episode4-2 夏は来ぬ
「真木くん……だよね?」
声をかけられ、依織は立ち止まって声の主のほうを見た。そこには何となく見覚えのある人が立っていた。
「……宮内……先輩……?」
おぼろげな記憶を辿って答えを出すと、目の前の人はほっとしたような嬉しいような、そんな表情を見せた。
「覚えててくれたんだ」
目立ってたから、そう口に出かかったが、依織はそれを飲み込んだ。
同じ高校出身の「宮内先輩」は、依織にとって「そんな人もいた気がする」レベルの人だった。二年間同じ校舎で生活をしていたが、言葉を交わしたのもこの瞬間が初めてなのではないだろうか。なんの接点もない自分になんの用だろう、と疑問に思っていると、スッとプリントアウトされた楽譜を差し出された。
「あの……いきなりで申し訳ないんだけど、次のロビーミニコンサートで伴奏お願いできないかな?」
依織が差し出された楽譜に視線を落とすと、『夏は来ぬ』と上部にタイトルが書かれていた。
「……二曲なんだけど」
そう言いながら、由良は差し出した楽譜をめくりもう一曲を依織に見せる。タイトルは「浜辺の歌」だった。
「どうかな…?」
そう、言いながら由良は依織の顔をのぞき込んだ。その瞳は自信に満ちていて、断られるはずがないという確信のようなものが見て取れた。
「……夏は来ぬ、良い曲ですよね」
そうつぶやくように依織が言うと、なおさら由良の瞳は確信の色を濃くした。
絶対に嫌だ、と依織は思った。
由良が嫌なわけでもなく、曲が悪いわけでもなかった。時間にもそこそこ余裕がある。それでも、「絶対に嫌だ」と思った。
この頃、「歌の伴奏」をするには、依織が負った傷はまだ乾ききらない生傷のままだった。
「……他の人に頼んで」
差し出された楽譜に触れることもなく、依織はそう言うと踵を返してその場を立ち去った。
去り際にチラリと見えた由良の瞳にはあからさまに失望が見て取れた。
「この人は誰かに拒絶されたことがないのだろう」と、そんなことを思いながら依織は由良の視線を振り切るように歩き続けた。
C-8に単旋律の「夏は来ぬ」が静かに響いた。ぼんやりと記憶を辿りながら、旋律を辿る。そもそも、この曲は楓がよく鼻歌で歌っていた。そんなことを思い出した。機嫌良さそうに歌う楓の姿を、未だに鮮明に思い出せる。
ふと窓の外に目をやると、梅雨のどんよりとした空が広がっていた。この曇天が晴れたら、夏が来る。
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