはな、一生俺たちにカネと道楽を提供し続ける運命なんだよ。逃げんじゃねえぞ」


「そうだそうだ! 762号のグズは負け犬に成り下がるのがお決まりィー!」


 どうやらただのカツアゲではなさそうだ。

 ヤクザの取り立てか、いじめの類か。

 どちらにせよ、放っておくのも気分が悪い。


 助けておくか。


 俺は立ち上がるのと同時に、もしもの事態に備えて銃剣を手に……。


 銃剣を……。


「ん?」


 銃剣がない。


 どこにも。


「はぁッ⁉︎」


 変な声が出た。

 男2人と少女が、ギョッとしたようにこちらを見る。


 だが、動転した俺に彼らを気にする余裕はなかった。


 何せ薬莢ひとつ無くせば夜が更けようと探し出す自衛隊だ。

 銃剣を無くすなど論外である。


 落ち着け。

 ひとまず深呼吸。


「お、脅かすなよ! ちょっとだけビクッとなったじゃあねえか!」


「お、おう、そうだ! ちょーっとだけだ!」


 ……いや、今は銃剣より先にするべきことがある。


 俺はゆっくりと奴らに近づいた。

 身長180センチを超える大柄な男の接近に、向こうも少しビビっているのがわかる。


 もふもふは着いてこない。

 黙って、銃の上に乗っかっているだけであった。


「あぁー? なんだてめー」


「もしかしてだが、見てやがったのかァ?」


 女の子を押さえつけたまま、2人組が俺を睨みつけてくる。


「早いこと消えな。マックスさんを敵に回したくはねえだろ?」


「そのマックスさんが誰かは知らんが、そういう行為は生産的じゃないな」


 ぽかんとしているのか、奴らの動きが止まった。

 そのうち、少女の口から声が小さく漏れる。


「た、助けて……くれるの……?」


「そのつもりだが、事は荒立てたくない。自分から民間人に手を上げるのは褒められた行為じゃあない。殴っていいのは外敵とそれに与する者だけだ」


「その言い方から察するに……あなた、軍人なの?」


「それに近い者だ」


 男達の体が強張る気配がした。


「……どうする?」


「いや、やろう。女にセクハラしようとしてた悪徳兵士をぶちのめしたって兵舎に突き出せばいいィ!」


「それもそうだな。オイ、軍人に近い存在の兄ちゃん」


 1人が少女から手を放し、俺の側に近寄ってくると肩に手を回してきた。

 酒臭い息が顔にかかるが、俺は平静を装う。


「重要な話し合いの結果、てめえをぶちのめすことにしたぜ。そのムカつく鼻をもぎ取って、汚え豚公の鼻と取り替えてやるぜ」


「残念だったな! 喧嘩を売ったお前が悪いィィ!」


「ここじゃ暗くてよく見えねえ。ガジュの光の下に来な。気色悪い顔をじっくり見てやるからよお」


 男に引っ張られるようにして、俺は月光の下に出た。


 月はガジュというのか。

 勉強になった。




 男3人、ガジュの光の下に出る。

 酒臭い方が俺を羽交い締めにし、別の奴が俺の前で指をポキポキと鳴らした。


「何だァ、そのカッコはよおおお? ワン公がクソする芝生みてえな色しやがってええ」


「何て例えだ、品がない。相棒の臭い息も品のなさ故か?」


「ケッ……。じゃあ、どっから……?」


「殴られる箇所を選ばせてくれるのか?」


「俺だってよ、悪魔じゃあねえェ。悪い悪い天使なんだよォん」


 光の下に出た事で、男の顔がはっきり見えるようになった。

 悪い悪い天使は痩せこけており、骸骨のようだった。


 悪意を存分に塗りたくった笑みを貼り付けている。


「さー、選べェ。言っとくが、俺は魔法が使えるんだぜ? 拳に炎をまとえるのだァ……!」


 奴の右手がぽっと明るくなった。

 言葉の通り、拳が燃えている。


 あれで殴られたら大火傷だろう。


「ヘェ……?」


 俺は、笑った。

 挑発の笑み。

 敵対者への笑み。


 相手が動揺するのがよく見える。


 俺は万歳して素早くしゃがみ込み、羽交い締めから逃れる。

 目にも止まらぬ速さであると自覚している。


 その証拠に、酒臭い男は羽交い締めの態勢のまま突っ立っている。


 俺はまたしても素早く立ち上がると、今度は酒臭いゴロツキの背後に回り込んでヘッドロックを仕掛けた。


 苦しそうにうめきながら、ゴロツキが俺の腕を掴む。

 驚くほどに力が弱かった。


「じゃあよお、このお方の鼻をぶん殴ってくんねーかな?」


 俺は悪い悪い天使に言ってやった。

 向こうは呆然と眺めていたが、やがて正気に戻ったのか、威勢のいい声で喚き出した。


「て、てんめぇ! ニックを解放しやがれェ! でねぇとその目ん玉を……!」


「豚のモンに取り替えるのか?」


 首を絞められた男は懸命に抵抗するが、俺は決して離さなかった。


 次第に力が弱まり、顔色がおかしくなっていく。


「窒息しちゃうぞ? ホラ、殴りなよ」


「お、おい! やめてくれェ! ニックが死んじまうゥ!」


「じゃあニック君を殴るんだ」


「許してくれェ!」


「ノー。早く殴れ。君の言う通り殴る箇所を指定したんだ。それに応えるべきじゃないのかな?」


「な…………殴れ……」


 辛うじて声を絞り出す酒臭い男。

 痩せた男はあたふたしていたが、やがて意を決したのか、こっちに近づいてきた。


「殴られるのはてめえだァ!」


 そう言うが早いか、男は俺の顔面に炎をまとったストレートを繰り出してきた。


 俺は咄嗟にニックを盾にし、難を逃れる。


 悪い悪い天使の拳はニックの鼻をへし折り、肌を焼いていた。


「よし、殴ったみたいだな。お約束通り解放してやる」


 俺はニックを解放してやる。

 奴は地面に蹲って、ハアハア言っていた。


「な、なんてヤローだァ!」


 痩せた男は、鼻を押さえて呻くニックに駆け寄り、彼を引きずるようにして退散していった。


「言っとくが、俺はお前らを殴っちゃあいないからな」


 去り行く背中に、俺はひと言付け加えてやった。



○○○




【89式小銃】

自衛隊が採用している主力小銃。隊員達からの愛称は「ハチキュウ」

日本向けにのみ生産されている関係上、他国の主力小銃に比べると高価だが、日本人に扱いやすい構造となっており、64式小銃の後継として全国各地に配備されている

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