episode3-1 雨と南東風が運ぶ言葉

 光の世界から音が無くなったのは突然のことだった。

 天地がひっくり返ったかと思うほどのめまいを感じたあと、目覚めたら病室だった。耳がまともに機能していないことに気付くにはそう時間はかからなかった。

 意識を失う前から聞こえていた「ゴーッ」という不愉快な音が耳鳴りであることは間違いがなかった。

 船の中にいるようなめまいのせいで、体をゆすられていることに少し遅れて気付いた。ゆっくりと視線を動かすと祖母が心配そうな顔で何かを言っているのが見えた。

 パクパクと口を動かして必死に何かを伝えようとする祖母の姿を見て光は気付いた。世界から音が無くなっていることに。

 中学二年の夏だった。

 その日の、むせかえるような暑さが体にまとわりつく感覚を、いまだに忘れることはできない。

 

 教室内に置かれたピアノをぼんやりと眺めながら、光は音を失った日を思い返していた。

 音の狂いを直してもらうこともなく忘れられたように置かれるピアノに、あの日の自分をなんとなく重ねてしまう。

「治療の甲斐もなく」という言葉がわが身に降りかかるとは。この数年、そんな言葉が何度も頭をよぎった。

「君は直してもらえると良いね」

 そっとピアノに触れ一人ごちると、不意に人の気配がしたような気がした。

 光が視線を動かすと、直が教室の入り口でヒラヒラと手を振っていた。知った顔に光はほっとして手を振り返す。

 伊織と一緒にいることが多い直は、光と度々顔を合わせていた。どうやったらスムーズにやり取りができるのかも直は心得ている。手にしていたスマホで音声認識アプリを開くと、それに向かって話しかけた。

『ピアノ、直しに来たよ』

 光の独り言を聞いていたのか、画面にはそう文字が打ち出されていた。

「伊織くん、本当に頼んでくれたんだ」

 光の言葉に、直はうなずいて見せた。

『調律のプロじゃないし、どのくらい放置されてるかわからないから、ちゃんとできるか自信ないけど試してみるよ』

 そう伝えると、直は調律の準備にとりかかった。


 直が作業する間、光は近くにイスを持ってきて直の作業の様子を眺めていた。「なんか緊張するなぁ」と直は頭を掻いたが、スマホを通して光と会話をしながら作業を進めていった。

 教室に差し込む光の場所が変わった頃、直が道具を片付け始めたことに光は気づいた。

「終わったの?」

 そう聞くと、直は「うん」とうなずいた。

 片づけをすべて終えると、光のそばに少し近づきスマホに話しかける。

『虫とかいたらどうしようかと思ってたけど、それほど狂ってなかったよ。意外とちゃんと手入れされてたのかも』

「そうなんだ」

『そうみたい』

 そう言うと、直は時計のほうに視線をやった。

『それじゃあ、俺はそろそろ行こうかな』

「用事?」

 時計を気にする直を、少し不安そうな表情で光が覗き込む。

『あー、バイト……ってほどのものでもないんだけど。知り合いに受験生がいてさ、ちょっと勉強見ることになっちゃって』

「そうなんだ。忙しいのにありがとう」

『いいのいいの。本当は今日暇なはずだったんだけどさ』

 直は口をとがらせて不満そうな表情をして見せた。

『まぁ、それはいいんだけど。伊織にも、ピアノ調律しといたって言っとくね』

「うん。ありがとう」

 直は教室の出口に向かうと、「またね」と言って、手を振った。


 一人になった教室で、光は直が調律したピアノの鍵盤を押してみた。

 指先にわずかに振動を感じるものの、音は聞こえない。

「直してもらえて良かったね」

 そうつぶやくと、ピアノの蓋を閉じ、いつものようにキャンバスに向かった。


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