episode3-4 雨と南東風が運ぶ言葉

 直が去ったあと、光はピアノの椅子に腰かけ、雲が泳いでいく様子を眺めていた。

 不思議と絵を描く気分になれない日だった。キャンバスの前に座っては立ち上がってを繰り返していたところ直がやってきた。そして、光からしてみればまるで魔法のようにピアノを直していった。

 ただし、その音は光の耳に届くことはない。

 聞こえないことは確かに不便だった。人と会話することさえ、配慮してもらわなければならない。「音を聞く」という当たり前にできていたことが、突然できなくなった。そこで光の日常はいったん途切れた。

 普通がなくなった。

 

 ゆっくりと流れていく雲をあてもなく眺めていると、不意に人の気配を感じた。光がゆっくりと振り返ると、そこには馴染みの顔があった。

 その人の唇が動き何か言っている。次いでゆっくりと光に近づいてきた。

「何て言ったの?」

 光は微笑みながら聞く。

「ここに、居ると、思った」

 光に聞かれると、井下 みな実いげ   みはわざとらしく大きく口を動かしながらもう一度同じ言葉を言った。

「さすがみな実ちゃん。正解ですねぇ」

 へらへらと笑いながら光が言うと、みな実は呆れたような笑みを浮かべた。

 光とは高校からの友人であるみな実は、どこかぼんやりとしたところのある光とは対照的な性格だった。そのせいか、いつも光の心配ばかりをしている。そんなみな実に対して、光は申し訳ないと思う反面、ありがたいと感じていた。

 ふと視線を移すと、みな実のペンケースが光の目に入った。そのとき、キラリと見慣れたキーホルダーが光った。光はみな実との懐かしい思い出に目を細める。

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