episode1-1 キミとボクと

 実際、光の耳はほとんど聞こえていなかった。

 依織と出会った日も、「なんとなく誰かいる気がしたから振り返ってみた」と光は言っていた。

「依織くん」

 気がつくと、光は依織のことをそう呼ぶようになっていた。学年はずいぶん違ったが、敬語を使うこともない。そんな、どこか力の抜けた光の接し方が、依織にとってはどことなく心地よかった。

 二人が出会った教室は、使われることのなくなった音楽学部の教室のようで、ちょっと古いイスと机がいくつか、それと音の狂ったC3サイズのグランドピアノが置いてあった。そこに、光の私物と思われるイーゼルとキャンバス、絵の具などが散らばっていて、少し不思議な空間になっていた。

 この不思議な空間のなかで、光はイスに腰掛けるでもなく床にペタッと座り、大きなキャンバスに絵を描き続けていた。

 依織と光が出会ってから、あっという間に日にちが経ち、気がつけば五月に入っていた。『C-8』と札が出されているその教室で変わらず光は絵を描き続け、依織はぼんやりと楽譜を眺める日々を送っていた。

 

 光が一息つくように、キャンバスから体を少し離した。何かを思いついたような目をしたあと、依織に「ねぇ、ちょっと。」とでも言いたげに手招きをする。それが視界に入った依織は、ぼんやりと見つめていた楽譜から視線を上げ、顔の前で「何?」と人差し指を揺らした。

「暇じゃない?ピアノ弾かないの?」

 小首を傾げながら光が言う。

 少し考えてから、依織はスマホを手に取った。

『暇じゃない、大丈夫』

 そう文字を打ち込むと、光に見せた。すると、光はピアノを指さした。

「練習とかしないの?」

『そのピアノ、調律してないから』

 文字を見ると、うんうん、とうなずきながら光は再びキャンバスに向かった。筆を取ってから少し考えるような表情をすると、依織に向かってもう一度手招きをする。

「調律って何?」

「わかってるのかと思った」

 依織はとっさにそう返すと、光の不思議そうな表情に思わず笑いが漏れた。

『そのピアノ、音が狂ってるの。直さないと弾けないよ』

 そう文字を打って光に見せた。

「音が狂ってるのを直すのが調律か」

 合点がいったとばかりに光はうなずきながら言う。

「直せないの?」

 依織の顔を覗き込むようにしながら光が聞く。

「俺が?」

 依織は自分を指しながら声に出した。光はうんうんとうなずいて見せる。

『道具持ってないし』

「見てみたい、直すとこ」

『じゃあ、今度、直にでも頼んでみるよ』

 打ち込んだ文字を見せると、光の瞳がキラリと輝く。伊織には、その好奇心に満ちた瞳がある人の面影と重なって見えた。そう思った瞬間、胸の奥がざわめくのを感じ、思わず光から目をそらした。

『そろそろ、行くわ。レッスンの時間』

 依織は自分のなかの気まずさを紛らわすようにそう文字を打つと、光に見せた。

「そっか。頑張ってね」

 スマホをのぞき込むと、光は依織を真っ直ぐと見つめそう言った。

「直くんにもよろしく言っといてね」

 部屋を後にしようとする依織の背中に、光は釘を刺すように言葉を投げた。

「会ったらね」

 依織は振り向いて、ゆっくりと大げさに口を動かしながら言った。


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