episode4-3 夏は来ぬ

 まだ梅雨も明けきらないというのに気温が高く、まとわりつくような嫌な暑さが全身を包む。制服のワイシャツが背中に貼りついて不快だ。

 依織は機嫌悪く、自動販売機のボタンを押した。ゴトンと音を立てて飲み物が取り出し口に落ちる。

「俺も何か買おうかな……」

 依織の肩越しに自動販売機をのぞき込みながら直が言う。

「朝買ったやつ終わりそうなんだよね」

 言いながら、小銭を財布から取り出す。

「この間試験終わったばっかなのに、また明日から試験ですよ。嫌になっちゃうよね。暑いし」

 指で「どれにしようかな」と飲み物を選びながら直がぼやく。

「まったくですね」

 ぼんやりとした声で依織が相づちをうつ。

 学生の時間は、長いようであっという間に過ぎていく。やっと一つ試験が終わったと思うとまた次。試験を受けるためには準備もしなくてはならない。くり返しているうちに季節はあっという間に移ろっていく。

「まぁ、でも、期末が終わったら夏休みですし」

「それなー」

 そんな会話をしながら、依織と直は日陰を選びながら歩き出す。

「直、放課後予定あるんだっけ?」

 中庭のベンチに腰掛けると、思い出したように依織が言った。高校入学直後はぎこちなさのある依織と直だったが、季節の移ろいと共に二人の関係も変わり、この頃になると放課後に直が依織の家に寄っていくのが日課のようになっていた。

「そう。今日は早く帰って来いって言われてるのよ。妹の誕生日なんよね。」

「めぐちゃんだっけ?今日誕生日なんだ」

「そうー」

 だらけた姿勢で腰掛ける直が気の抜けた相づちをうつ。

「……いいね」

 ペットボトルのふたをひねりながら依織がぽつりとつぶやいた。

「えー? 何がよ」

「直の家は家族仲が良さそうでさ」

「そうかなぁ」

 直は小首を傾げながらそうつぶやく。その横で、依織は崩壊している自分の家族のことを思い出したせいか、それとも季節外れの暑さのせいなのか、ほんのりと目眩を覚えた。

「あれ、依織も妹いなかったっけ?」

「一応いますねぇ。まぁ、母さんと一緒に暮らしてるから、しばらく顔見てないけど」

「ふーん」

 それ以上直が詳しく聞くことはなかった。気をつかわせてしまっただろうか、とも思ったが、その場の雰囲気をごまかすような言葉は何も浮かばなかった。

 父親が指揮者で母親が医者。そういうと立派な家族のような気がするが、実情はボロボロだ。依織の父親は外に女を作り、元々の仕事柄も相まってほとんど家に帰ってこない。母親はとっくに愛想を尽かして妹を連れて家を出て行った。今では父親と同じく男の影がある。

「我が家は昼ドラの世界観でやらさせてもらってますからね」

 ぼそりとそうつぶやくと、依織は「よっこらしょ」と言いながらベンチから立ち上がった。

「教室戻ろ、熱中症になりそうだわ」

「確かにー」

 依織の言葉に直はそう返すと、同じように「よっこらしょ」と言いながら立ち上がった。


 休み時間が終わると、残りの半日はあっという間に過ぎていった。放課後になり、生徒達は散り散りになっていく。

「依織、俺帰るけど、どうする?」

 依織の座席に近づき、直がそう声をかけた。いつもは大抵、二人で練習室に寄ったり、帰り道に依織の家に寄ったりして過ごしていた。

「残って練習してくわー」

「オッケー」

 そう言うと、鞄に荷物を詰め込んだ直は「じゃあね~」と手を振り教室を後にした。

 残された依織も、荷物を鞄に詰め込み練習室に向かった。


 練習室に着いて楽譜を出し、依織はピアノの前に座った。しばらくは試験曲を練習していたが、なんとなく身が入らず、気の向くままに音をさらいだした。そうやって過ごしているうちに、いつの間にか陽が傾き当たりが暗くなり始めたことに気がついた。立ち上がり少しだけドアを開けて外の様子を窺うと、他の練習室から漏れ出てくる音も聞こえなくなっていた。

 さすがに自分も帰ろうと思い、依織はピアノの上に出しっぱなしにしていた楽譜を片づけ始めた。散らばったものを片づけ、バッグを肩にかけて部屋をあとにしようとすると、不意にドアをノックする音が聞こえた。

 誰だろう、と思いつつもドアを開けると底には楓がにっこりと笑みを浮かべながら立っていた。相変わらず機嫌の良さそうな顔をしながら、楓は小首を傾げる。

「あれ、もう帰るとこ?」

「……はい」

「遅くまで頑張ってるみたいだからご褒美持ってきたのに」

 そう言うと楓は依織の目の前に飲み物をぐいっと差し出してきた。

「まぁいいや。はい、どーぞ」

 言いながら、楓は依織に飲み物を手渡す。依織はあっけにとられながら、手渡された飲み物を受け取った。飲み物は紙パックのカルピスで、表面はうっすらと汗をかいていた。

「ねぇ、今回の試験、何弾くの?」

「……わ、ワルトシュタインです」

「へぇ……また、難曲を選びましたねぇ」

 依織の顔をのぞき込むようにして楓が言う。

「自分で、選んだわけじゃないので……」

「担当は高木先生だっけ?」

「……はい」

「そっかそっか。それじゃ、試験楽しみにしてる」

 ふふっといたずらな笑みを浮かべながら楓が言う。

「あ、引き止めちゃってごめんね。帰るとこだったのに」

 思い出したように言うと、楓はドアを塞ぐようにしていた身体をスッと横にずらした。

「暗くなってきたから、気をつけて帰ってね」

「……はい。さようなら」

「はい、さようなら」

 依織がぺこっと頭を下げると、楓はヒラヒラと手を振った。

 突然現れた楓に圧倒され、呆然としたまま歩いているといつの間にか玄関に辿り着いた。下駄箱から下足を取り出そうとしたときに、楓から渡された紙パックを持ったままであることに気がついた。靴を履き替えると、依織は紙パックにストローを刺して一口飲んだ。

 飲みながら歩き始めると、先ほどの楓の様子が頭に浮かんだ。

 あれほど上機嫌に他人と接する人は依織の周りにはいないタイプだった。だからだろうか、依織は楓と顔を合わせると、自分を巻き込む夏の夕立のような人だと感じることがある。

 紙パックの中身が空になると、お礼を言う余裕もなかったな、とそんなことを思った。

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