№28 『生まれたから生きている』

№28 『生まれたから生きている』

「……つまんないのは、私だ」


 しばらく続いた沈黙を断ち切って、唐突に鉈村さんが口を開いた。その表情は自嘲の色に染まっている。


 タバコの煙といっしょにため息をつきながら、鉈村さんは続けた。


「生きがい探しとか言って、『ゾンビ人間』見下して、悦に浸ってさ。自分だけは違うんだって思い上がって。そんなチンケなこと生きがいになんてしたくないのに」


 タバコをくわえて、鉈村さんは思い切り伸びをして、


「だから、一発でっかいことやろうとしたのに、このザマだよ。私たちは負けた。由比ヶ浜に復讐もできなかった。あいつは、私のこと覚えてすらいなかった……こんな虚しいことってある?」


 みずからを嘲笑うかのような口調の鉈村さんは、ひどくかなしそうな顔をしていた。俺だってこんなに悔しいのだ、鉈村さんはもっともっとめちゃくちゃに悔しいだろう。


 俺たちは負けた。由比ヶ浜には届かなかった。


 どこまで行っても無力なままの俺たちは、逃げ回ることしかできない。現実と対峙することすら許されない。


 ただ強い流れに流されることしかできないのだ。

 

「……僕ら、なにやってんでしょうね」


 ぽつり、俺はつぶやいた。ふう、と煙を吐き出しながら、


「突拍子もないこと企てて、負けて、どうすることもできなくて、無力で……結局、なんで僕らはまだ生きてるんでしょうね?」


 ここへ来てその疑問が浮かんだ。


 なにやってんだ。


 なんで生きてんだ。


 こんなにみっともなく敗走して、それでもまだ息をしている。先なんてないのに、それでもタバコなんて吸っている。


 どんな根拠の上に、俺たちのいのちは成り立っているのだろうか。


 所詮俺たちは、由比ヶ浜の言う通り無力なゴミカスに過ぎないのだろうか。


 ただ生きているだけの『ゾンビ人間』なのだろうか。


 最初の地点に戻ってきた問いかけに、なぜか課長は小さく笑った。


「……若いねえ」


 くしゃくしゃのタバコにまた火を近づけながら、課長はくすくすと続ける。


「生きてる理由とか、なにかをするわけとか、そういうのを深く考え込めるのは若者の特権だよ」


「そう言う課長は悩んだりしないんですか?」


 俺が水を向けると、課長は照れくさそうにして、


「長く生きすぎたからねえ、今さら、って感じだよ。そういうのは若いうちに悩んでおくもんだ。歳食うとね、自然と腑に落ちる答えが出てくるんだよ。いや、自分を納得させられる、っていうか」


 課長は答えにたどり着いたのだろうか。こんなにも俺たちが悩んでいる答えに。


 たっぷりと煙を吸った課長は、それを吐き出しながら大いに笑った。

 

「『生まれたから生きてる』、ただそれだけのことだと僕は思うけどねえ。若いひとたちは難しく考え過ぎてて、オジサンにはよくわかんないなあ」


 俺と鉈村さんは、一瞬きょとんとしてしまった。


 生まれたから生きている。


 呆気に取られるほど、シンプルすぎる答えだ。


 しかし、たしかに難しく考えすぎているのは俺たちの方なのかもしれない。

 

 そうだ、この世に生まれ落ちたからこそ生きる、生き続けようとする。


 それを阻むちからに抗いながら、押さえつけるちからに反発しながら、進み続ける。止まったら死んでしまう回遊魚よように、流れに逆らって泳ぎ続ける。


 そんな人間特有のシンプルな本能が、『生きている』理由でいいんだ。

 

 俺たちはまだ、抗っていいんだ。


 あきらめなくていいんだ。


 すっかりここで終わりだと思っていた俺と鉈村さんは、目を丸くして顔を見合せた。考えていることは同じらしい。


 課長は猫を撫でながら、


「人間ってのは、僕らが思ってるよりずっと単純だよ。だってただの動物なんだから。この猫ちゃんたちといっしょだよ。だからこそ、そんな本能をいとしいと思うけどね。一生懸命生きている、それだけで拍手したくなる」


 とうとうと述べる課長の言葉が、砂漠に降る雨のようにすんなりと胸に染み込んでいく。


 無力でも、情けなくても、みっともなくても、俺たちはそれぞれかけがえのない一個のいのちだ。奇跡のように生まれてきて、ここまでやってきた。それは賞賛に値することで、軽んじられるいわれはどこにもない。


 誰よりも自分を蔑んでいたのは、俺だ。ないがしろにして、惰性でいのちを消費してきたのは俺だ。


 一個しかない大切なものをそんな風に扱って、心底後悔した。俺の『いのち』にこころから謝りたかった。


 今まで軽々しく使い潰してきて、ごめんね、と。


 どれだけ謝っても謝り足りないだろうけど。


 今までの分、これから大切にしよう。


 抗って、逆らって、生きてみよう。


 俺の『いのち』に恥ずかしくないように。


 ……尽きかけていた気力に火が灯る。


 そうだ、まだ終わっちゃいない。あきらめるな。最後の最後まで抗ってみせろ。できることは全部やってからくたばれ。


 いのちが尽きる瞬間に胸を張れるような生き様を、この世界に見せてやれ。


 残酷な世界に爪痕を、生きた証を残せ。


「……うん、いい顔をしてるね」


 猫のあごを撫でる手を止めて、課長は俺たちを見て言った。笑っているけど、その目は真剣だった。


「大変なことをしたけどね、君たち若いんだから、自分の信じた道を納得するまでいきなさい。間違ったっていい、立ち止まったっていい。けど、とにかくがむしゃらに進みなさい……若さってのは、そういうもんだ」


「……課長……!」


 感涙しそうになった俺に、課長は決まり悪そうに頬をかきながら、


「あはは、ちょっとカッコつけちゃったかなあ。ともかく、オジサンから言えるのはそれくらい。老婆心、ならぬ老爺心、だと思って聞き流してくれていいよ」


 聞き流すにはあまりにも重い言葉だった。人生の先輩のアドバイスは、俺たちにしっかりと届く。


 抗え。立ち向かえ。なんだっていい、進め。


 あきらめるのは、くたばる瞬間だけでいい。


 まさにいのちが終わるときまで、納得するまで逆らえ。


 それが『生きている』ということだ。


 猫を膝に乗せて背中を撫でる課長は、俺たちのこころが決まったことを見て取って、のんびりとした口調で言った。


「君らが前に進むためなら、僕も微力ながら協力するよ」


「いや、協力、って……?」


 相手は日本政府だ、零細企業のいち中間管理職がなにかできるとは到底思えない。


 戸惑う俺に、課長は小さく笑って、


「ふふふ、それは秘密でーす」


 人差し指を口元に立てて、片目をつむって見せた。


 そんな茶目っ気のある仕草に、俺と鉈村さんもついふっと吹き出してしまう。


「かわいくないっすよ」


「そうかなあ? 萌え萌えじゃない?」


「言葉のチョイスが古いっす」


「仕方ないよ、だってオジサンだもん」


 わざとふてくされたように頬を膨らませて、課長は短くなったタバコを揉み消した。同時に、俺と鉈村さんも火を消す。


 そろそろ歩みを再開するときだ。


 俺たちはまだ終わらないんだから。


 課長は煙る暗闇でにやりと笑い、


「さあ、反撃の時間だ。行っておいで」

 

「はい!」


 俺たちは勢いよく返事をすると、そのままデスクから立ち上がってその場を後にした。


「お茶、ご馳走様でした!」


「いいよいいよ、困ったことがあったらまた帰っておいで」


 ひらひらと手を振る課長に一礼して、オフィスを出る。


 ……俺たちはまだ生きている。


 まだ負けたわけじゃない。


 だったら何をするべきか?


 そんなことを鉈村さんと相談しながら、俺たちは再び抗うために歩き出すのだった。

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