episode2-1 雨だれの前奏曲

 伊織が楓と出会ったのは高校の入学式のすぐあとだった。専門コースの講師紹介の場所に彼女はいた。

 専攻が違う声楽コースの講師として紹介された楓のことを、伊織は特段意識していたわけではなかった。ただ、ある瞬間なんとなく目が合ったような気がした。そのとき、楓は機嫌良さそうにニコリと笑ってみせた。自分に向けた笑顔ではないかもしれないと思いつつも、その表情が妙に記憶に残った。

 依織は楓の表情から「周囲に愛されながら育った人なのだろう」そんなことを思いながらその笑顔をぼんやりと眺めた。

 それからしばらくの間、依織と楓は挨拶を交わす程度で必要以上に会話をすることはなかった。

 ある日のことだった。

 あと少しで夏休みに入る頃。まだ梅雨が抜けきらず、雨がしとしと降っていた。

 高校に入学してすぐさま親しくなった直に伴奏を頼まれていた依織は、合わせ練習のために放課後のレッスン室にいた。

 直が合流するまでの間、何の気なしにピアノを弾いていた。

 ドアの外に人の気配を感じて目線を上げると、楓と目が合った。楓ではニコリと笑うと、レッスン室のドアをガチャリと開けた。

 使ってはいけない部屋だったのだろうか、と依織が考えていると、楓が口を開いた。

「真木君……だよね」

 依織は状況が飲めず、おずおずとうなずいた。

「この間の試験とずいぶん違う雰囲気の曲を弾いていたから。違う人かと思っちゃった」

 開けたドアの隙間から顔を出し、楓が言う。

「雨だれ、だよね」

「……はい」

「試験のときは……革命のエチュード弾いてたっけ」

 思い出す様に楓は斜め上を向いた。

「あの……?」

 困惑しながら依織が声を漏らすと、楓は何かに気づいたように「あっ」と声を出した。

「ごめんね、練習の邪魔しちゃったね。それじゃあ……おじゃましました」

 そう言うと、ニコリと笑いヒラヒラと手を振って楓は部屋を後にしようとした。

「あれ? 田中先生だ」

 楓が退室しようと体の向きを変えるのと同時に直が姿を現した。予想外の人間がいることに、少し驚いたような顔をしている。

「ここ、使ったらダメでした?」

 先ほど依織が考えていたことを直が言う。

「ううん、違うの。ちょっと真木君とお話してただけ」

 そう言うと、少し眉尻を下げて続ける。

「練習のおじゃましちゃったみたい。ごめんね」

 そう言って、今度こそ楓は部屋を後にした。

「……何の話してたわけ?」

 楓の背中を見送ると、直が口を開いた。

「何ってほどでもないけど」

 そう言って、依織は窓の外に目をやった。依然として雨は降り続けている。

「弾いてたんだ、雨だれ。そしたら、ふらふらっと入ってきて、以下見たとおりって感じ」

「へぇ。好きなのかな」

「は?」

 主語の抜けた直の発言に、依織は思わず変な声を漏らす。

「……雨だれが」

「あぁ、雨だれ。……いや、好きかどうかは言ってなかったけど……」

「けど?」

「試験の時と別の人かと思った、って」

「あぁ」

 直は依織の言葉に合点がいったとばかりにニヤリと笑いながら相づちを打った。

「あれは鮮烈でしたからね」

 言いながら直は座り込んでチェロのケースを開ける。

「……鮮烈って……」

「だってそうでしょ。一年の最初の試験で、超絶技巧披露するんだもん」

 思い出すようにうなずきながら直が言う。

「練習曲が課題だったし……」

「みんなツェルニーの40番とかだったじゃない」

「弾けって言われたやつ弾いただけだし……」

「はいはい」

 いなすように直が適当な相づちを打つ。

 依織がブツブツと言っている間に、直はケースから楽器を取り出しチューニングを始めようとチューナーのボタンを押そうとしていた。

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