episode4-4 夏は来ぬ
講師控え室で帰り支度をしていると、一つ持ち物が足りないことに気がついた。楓は少しだけ記憶を辿ると、レッスン室にペンケースを忘れてきたのではないかと思い至った。明日は自分が受け持つレッスンがないため、今日中に取りに行くしかない。
講師控え室を後にしてレッスン室に向かうと、途中の練習室から聞き覚えのある音楽が聞こえてきた。
「summerr……?」
楓はそうと思われる曲名を小さくつぶやいた。
試験前の時期だけあって皆同じような課題曲を練習しているなか、そのピアノの音だけが妙にクリアに聞こえた。
誰が弾いているのだろうと練習室の小窓を覗くとそこには依織がいた。いつもは直と一緒にいることが多いが、今日は一人でピアノに向かっていた。
依織と直は数いる学生のなかでも、なんとなく目立つ存在だった。いつの間にか二人でつるむようになり、そんな二人をまるでアイドルかのように見ている女子生徒が少なからずいることを楓は知っていた。自分にもそんな時期があったと、どこか懐かしい気持ちでクスクスと笑い合う女の子達の様子を微笑ましく眺めていた。
楓は依織と直を見て騒ぐ女子生徒の姿を思い出しながら、練習室の外で壁にもたれるようにしてしばらく依織のピアノの音を聞いていた。
超絶技巧曲をそつなく弾いたかと思うと、プレリュードや映画音楽をリリカルに演奏する。ぼんやりと定まらない表情でピアノを弾く依織はどこか不安定な感じがして、女の子達が想像して騒ぐ姿とはなんとなくかけ離れているような気がした。
思えば春の講師紹介の場所で依織を見たときから、なんとなく気になる存在だった。依織はどこか虚ろな表情で講師達の自己紹介を聞いていた。不意に目が合った瞬間の驚いたように揺れる瞳が印象に残っている。
それからふた月ほどでやってきた最初の実技試験で楓は依織に圧倒された。
練習曲を弾いただけと言われてしまえばそうなのかもしれない。実際依織本人も涼しい顔をしてそつなく「革命のエチュード」を弾いてみせた。しかし、楓は彼の演奏に圧倒されたのだ。自分にはない激情を、依織の心の奥底に感じた。
ほどなく、依織の父親が有名な指揮者であるという噂が流れ始めた。楓も名前を知っているその指揮者は、華やかな噂を頻繁に耳にするため、家庭を持っているというイメージとはほど遠い。依織にもそのような噂が流れていることは耳に入っているらしく、誰かに話しかけられては、どこか居心地悪そうな顔をしているところを何度か見かけている。
「一五~六歳の青年にも葛藤があるのだろう」と、依織の表情を見る度に楓はそんなことを頭の隅で思った。
壁にもたれてあれこれと想いを巡らせながらピアノの音を聞いていた楓は、一人、二人と帰宅する生徒を見送ると、当初の目的を思い出しレッスン室に向かって自分のペンケースを回収した。レッスン室の外に出ると依織のいる練習室からは依然としてピアノの音が漏れ聞こえている。ちらりと腕時計を見ると、ふと思い立ったように自動販売機のほうへと向かった。
中庭の自動販売機の前まで来ると、少し思案した後、紙パックのカルピスを二つ購入した。一つを自分のバッグの中に入れると再び練習室のほうに向かって歩き出す。
依織のいた練習室の前まで来るとドアがうっすらと開いていることに気がついた。もう帰ってしまったのだろうか、と思い室内をのぞき込むと、バッグを肩に掛ける依織の姿が見えた。楓の胸はなぜかドキリと跳ねる。一度気持ちを落ち着けるように深呼吸をすると、ドアをノックする。なんて声をかけようか、そんなことを思いながらドアが開くのを待った。
祈りの光を君が描く世界で 理唯 @padawan-panda
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