episode4-1 夏は来ぬ

 直がC-8教室のピアノを調律してから音楽学科は試験の準備期間のようなものに入り、依織は練習に追われてなんとなく忙しい日々を送っていた。学科試験はともかく、実技試験だけはどれだけ練習しても「十分」だと感じたことはなかった。きっと、それは学生のほとんどがそうだろうと思いながら、依織はふらふらと学内を歩いていた。

 自販機の前まで辿り着くと、横並びの飲み物をじっとねめつけてから「どれにしようかな」と人差し指で端から順に指さしていく。適当に選んだ飲み物のボタンを押すと、少し間を置いてゴトンと取り出し口に飲み物が落ちた。

「よっこいしょ」

 取り出し口に手を伸ばそうと屈んだ拍子に思わず声が出る。「疲れてるな」と思うと、依織は盛大にため息をついた。

 何にこんなに疲れているのだろう、と思う反面、検討もついている。「終わりがないことに疲れている」のだ。

 音楽には終わりがない。練習しても練習しても、また次がある。ステージに出てしまえば一瞬なのに、こんなにもすり減らして何をしているのだろうと思う瞬間が依織にはあった。

 そして、ピアノに向かえば向かうほど、依織には喪失の苦しみがつきまとった。

 本当に、どこまでいっても終わりがない。

 壁にもたれてコーヒーの缶を開けると、ふわりと香ばしい匂いがした。一口飲むと、苦みが胃の底に落ちていくのを感じる。体にはじっとりとした梅雨の風がまとわりついた。

 ふと、前方に視線をやると見覚えのある背中が見えた。その背中が誰なのか認識した瞬間、少しだけ胸の奥がドキリと跳たのを感じる。無意識に呼吸を止め、依織はその人物に気付かれないようにゆっくりと体の向きを変えて、その場を立ち去ろうとした。数歩進んだところで声をかけられたような気もしたが、気づかないふりをしてそのまま歩き続けた。


 どこに行く当てもなく、逃げるように歩き続けた依織は、気がつくとC-8教室の前に辿り着いていた。一呼吸してから教室の中をのぞくと、そこには誰もいなかった。少しの寂しさと安堵を感じながら、教室の扉をゆっくりと開けて室内に入った。

 光のいないC-8教室は、何となく居心地が悪く、依織は仕方なしにピアノの前に腰掛けた。

 ピアノの蓋を開けてみるが、試験曲の練習をする気にはなれず、適当に鍵盤を一つだけ鳴らしてみた。

 教室内にピーンと無意味なピアノの音が響く。

 逃げ込むようにこの教室に来てしまった罪悪感を、たった一つの音で拭い去るのは難しかった。

 ぼんやりとピアノの譜面台を眺めながら、先ほど振り切ってきた人のことを思い出す。

 依織が避けるその人は宮内 由良みやうち ゆらといって、依織の一学年上の声楽科の生徒だった。

「真木くん」

 自分一人しかいないはずの室内で、そう呼びかける声が、背中を追いかけてくるような気がする。

 いつもそうだった。

 由良は、いつだって依織の背中を追いかけて来た。

 最初の頃は何も考えず呼ばれれば立ち止まり、振り向いていたが、いつの頃からか依織は気づいてしまった。由良が自分を見つめる眼差しに、ある種の熱が宿っていることに。

 その様子を近くで逐一見ていた直は言った。「熱視線とはこのこと」と。

 以来、より面倒な事態になるのを避けたい依織は、由良とは距離を取り、のらりくらりと躱し続けている。「次の言葉」を言わせないために。

 気がつけば、実に五年にも渡る攻防である。

 更なる疲労感を感じ、大きく息を吐き出すと、ふいにこの面倒ごとの始まりの出来事を思い出した。

 確か、校舎のロビーで開催されるミニコンサートの伴奏を頼まれたのが、初めて声をかけられた時ではなかっただろうか。

 「曲目は……」

 そうつぶやくと、ぼんやりとした記憶を辿りながら、何となくピアノの鍵盤を叩いてみた。

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