episode1-3 キミとボクと

 楽譜をバッグにしまいながら、レッスン前の直とのやり取りを依織は思い出していた。

 聞こえない光に遠慮してあの教室でピアノを弾くことを避けていたわけではない。ただ、あの瞳に見つめられながらピアノを弾くことを想像しただけでもいたたまれない気持ちがした。だから、避けていた。

 面差しが似ているわけではない。それでも、時々どうしても、光の眼差しが依織の記憶を揺さぶった。

「真木君、考えごとかい?」

 手が止まっていたのか、教授の高木に声を掛けられ依織はハッと顔を上げた。

「あぁ、いえ」

 依織は答えながら慌てて片づけを済ます。

「季節の変わり目って、なんかボーッとしちゃうよね」

 少しずれたようなことを言いながら高木は窓の外を眺めた。

「あとちょっとしたら梅雨になるね」

「……そうですね」

 つられて依織も窓の外に目をやった。

 高木は茫洋ぼうようとした人物だった。音楽家らしいといえばそうかもしれないし、競争心のなさがらしくない気もする。

「考えごとしてるうちに、季節って過ぎていっちゃうんだよね」

 ポツリとつぶやくように高木が言った。ぼんやりと間延びした話し方は、まるで夢の中にいるような雰囲気を持っていた。

 依織は振り向いて高木の顔を見るが、やわらかな笑みを浮かべるその表情から感情は読み取れなかった。

「……それじゃあ……帰ります。ありがとうございました」

「うん。お疲れさま」

 高木に会釈をすると、依織はレッスン室を後にした。

 足早に校舎の外に出ると、先ほどとは空気の匂いが変わっている気がした。高木が言うとおり、もう少しで梅雨がやってくるのかもしれない。依織は、アスファルトから上がってくる湿り気のある匂いに、季節の移り変わりを感じた。

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