№27 ホーム

№27 ホーム

 じわじわとセミが鳴きわめく森を汗だくになりながら抜け出して、やっと人里に出ると、俺たちは用心してタクシーで会社まで戻った。


 いつもは伏魔殿のように見えるペンシルビルが、今だけはサンクチュアリに見える。五億寸釘がひと払いの結界を張っていくれているせいか、会社の周りにはひとっこひとりいない。


 汗まみれでぼろぼろの状態になっている俺たちは、とりあえずビルに入ることにした。業務停止命令が出ているので出社している社員はいない。


 階段を上り、清掃課のオフィスに足を踏み入れる。非常口の光だけが頼りの暗闇だったが、なぜか空調がきいていた。


 不思議に思っていると、どこからか、にゃあ、と猫の鳴き声がする。見下ろすと、そこには一匹の黒猫がいた。


 黒猫は俺たちを導くように暗がりへと歩んでいき、ひょい、とデスクに飛び乗る。


「おお! やっと来た!」


「課長!?」


 そこには、相変わらず猫に囲まれている冴えない中年男の姿があった。福々とした顔は相変わらずで、俺たちの到着を真剣によろこんでいるようだ。


「なんで課長がこんな所に!?」


 テロリストの逃亡先にいるには、あまりにもミスマッチな人物だ。問いかけると、課長は苦笑しながら猫を撫で、


「いやぁ、ものすごい美少年が来て、君たちのことを頼まれてねえ。僕になにができるとは言わないけど、とりあえず暑いだろうから、事務所のクーラー入れて待ってたんだよ」


 五億寸釘のやつ……意外といろいろ手を回してくれたらしい。それを俺たちに言わなかったのは、単純に照れくさかったからだろう。


 課長は猫たちに構いながら、


「しかし、大変なことになったねえ。ネットでもニュースでも君たちのこと出てるし、あれからも警察の人が来て事情聴取されるし、業務停止命令出るし……もう大変だったんだから。社長なんて熱出して寝込んでるよ」


「……ご迷惑おかけしてすみません……」


「いいよいいよ。普段は僕らが迷惑かけてる側なんだから、お互い様だよ」


 にこにことそんなことを言う課長は、大変なことになった、と言った割にはいつも通りだ。俺たちのことを通報したり、叱責したりもしない。この異常事態にもかかわらず、本当にいつもとなにひとつ変わらないひとのいい笑みを浮かべて猫と戯れている。


 肝が据わっている、というか、ひょうひょうとしている、というか。ただの中間管理職ではないらしい。


 このひとが『狸爺』『昼行灯』と影でささやかれているのはこういうことか、とやっと納得できた。


「まあ、座りなさい。お茶、いれるから。今日は喫煙所じゃなくてここで吸っていいよ、どうせ誰もいないんだし……ちょっとゆっくり話でもしようよ」


 そう言うと、課長は猫たちを連れて給湯室へと消えていった。


 俺と鉈村さんが手持ち無沙汰で自分のデスクに腰かけていると、やがて課長が熱いお茶を持ってきてくれた。


「はい、お茶と灰皿ね」


「……どうも」


「……うす」


 俺と鉈村さんは一礼すると、お茶に口をつけた。課長も湯呑みを口に運んでいるが、なぜか手元に灰皿を置いている。課長がタバコを吸っているところなんて見たことがないのに。


 すると、課長はデスクの奥底からくしゃくしゃになったタバコのパッケージを取りだして、感慨深そうにつぶやいた。


「あーあ。せっかく7年も禁煙してたのになあ」


 苦笑する課長に、俺と鉈村は顔を見合わせる。


「いやね、7年前にカミさん亡くしてね、そのときから禁煙してたんだけど、君たち見てると吸わない方がおかしいかなあ、って。ほら、遠慮なく吸って」


 おずおずとタバコを取り出してライターの火を近づけ、俺と鉈村さんは紫煙をくゆらせた。


 課長もよれよれのタバコに火をつけると、うまそうに一服する。


「ああー、これこれ。久々に吸うときっついなあ」


 はは、と笑いながらタバコを吸う課長は、元喫煙者だけあって様になっていた。俺も灰皿に灰を落としながら一服する。


 タバコとは不思議なもので、毒を取り込んでいるくせに、なぜだか落ち着くというか、思考をひと区切りすることができる。ひとときだけ、最悪な状況をリセットすることができるのだ。


 三人で何も考えず、ぼやーっと煙を吸っていると、たちまち暗いオフィスに紫煙がわだかまる。タバコを吸わないひとには不快に感じられるだろうが、このヤニくささがたまらなく脳を鎮静するのだ。


 ニコチンが血液の循環を鈍らせ、頭が冷える。スイッチを切り替えるには持ってこいの作用だ。


「それにしても、君たちばかすか吸うよねえ。回収車の内側、黄色くなってるもん」


「それは鉈村さんが……」


「なに、私のせい?」


「いや、そういうことではなくて、つられて吸っちゃうっていうか……」


「ほら、私のせいだ」


「決してそんなことは……」


 俺たちのやりとりに、堪えきれなくなったという風に課長が笑い声を上げた。


「あはは! やっぱり仲良いねえ、君たち」


「良くないっす」


「何言ってるの、息ぴったりじゃない。いつもいっしょに組む理由は分かったけど、もしかしてー?」


「下衆の勘繰りやめてくださいって言いましたよね? 私、こいつのこと大っ嫌いなんで」


「それってアレでしょ? ツンデレ?」


「違います」


「またまたー。紫涼院くんはどうなのよ?」


「な、鉈村は素晴らしい女性だと思っています」


「なにそれ。言わされてる感満載じゃん。だから童貞なんだよ」


「それは関係ないでしょう!?」


「え、紫涼院くんチェリーボーイなの?」


「まあ、恥ずかしながら……」


「風俗とか行っても、素人童貞に進化するだけだからねえ……男も女も、最初はこころに決めたひとが一番だよ!」


「そうは言いましても、イマイチ決めるこころがなくて……」


「恋に臆病、ってやつ?」


「というか、初恋もまだです」


「ダッサ」


「そう言う鉈村は誰かに恋したことあるんですか?」


「ないよ。世の中の男、みんなつまんないんだもん」


「ほらー!」


「るっせ。童貞と違って処女には価値があんだよ」


「やっぱり、君たちくっついちゃえば?」


「それは絶対にイヤです」


「鉈村さんはかたくなだなあ。紫涼院くん、男前じゃない」


「性根が腐ってる以上、ルックスは関係ありません。こんなヤツに処女捧げたら、絶対あとから後悔します」


「ちょ、鉈村さん、女の子が処女とか軽々しく言っちゃ……」


「なんか文句ある? 私は自分の言葉でしかしゃべんないから」


「鉈村さん語は俺には解読できません……」


「あーそれ、僕も」


「ふたりして、ひとをどっかの原住民の部族みたいに言わないでください」


「鉈村さんは生き様がロックンロールすぎるんだよ」


「ロックじゃなくてメタルです。あと中島みゆき」


「ああー、いつもヘッドフォンで聞いてるのそれかあ。いやいや、流行りの曲でも聞いてるのかと思ったけど、なかなか渋い趣味してるねえ」


「私のバイブルなんで。メタルな生き方しかできないんです」


「生き急ぎすぎだよう、若い子は仕方ないんだろうけど」


「そういう課長は、そんな時期なかったんですか?」


「ふふ、僕もねえ、若い時はそんな感じだったよ。けど、カミさんと結婚してからなぜか丸くなっちゃってねえ」


「ノロケっすか?」


「違う違う。結婚はいいものだよー、って」


「ノロケじゃないっすか」


「まあ、結婚は人生の墓場、って言うひともいるけど、僕とカミさんはそうでもなかったって話だよ。世界はこんなに広いんだから、ひとりくらいはそういうひと、いると思うんだけどなあ」


「世界は広い、かあ……」


 俺がそうつぶやいて、とりとめもない雑談は一旦中断した。めいめい紫煙を楽しみながら、広すぎる世界に思いを馳せる。


 こんなにほっとする時間はいつぶりだろう。鉈村さんに出会う前、いや、もっと以前からなかったような気がする。毎日毎日5K仕事に追われて、なんの意志もなく日々を消化していくだけだった。ほっとするもなにも、常にフラットな状態だったのだ。


 それがここ最近の激動で、こんななんてことない日常がいかに大切かを知った。それを『消化試合』だなんて、とんでもない思い違いだ。


 ひとは、日々の積み重ねで生きている。


 昨日よりほんのちょっとだけいいことがあったら、明日もがんばろうと思える。


 そんな当たり前のことに気づかずに、俺はただ惰性で生きてきた。死んだように生きている、『ゾンビ人間』として。


 ……今、そんなひとがいたら、教えてあげたい。


 あなたが過ごした今日は、たしかに明日に繋がっている。明日は明後日に繋がって、それが来月になり、来年になり、やがては人生になるんだ、と。


 無駄な一日などどこにもない。


 だから、消化試合扱いするのはやめてほしい、と。


 ……たった今気づいた俺が言うのもはばかられるけど。


 暗がりでタバコを吸いながら、俺はそんな風に思って、少しだけ口元を緩ませるのだった。

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