尽くす人形

北比良南

尽くす人形


 ※この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません。


 薄暮が差し込むリビングルームに、穏やかな静寂が漂っていた。窓の外では日が傾き、柔らかなオレンジ色の光が家々を包み込む中、蝉の声が遠くで響いていた。そんな中、携帯電話が微かに振動した。画面には懐かしい名前が浮かび上がっていた。「健一」――高校時代からの旧友の名だ。最後に会ったのは、六年前のこと。彼が仕事の都合で海外赴任する直前だった。その後、互いに忙しさに追われ、連絡を取ることも少なくなっていた。


「健一か……珍しいな」


 そう呟きながら電話を取り上げた。


「おお、久しぶりだな!」


 電話の向こうからは懐かしい声が聞こえてきた。健一の声は、昔と変わらず、どこか陽気で飄々としている。しばらく互いの近況を話し、笑い合った。時折、学生時代の思い出が蘇り、話は尽きることがなかった。彼が海外での生活や仕事の話をするたびに、時間があっという間に過ぎていくようだった。


 どれだけ時間が経ったのだろうか?ふと家の時計に目をやると、針はすでに0時に差しかかろうとしていた。


「もうこんな時間か。話に夢中になっていたな」


 一瞬の沈黙が電話越しに広がった。


「今日はこの辺にしようか」


 こちらから切り出すと、健一は少しの間を置いて、ためらいがちに言った。


「実は……紹介したい奴がいるんだ。明日、S県のO村に来られるか?」


 突然の誘いに驚きつつも、久々に友人に会えるという懐かしさと、明日が休日という事もあって、迷わず了承した。


「わかった、明日そっちに行くよ」


 そう答えると、健一は少し嬉しそうに「ありがとう、楽しみにしてるよ」と言い、電話を切った。夜も更け、静まり返った部屋の中、健一との再会を楽しみにしながら、ゆっくりと眠りについた。


 ――――


 翌朝、澄んだ青空が広がる中、列車は田舎の風景を縫うように進んでいった。車窓からは広がる田畑や、遠くにそびえる山々が見え、心地よい静けさが漂っていた。目的地であるO村の駅に到着すると、田舎ならではの閑散とした風景が広がっていた。駅の周りには人影もまばらで、電車が一時間に一本しか来ないような場所だというのも納得できた。


 改札を抜けると、そこには健一が立っていた。彼は少し日焼けした顔で、変わらぬ笑顔をこちらに向けていた。


「おぉ、久しぶりだな、拓也! 元気にしてたか?」


「昨日も言ったけど、元気だよ。お前の方こそ変わらないみたいで何よりだ」


 拓也は手を差し出し、固く握手を交わした。

 軽く挨拶を交わした後、拓也はふと気になって尋ねた。


「ところで、昨日言ってた紹介したい奴って誰なんだ?結婚でもしたのか?」


 その問いに対し、健一は少し目を伏せ、口元に微笑みを浮かべながら答えた。


「まあまあ、それは後でわかるから。楽しみにしてな。さて、少し行った所に俺の車があるから、それで移動するぞ」


 その言葉に俺は頷くと、健一についていく。駅前の静かな道を少し歩くと、駐車場に停められたシルバーのSUVが見えた。健一の車だ。車内は清潔に保たれており、適度に香るフレッシュな香りが心地よかった。エンジンがかかると、車は滑らかに山の方へと進んでいった。窓の外には田園風景が広がり、次第に木々の密度が増し、山の気配が濃くなっていく。車内に流れるラジオの音量は控えめで、二人の会話を邪魔しないように配慮されていた。


「ところで、最近どうしてる?」


 健一が運転しながら尋ねる。俺はこれまでの仕事や生活のことを簡単に話した。健一も時折相槌を打ちながら、自分の近況を語った。


「それにしても紹介したい奴って、一体誰なんだろう?」俺は疑問を抱きつつも、健一が何か特別なことを用意しているのだろうと感じ、期待と少しの不安を胸に抱いていた。


 ――――


 健一が車を走らせてから、すでに二時間が経過していた。都会の喧騒とはまるで別世界のような山道を進む中、車窓から見える風景は次第に変わり始めていた。最初は点在していた民家も、次第にその数を減らし、やがて姿を消していく。道幅も狭くなり、車の通行が難しくなってきた。道路沿いには、ところどころに朽ち果てた廃墟と化した家々がひっそりと佇んでおり、かつての賑わいを感じさせるものは何もない。ただ、時折吹き抜ける風が木々を揺らし、その音だけが車内に響いていた。


 健一は何も言わず、黙々とハンドルを握り続けている。車内には、微かなエンジン音とタイヤがアスファルトを擦る音だけが響いていた。拓也もまた、友人の沈黙に合わせるように口を閉ざし、窓の外に広がる寂しい風景に目をやっていた。道が細くなり、視界が徐々に閉ざされるように感じられる中、心の中で得体の知れない不安が少しずつ膨らんでいった。


 そんな状況の中、ついに車は目的地に到着した。健一は車を一旦止め、ゆっくりとギアをパーキングに入れると、エンジンを切った。車のドアを開けると、冷たい山の空気が流れ込んできた。目の前に広がるのは、古びた大きな屋敷だった。かつての豪華さを物語るかのように、重厚な門構えと、広大な敷地が広がっているが、長い年月が経ったことが明らかで、苔むした石畳や、蔦が絡まる壁が、屋敷の老朽化を物語っていた。


 健一は車から降りると、屋敷を指差して言った。


「ここだ。お前に紹介したい奴はこの屋敷の中で待ってる」


 拓也は目の前の屋敷を見上げ、少し驚きを隠せずに尋ねた。


「ここは?」


「ここは俺が買った屋敷だよ。中々味があっていいだろ?」


 健一は満足げに答えた。


「これ、お前が買ったのか?」


 拓也は目の前の大きな屋敷をもう一度見上げ、再度そのスケールの大きさに驚かされた。


「高かっただろう? こんなでかい屋敷」


 健一は少し得意げに笑いながら答えた。


「そんなことないぞ。ここは田舎で、場所も場所だろ? 案外安くてな。一千万円ほどだった」


「一千万円か、場所のことも考えたらそのくらいかもしれないな」


 拓也は屋敷の規模と価格に納得しながらも、大きな屋敷に圧倒されていた。屋敷の雰囲気に圧倒されてる俺に、健一は急かすように言った。


「ほら、入ってくれよ。すぐ来るから」


 健一の言葉に促され、拓也は少し躊躇いながらも車を降り、屋敷の玄関へと向かった。その瞬間、静寂を破るかのように、幼い女性の声が耳に届いた。


「いらっしゃいませ」


 驚いて声の方向を見ると、そこには金髪で青い目を持った、まるで人形のように整った顔立ちのメイドが立っていた。彼女の姿は、屋敷の雰囲気とは対照的に、どこか現実離れした美しさを持っていた。メイド服を身に纏い、丁寧に頭を下げる彼女の動作は洗練されていて淀みが無い。


「えっと……どうも」


 拓也は突然の出迎えに戸惑い、どう反応すべきか迷っていると、横にいた健一がニヤニヤと笑いながら様子を伺っていた。


「驚いたか?」


 健一は楽しげに問いかける。


「この子はお前の結婚相手か?」


 拓也は半ば冗談交じりに尋ねたが、健一はそのままニヤニヤと笑い続け、返答をする様子はない。


「実はな、こいつは人形なんだよ。尽くす人形らしい」


 健一が少し得意げに告げた。


 俺は思わず目を見開いた。目の前に立つ美しいメイドは、確かにどこか非現実的な雰囲気を纏っていたが、それがまさか「人形」だとは思ってもいなかった。息を呑みながらも、その完璧な外見と動作に、拓也はますます戸惑いと好奇心を抱いていた。


 健一に紹介されたその「人形」は、言葉にするのも難しいほどの精巧さで、人間と見紛うほどに美しかった。俺は驚きながらも、一歩退いてその人形を見つめた。確かに最近の技術は目覚ましい進歩を遂げているが、目の前にいるこの人形には何か説明できない違和感を覚える。それは技術的な驚異を超えた、もっと根源的な感覚――まるで「人形」というより、そこに立っているのが一人の「人間」ではないかと感じさせる何かがあった。


 その時、健一が拓也の内心を見透かすように話しかけてきた。


「ま、そういう反応になるよな? 俺も最初はお前と同じ反応だったよ」


 健一はにやりと笑い、少し得意げに続けた。


「もっとも、拓也以上に驚くことも目の当たりにしてるけどな」



 ――――


 健一は、拓也の視線が再びその人形に向かうのを確認すると、その人形を手に入れた経緯について話し始めた。それは、彼が海外の仕事を終える直前の出来事だったという。


 健一はその時、仕事の区切りがついたこともあって、何か海外土産を探していた。彼の勤務先である都市は、古くからの歴史を持つ街で、古美術品や骨董品が数多く売られていることで有名だった。ふらりと入った小さな骨董品屋は、古びた木製の扉と、埃をかぶったショーケースが並ぶ、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせていた。


 店内は薄暗く、時間が止まったかのような静寂が漂っていた。そこに並ぶ古い時計、陶器、絵画の数々は、どれも歴史を感じさせる品々だった。しかし、健一の目に留まったのは、それらの間にひっそりと佇む一体の人形だった。棚の片隅に置かれたその人形は、他の品々とは一線を画していた。金髪の髪、青い目、そして、まるで今にも動き出しそうなほど精巧な作り――その圧倒的な存在感に、健一は心を奪われた。


「この人形……一体どこで作られたんだろう?」


 健一は思わず口に出しながら、人形に触れる。触れた感触は、冷たくもありながら、どこか柔らかさを感じさせる不思議なものだった。


 その時、店の奥から現れた老店主が、彼に静かに近づいてきた。店主は深い皺が刻まれた顔を持ち、白い髪と小さな眼鏡が特徴的だった。彼は健一が触れている人形に目を留め、少し寂しげな微笑みを浮かべながら、こう言った。


「その人形は、他の品とは違います。非常に古いものですが、人形とは思えない程に精巧でございましょう? それだけではなく、その名も。如何ですか? 少々お高いですが、お買い得だと思いますが……」


 健一は、その言葉に促されるように、人形を購入することを決めた。値段は決して安くはなかったが、それでもその人形が持つ不思議な魅力に抗えなかったのだ。人形を包み、渡された際、老店主は健一に向かって、まるで何かを思い出すかのようにゆっくりと告げた。


「あぁ……それとですね、一つ忠告しておきます。この人形に尽くさせてはいけません。身の回りの世話だけに留めておいてください。それを守りさえすればこの人形はあなたに幸せを齎すでしょう。いいですか? 求めすぎてはいけません」


 その言葉が何を意味するのかは分からなかったが、健一は軽く頷き、礼を言って店を後にした。


 日本に戻ってから、健一は自宅にこの人形を飾ることにした。初めて自宅に持ち帰った夜、健一はその精巧な造りを改めて眺めながら、ふと独り言のように呟いた。


「本当に人間みたいだな…動いたりしないかな。ははは。」


 その時は、冗談半分で言った言葉だったが、健一は翌日の出来事によって、その言葉が現実になることを知ることになる。


 次の日の朝、健一がまだベッドでまどろんでいると、静かに部屋の扉が開く音が聞こえた。そして、その声が彼の耳に届いた。


「おはようございます。ご主人様」――それは、確かに聞き覚えのない声だったが、しかし、それが人形から発せられたものだと、健一は理解した。


 驚きに中。健一は目を開け、視線を声の主に向けた。そこに立っていたのは、確かにあの人形だった。彼女は穏やかな笑顔を浮かべながら、ベッドに近づいてきて、健一を優しく起こしにきた。


 ――――


 健一から人形を手に入れた経緯を聞き、俺は改めてそのメイドに目を向けた。やはり、どこからどう見ても人間にしか見えない。青い瞳がしっかりと俺を見つめ返し、その表情には無機質さどころか、微かな感情すら感じられるようだった。何かを言いかけようとしたが、言葉が喉に詰まる。健一はそんな俺の様子を見て、軽く笑いながら促した。


「まあまあ、そんなことより、こんなところで立ち話をするのもなんだし、場所を移そうぜ」


 健一は屋敷の奥を見渡しながら、少し考え込むようにして続けた。


「そうだな、縁側で景色でも眺めながら話でもしようか」


 俺は頷き、健一に続いて廊下を歩いた。木造の廊下は一歩一歩が軋む音を立て、その音が広い屋敷の中に響き渡った。屋敷全体がどこか古びた趣を持ち、時の流れが止まったかのような静寂が漂っている。やがて、俺たちは縁側に出た。そこから見えるのは、広がる自然の風景。遠くに連なる山々だった。澄んだ空気に包まれ、周囲には鳥のさえずりと風に揺れる木々の音が心地よく響いていた。


 健一と並んで縁側に腰を下ろすと、田舎ならではの長閑な景色が目に飛び込んできた。広々とした庭には、手入れの行き届いた植木が並び、遠くには緑豊かな山々が連なっている。時折、風が吹き抜け、心地よい涼しさが肌に伝わった。田舎の静けさが、都会では味わえない安らぎをもたらしてくれる。


 しばらくその風景に見とれていると、足音も立てずにメイドが静かにやって来た。手には盆を持ち、そこには湯気の立つ茶器と、色とりどりのお茶請けが並べられていた。彼女は慎重な動作で盆を縁側に置き、俺たちの前にそれぞれお茶を差し出した。


「ご主人様。お茶とお茶請けをご用意しました」


 彼女の声は相変わらず澄んでいて、耳に心地よく響いた。俺は彼女を見上げ、その整った顔立ちと落ち着いた仕草に再び驚きを禁じ得なかった。人形がここまで自然に振る舞うことなどあり得るのだろうか?


 彼女の動作は流れるようにスムーズで、そこに一切の機械的なぎこちなさは感じられなかった。お茶を注ぐ手つきも完璧で、まるで長年の経験を積んだベテランのメイドがそうするように、慎重かつ丁寧に茶葉の香りを引き立たせている。それだけでも驚きなのに、そのお茶に合うであろうお茶請けまで用意していた。


 俺はその一連の動作を見て、再び違和感を覚えた。単なる人形が、ここまでのことをやってのけるとは信じがたかった。単に話すだけなら、最新の技術を使えば可能だろう。しかし、このメイドはまるで自分の意思を持つかのように、そして、主人である健一の好みを理解しているかのように、的確にお茶を淹れ、茶請けまで選んでいた。


 その不可解さが、俺の中で次第に恐怖へと変わりつつあった。健一が一緒にいることで、何とかその場を保っていられるものの、この人形の存在自体が現実離れしているのは明らかだった。俺はとうとう、抑えきれない疑問を口にした。


「なあ、健一……さすがにこの人形はおかしすぎないか?」


 俺の声には、気味悪さを隠しきれない響きがあった。


 しかし、健一は特に気にする様子もなく、肩をすくめて返答した。


「考えてもどうにもならないし、気にし過ぎだろ。まあ、俺も最初は驚いたけど、今じゃ慣れちまったよ」


 健一の軽い調子に反して、俺の心中は不安でいっぱいだった。このメイド人形の凄さ――いや、どこか不気味で現実離れした存在が、どうしても頭から離れない。その仕組みや動作原理、果たして本当に人形なのか、それとも何か他の存在なのか、様々な疑念が湧き上がってきた。健一が楽しげに話し続ける中、俺の意識は次第に彼の言葉から遠ざかり、目の前に立つメイド人形の謎に囚われていった。


 ――――


 健一は俺の様子を見て、ニヤリと笑みを浮かべた。その表情にはどこか得意げな色が滲んでいた。


「なんだ、拓也も俺のメイドが欲しくなったのか?」


 と、彼はからかうように言った。


「残念だけど、やらないからな」


 健一が何に気を取られているかを勘違いしているのは明らかだった。彼の言葉には軽い調子があり、その誤解がいっそう際立っていた。


「美人だし、夜も積極的で可愛いからな」


 その一言は、俺の心をさらにざわつかせた。


「おいおい、夜もって……人形だろ?」


 俺は思わず突っ込みを入れたが、その言葉が健一の意図とは違う方向に行ってしまったのか、彼は少し焦ったように視線をそらしながら答えた。


「ま、まあ、そんなことは良いんだよ。お前に自慢したいだけだしな。」


 健一は照れ隠しのように言葉を濁したが、その様子がかえって不気味さを引き立てた。俺たちの間にはしばしの沈黙が流れたが、その空気はすぐに元に戻り、またお互いどちらともなく話し始めた。どれだけ話してたのだろうか、外は次第に薄暗くなり、辺りには夕闇が迫っていた。


 そのとき、メイドが静かに姿を現した。


「ご主人様、拓也様。夕食の支度が出来ました。ご案内いたします」


 彼女の声は相変わらず澄んでおり人と変わらない。表情や仕草も驚くほど人間らしいのだが、そうであればある程、人形である事に対し俺は再びその不気味さに胸がざわついた。


「おっ、夕食か。拓也、飯にしようぜ」


 健一が嬉しそうに声をかけ、俺も彼に従ってメイドの後をついていくことにした。広い屋敷の廊下を抜け、食事の準備が整った食卓に向かうと、そこにはまさに田舎の家庭料理が並んでいた。


 卓に並べられた料理は、キノコの炊き込みご飯、豆腐とねぎの味噌汁、たくあん、だし巻き卵、そして焼き鮭だった。どれもシンプルでありながら、丁寧に作られていることが一目で分かる料理だった。その香りは食欲をそそり、俺は自然と箸を手に取った。


 一口食べると、その味わいはどこか懐かしさを感じさせた。炊き込みご飯の豊かな風味と、出汁の効いた味噌汁が口の中に広がり、思わず笑みがこぼれた。しかし、それでも俺の心にはメイドの存在が引っかかっていた。どんなに料理が美味しくても、この異質な存在が近くにいることがどうしても気になってしまう。


 メイドが料理を運び入れる度、その動作の精緻さや、微笑みの作り方があまりにも完璧で、人間味を感じさせる一方で、やはりどこか冷たさがあった。その二面性が、俺の心に一層の不安を募らせた。


 夕食の間中、健一は楽しそうに話を続けていたが、俺の意識は次第に遠のいていった。彼の言葉は耳に入ってはいたが、すべてが背景のノイズのように感じられ、俺の思考はメイドの不可解さに集中していた。結局、食事が終わるまで、そのモヤモヤした感覚が消えることはなかった。


 食事が終わり、健一は俺の顔を見てにこやかに言った。


「今日は泊まってくだろ?風呂も用意したし、寝床も用意したから遠慮するなよ」


 俺はその誘いを断る気力もなく


「ああ、それじゃあ今日は泊めてもらうことにするよ」


 と返事をした。健一は満足げに頷き、「それじゃあ、明日な」と言って、自室へと戻っていった。


 一人残された俺は、風呂へと向かった。湯船に浸かると、一日の疲れがじんわりと解けていくようだった。しかし、リラックスするはずの時間も、頭の片隅には常にメイドの存在があった。湯気が立ち込める浴室で、彼女が動き回る姿を想像すると、不安が胸に広がった。


 風呂から上がり、自分の部屋へ戻って休もうとしたその時、耳に不意に聞こえてきたものがあった。それは、壁越しに響いてくるかすかな嬌声だった。恐らく健一とメイドが共に過ごしているのだろう。しかし、その音に混じって、何かがおかしいと感じた。耳を澄ませば澄ますほど、ところどころに耳障りなノイズのような声が混じっていることに気付いたのだ。


 そのノイズが、機械の異常音のような、不規則で不快な音だったのが、俺の不安をさらにかき立てた。そして、ノイズの合間に、何やらぼそぼそとした呟きが聞こえてきた。言葉の内容までは聞き取れなかったが、その低く押し殺したような声は、何かを訴えかけているようだった。


 そして……それは突然のことだった。


「た……く……や……」


 という声が、はっきりと聞こえた瞬間、全身に冷や汗が滲んだ。俺の名前を呼ぶその声は、明らかに誰かが俺に向けて発していた。それが誰なのか、そして何を意味するのか――考えるだけで恐ろしかった。


 俺は恐怖に駆られ、思わず耳を塞ぎ、布団に潜り込んだ。健一とメイドが何をしているのかを知りたい気持ちと、その真実を知ることへの恐怖が入り混じり、頭の中は混乱したままだった。しかし、その夜、俺はその恐怖から逃れる術を見つけることができず、震えながら眠りについた。


 ――――


 翌朝、俺は悪い夢から覚めたような感覚に包まれていた。目覚めは最悪で、昨夜の出来事が頭をかすめ、全身がまだ重たく感じる。昨夜の奇怪な音が頭の片隅に残っていて、どうにも眠りが浅かったらしい。そんな中、部屋の扉が軽くノックされ、続いて聞こえたのは健一の声だった。


「おーい、朝食が出来てるぞ……」


 扉がゆっくりと開き、健一が顔を覗かせた。だが、その彼の顔は、いつもの無邪気な笑顔ではなく、どこか気まずそうな表情だった。俺の様子を見て彼は眉をしかめる。


「……って、酷い顔だな。寝不足か?」


 俺はなんとか曖昧に笑い返そうとしたが、その笑みは引きつっていただろう。


「まあ……ちょっとな」と、ぼんやりと答える。健一は、俺の言葉に反応し、少し居心地が悪そうに目を逸らしながら、声を潜めた。


「あぁ…すまん。もしかして昨日、俺たちちょっと激しすぎたか? どうも盛り上がっちまってな……」


 彼が言う「盛り上がった」が、昨夜聞こえてきた不気味な音を指しているのかと思うと、言い知れぬ不安が胸を締め付ける。だが、健一の様子を見ると、それが本当に単なる夜の営みのことを指しているのだと理解できた。俺はため息をついて、言い訳がましく答える。


「少しは気を使ってくれよ……おかげで眠れなかったじゃないか」


 健一は申し訳なさそうに頭を掻きながら言う。


「すまんすまん。つい我慢できなくてな……まあ、そんなことはさておき、朝食にしようぜ」


 と笑って見せた。その笑顔は、昨夜の出来事を全く気に留めていないかのようだった。


 俺も努めて平静を装いながら「……ああ」と答え、健一と一緒に食卓へと向かった。


 だが、その朝の食事のことは、まるで夢の中の出来事のように記憶が曖昧だった。味も覚えていないし、どんな話をしたかも思い出せない。俺の頭の中は、昨夜の異様な体験でいっぱいだったのだろう。


 その後、健一の車で駅に向かった。二人の間に交わされた会話も、道中の風景も、まるで霧の中に消え去ったかのように何一つ記憶に残っていなかった。


 そして、気がつくと、俺は自宅の自室のベッドに横たわっていた。全身が重く、頭がぼんやりしている。いつ帰宅したのか、どうやって帰ってきたのか、その一切が思い出せない。ただ、あの屋敷で過ごした時間だけが、どこか現実離れした悪夢のように、俺の心に深く刻まれていた。


 ――――


 二ヶ月ほど過ぎたある深夜、突然携帯が鳴った。画面には「健一」の名前が表示されている。奇妙な予感が胸をよぎる。あの一件以来、健一とは連絡を取っていなかった。少しためらいながらも通話ボタンを押すと、耳に飛び込んできたのは健一の声だったが、いつもの健一とは全く違う、不気味な響きだった。


「ひひひひひっ……」


 と、薄気味悪い笑い声が響く。言葉にならない気味の悪さが、背筋を冷たく撫でる。そしてその笑い声に混じって、もう一つの声が聞こえてきた。か細く、囁くような声。だが、それは紛れもなく、あのメイドの声だった。


「……を……尽……して」


 断片的にしか聞き取れないが、その声はまるで誰かに命令するかのようだ。耳を澄ませば澄ますほど、健一の笑い声がますます大きくなり、メイドの声はさらにぼやけていく。


「いひひひっ……ひゃはははは!」


 健一の狂ったような笑い声が響き渡り、混乱が俺を飲み込んでいく。


「健一……どうした? おい、しっかりしろ!」


 と、俺は必死に呼びかけるが、返ってくるのは健一の狂気じみた笑い声ばかりだ。そして、笑い声の合間に健一の声が混じる。


「いいぞっ……尽くしてくれっ!」


 その瞬間、健一の声が途切れた。続いて、重いものが床に倒れる音がした。そして、電話の向こうは静寂に包まれた。


「健一! おい、どうしたんだ?健一!」


 叫ぶが、応答はない。しばらくの沈黙が続いた後、再び囁き声が聞こえてきた。


「つ……ぎ……は……た……く……や」


 その言葉が耳に届いた瞬間、全身に冷や汗が噴き出した。まるで命を刈り取る予告のようなその声に、反射的に携帯を切った。胸が高鳴り、手が震えるのを抑えられない。


 二日後、ニュース番組がとある報道を伝え始めた。S県O村の大きな屋敷で発見された変死事件。そこに映し出されたのは、健一の家だった。亡くなったのは、健一。俺の友人だった男。ニュースキャスターが淡々と報じる声が、頭に響く。


「被害者は全身の血液が、体は干からびるほどだったと……まるで生気をかのようだと」


 報道はさらに続く。


「そして、死体の傍には口元が血で汚れた美しい人形が寄り添っていたという……」


 その一言で、全てが繋がった。あのメイドだ。尽くす人形……それが、健一を殺したのだ。報道はさらに驚くべき事実を伝えた。


「なお、この事件で押収された人形は、翌日警察署から忽然と姿を消しており、現在も行方が分かっていません……」


 冷や汗が再び滲む。俺は何もかも理解した。あの人形が、俺のもとに来るのだ。扉の向こうから、あの美しい声が聞こえる。「たくや……」あの声が俺を呼んでいる。気味の悪さや恐怖はすでに消え去っていた。代わりに、俺の中に芽生えているのは、抗いがたい欲望だ。


 あの人形を求める自分に気づいていた。俺はドアの前に立ち、手を伸ばす。ドアノブが冷たく感じるが、それでも迷わずに回した。扉が開くと、そこには美しいメイドが立っていた。彼女の澄んだ瞳が、俺を見つめて微笑んでいる。


「ご主人様……」その言葉は甘く、耳に心地よく響いた。俺は微笑み返し、全てを受け入れた。もはや、健一と同じ運命を辿ることを恐れていなかった。むしろ、その運命を歓迎していたのだ。

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尽くす人形 北比良南 @omimura

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