episode1-2 キミとボクと

 光はよく喋る。

「耳が聞こえない」というと、どうしても喋らない、喋れない、手話を使う、そういったイメージをしてしまいがちだが、中途失聴者である光にとっては声で話すことは不自然なことではなかった。

 とはいえ、依織が声で話してしまえば光には伝わらない。依織にとって『C-8』教室は、やはり不思議な空間だった。

「依織!」

 依織が楽譜の入ったバッグを肩にかけ直すと、背後から声をかけられた。振り向くとそこには見慣れた顔があった。大きな楽器を背負って、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべる青年が立っている。

 依織の高校からの友人である阿久津 直あくつ なおは、依織が振り向いたのを確認すると子犬のような表情で小走りに駆け寄ってくる。

「これからレッスン?」

 会ったらと、と軽口を叩いた直後に本人が登場したため、依織は、噂をすれば影がさすとはこのことか、と思わず直の顔をまじまじと見つめた。

「何? 顔になんかついてる?」

「いや、別に」

 口の端を持ち上げニヤリと笑いながら、依織が答えた。

「直、レッスン日だっけ?」

「ううん、違う。今日はオケの練習日」

「ふーん」

 そのまま、二人並んでなんとなく同じ方角に向かって歩き出した。なんとなくで向かった先は売店で、これまたなんとなく二人連れで入った。

「伊織、時間大丈夫なの?」

 ぼんやりと飲み物の陳列棚を眺めていると、思い出したように直が言った。

「んー、うん。俺、コマの後半だから」

「ふーん」

 思い思いに飲み物を購入して売店を後にすると、またもやなんとなく同じ場所に向かって歩き出した。

 少し歩くと、校舎の前に置かれたベンチに二人で腰をかける。

「……直、練習何時からなの?」

「んー、次のコマから」

「ふーん」

 なんとなく伊織が時計を見ると、レッスンの時間まで小一時間ほどあった。「結構時間あるな」と、ぼんやりと思った。

「C-8にいたの?」

 二人でぼんやりと雲が流れていく様を眺めていると、不意に直がそう言った。

「んー」

 伊織は気の抜けたような返事をする。先ほどの光との会話を直に言うべきだろうか、そんなことが頭をよぎった。

 直は伊織の頼みごとを聞いてくれるだろう。しかし、光がいるあの教室のピアノをわざわざ調律してまで弾くのはなんとなくためらわれた。伊織がそんなことを考えていると、直が顔を覗き込んできた。

「何? なんかあった?」

「……なんで?」

 訝しげな表情で依織は直を見る。

「いや、なんとなく」

 直は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。

「たまに、頭の中を読まれているような気がする」

「やっぱり、なんかあったんじゃん」

 依織がボソリとつぶやくと、直が得意げに言った。

「……何かあったわけではないけど」

 少し考えてから伊織はそう切り出した。

「けど、何よ?」

「あの教室にピアノがあるだろ?」

「あぁ、あれね。だいぶ使われてなさげだよね」

 思い出すように宙を見ながら直が言う。

「弾かないのか、って聞かれてさ」

「あー」

 合点がいったように直が相づち打つ。

 お互い何かを考えるようにほんの少し間が開いた。

「……調律、してみようか?」

 依織の顔を見ず、直は静かにそう聞いた。

「そうだなー」

 ポツリと伊織がつぶやく。それからまた少しの間をおいて、依織が口を開いた。

「暇なとき頼むわ」

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