第九話

 簀子すのこの上で仰向けになった三姫は青い空を飛んで行く小鳥たちを眺めていた。


 ――姫様、御簾の中に入ってください!

 ――そんな風に気安く姿を見せるものではありません!

 ――大の字で引っくり返って……なんてお行儀の悪い!


 いつもなら矢継ぎ早に小言を言われるところだが鬼門の対の屋に三姫を叱りつける人はいない。祖母も母親も、伊勢も他の女房たちも、もちろん鬼童丸も。誰もいない。しん……と、静まり返っている。


 昨夜、約束したとおり伊勢は朝になると鬼門の対の屋で眠る三姫を起こしに来てくれた。朝ご飯を運んできながら母親の様子を話して聞かせてくれた。

 母親は今もまだ床に伏せっているという。


 朝ご飯を食べ終わる頃、祖母が唐菓子とうがしを持ってきてくれた。小麦粉に甘葛あまづらの汁を加えてこねて、油で揚げたお菓子だ。

 甘い香りと、かじった瞬間に口の中に広がる素朴な甘さに三姫の胸がちくりと痛んだのは唐菓子が鬼童丸の好物だから。食べた瞬間、幸せそうに目を細める幼馴染の顔を思い出してしまったからだ。


 鬼門の対の屋に三姫と唐菓子を残して祖母と伊勢は北の対の屋に戻っていってしまった。祖母と伊勢と話せたのはたった半刻ほどだ。

 母親の看病や女房たちへの指示。屋敷に戻ってやらなければならないことはたくさんある。三姫が鬼になったことによる混乱は続いている。三姫のそばにずっといることはできない。

 それはよくわかっているのだけれど――。


「……寂しい」


 思いがけず漏れた言葉に三姫は飛び起きた。そばに置いてある花籠を引き寄せて胸に抱きしめた。

 鬼の角が生えてきた原因は鬼童丸に渡されたこの花籠だと言われたときは頭が真っ白になった。それでも、この花籠を手放すことはできなかった。

 竹でできた鳥籠と、鳥籠の中に入れられた布の百合の花。抱きしめていると気持ちが落ち着くのだ。不安が和らぐのだ。


「……」


 しばらく鬼童丸がくれた花籠を抱きしめていた三姫は目元を指で拭った。花籠を膝の上に下ろそうとして――。


「あば、あばばば……!」


「何!? 何、何!!?」


 聞き慣れない鳴き声に慌てて手を止める。あたりを見回し、膝の上に視線を落として――。


「……っ」


 三姫は凍り付いた。

 緋色の袴の上に真っ白な綿毛が乗っていた。綿毛と言ってもタンポポのように小さなものではない。三姫の握った拳ほどの大きさだ。

 それに――。


「あばば、あばばばば……」


 小刻みに震えながら何かを訴えるように鳴き続けている。目、なのだろうか。くっついているゴマのような小さな二つの黒い点が三姫をじっと見つめていた。


「何……なに、なに……なんなの……!?」


 花籠を頭よりも高く持ち上げた体勢のまま三姫はおろおろした。

 現れたのは白い綿毛だけではなかったのだ。


 杖をついているように見える小枝と、その小枝を支えているように見える小枝がとことこと簀子の上を歩いて行く。


 茶色い夏毛のイタチが階を駆け上がってきたかと思うと優雅に段差に腰かけた。三姫の小指ほどの細さの竹筒を腹の毛の中から取り出すとぐいっと飲んで盛大にげっぷする。あたりに広がった酒の臭いに三姫は顔をしかめた。


 名門貴族の姫らしからぬ顔をしている三姫の膝に何かが当たった。見ると鬼灯ほおずきの実だ。どこから転がってきたのだろうかと不思議に思っていると鬼灯の実に一の字に線が入り、そこからパカッと開いて――。


「ぎゃあぁぁぁーーー!!!」


 ぎょろりと一つ目が現れた。鬼灯の血走った目に三姫は悲鳴を上げて仰け反った。立ち上がって逃げ出したいところだけれど膝の上には綿毛がいる。


「あばばば……」


 と、小刻みに震えながら居座っている。見るからに小さくて弱々しい綿毛をおっり出すわけにはいかない。


「ちょっと……なんなのよ! あっちに行ってよ!」


 どこから湧いて出てきたのか。次々に階を上がり、自身へと向かってくる小さくて見たことのない〝何か〟たちに三姫は悲鳴を上げた。


「こっちに来ないで……! 伊勢! お祖母様! きい丸! ……だ、誰かぁぁぁーーー!」


「あんまり大声を出すなよ、鬼の姫さん」


 わけのわからない状況に半泣きで絶叫していた三姫は頭上からの声に反射的に顔をあげた。


「そこにいるのはどいつもこいつも弱っちくて害になるような連中じゃない。落ち着けって」


 頭よりも高い位置に持ち上げたままだった花籠にスズメが一羽とまっていた。大きさも羽の色も普通のスズメだ。天狗のような白い鈴懸すずかけを着て、袈裟けさをかけていることと――。


「しっかし、おっかしいなぁ。人間の子供に世話してもらったって聞いてたんだが。教えてもらった場所に来てみたら鬼の姫さんがいるんだもんなぁ」


 よく喋ることを除けば、だ。


「スズメ……天狗……? 天狗のスズメ?」


「おい、姫さん! 天狗と言えばカラス。スズメが天狗とかあり得ない、とか言いやがったか? 鼻で笑いやがったか!?」


「……い、言ってない! そんなこと言ってないし笑ってない!」


「言ってないってことは思ったってことだな、こんちきしょー!」


「そ、そんなことはぁ~……」


 鳥籠の上で地団駄を踏み、羽をばたつかせて怒鳴り散らすスズメから三姫はそろそろと目を逸らした。思っていないかと聞かれれば思ったからだ。カラス天狗は聞いたことがあるけれど、スズメ天狗? と思ってしまったからだ。


「スズメが天狗を目指して何が悪いってんだ! 兄弟子あにでしのカラスたちにも散々、笑われたけどなぁ。ほれ、見てみろ! 無事に修行を終えて立派な天狗になってやった! 天狗だ、スズメ天狗様だぞ!」


「すごい! よく頑張った! おめでとう! どこからどう見ても立派な天狗様だよ! スズメ天狗だよ!」


 羽をばさりと広げて胸を張るスズメ天狗に三姫は称賛の言葉を送る。テキトーな気もするけれどスズメ天狗は満足したようだ。フフン、とあごを上げて飛ぶと三姫の膝の上に着地した。


「あば、あばばば……」


 三姫の膝の上で小刻みに震えていた綿毛が慌てた様子でスズメ天狗から距離を取る。


「小枝のばーちゃんも呑兵衛のんべえのイタチも一つ目の鬼灯も、弱っちくて人間や他のあやかしに触れられるだけで怪我したり、最悪、死んじまったりする。この白い綿毛なんて特にひどい」


 スズメ天狗は綿毛を見つめて肩をすくめた。


「天狗になったとは言え俺も大したあやかしじゃない。そんな俺が触っても命の危険があるくらい弱っちいやつなんだよ」


「あばば」


 スズメ天狗の言葉に同意するように綿毛は体を前後に揺らした。つぶらな黒い瞳がじっと三姫を見つめている。緋色の袴の上にちょこんと座ったまま、だ。


「でも、私の膝の上には乗ってるじゃない」


「あば……」


 三姫は綿毛を指さして眉間にしわを寄せた。途端に綿毛はゴマのような小さな瞳を潤ませる。綿毛の様子に三姫は慌てふためいた。


「ち、違うわよ? 疑ってるわけでも怒ってるわけでもないから! だから、そんな泣きそうな顔しなくても……!」


「俺たちや人間には触れないが鬼の姫さんなら撫でることもできるぜ。なにせ、鬼は強くて弱くて器用な生き物だからな」


「あば!」


 綿毛がまた体を大きく前後に揺らした。スズメ天狗の言葉にうなずいているのだろう。


「私、鬼じゃなくて人間なんだけど……」


「その成りで見え透いた嘘をつくなって。こいつらみんな、鬼の気配に気が付いて助けて欲しさ、撫でて欲しさに寄ってきたんだ。ほれ、まずはそいつを撫でてやりなよ」


 疑うような目でスズメ天狗を見ながらも三姫は花籠を簀子に置いて綿毛に指を伸ばした。でも、触れる寸前に手を止める。小さなスズメ天狗が触れても命の危険があるほど弱いのだ。スズメ天狗の何十倍も、何百倍も体の大きな三姫が触れたらやっぱり死んでしまうのではないだろうか。

 でも――。


「あばぁ!」


 躊躇ためらう三姫の指に躊躇ちゅうちょなく綿毛がすり寄った。


「うわぁ……!」


 ふわふわと柔らかくて暖かな感触に三姫は思わず声をあげる。昔、世話をしていたスズメの腹の毛もこんな風にふわふわしていた。触っても大丈夫らしいとわかると三姫は綿毛を手のひらに乗せ、てっぺんを指先で撫でた。


「あば、あばぁ……」


 綿毛はゴマのように小さな目をつむり、蒸したての餅のようにとろけて薄っぺらく広がる。


「これ、本当に大丈夫なの?」


「多分な」


「あばぁ……」


 膝の上にいたときは小刻みに震えていた綿毛だったが今はすっかり溶けて身動き一つしなくなってしまった。ついには撫でても鳴き声一つ上げなくなってしまった。心配になって耳を寄せると小さな寝息が聞こえてきた。

 三姫はくすりと笑って綿毛を乗せたままの手のひらを膝の上に下ろした。


「鬼は強くて弱くて器用な生き物ってどういう意味? 鬼は人を食べる怖いバケモノじゃないの?」


 三姫の言葉にスズメ天狗は目を丸くした。


「おいおい、自分のことだって言うのに何を言ってるんだい? 鬼が人を食うなんてあり得ないね。うまい酒があれば生きていける気の優しい連中だよ。……まあ、姫さんは金切り声で怒鳴り散らしたり、ちょいと違うようだけどな」


 ケラケラと笑うスズメ天狗に三姫は唇をとがらせる。そんな三姫を見てますます楽し気にスズメ天狗は笑った。

 でも、そのうちに腕――というか、羽組みをして首を傾げた。


「そうなんだよなぁ。姫さん、スズから聞いてた女の子の方にそっくりなんだよなぁ。しかし、スズは人間の子供だって言ってたし、姫さんは鬼だし。……でもなぁ、この鳥籠から確かにスズの匂いがするんだよなぁ」


 簀子に置かれた花籠に飛び乗ってスズメ天狗は右に左にと首を傾げる。


「スズってスズメのスズ? ケガが治るまで私ときい丸で世話していた、あのスズのこと?」


「きい丸! そう、男の子の方はきい丸って名前だって言ってたな! それじゃあ、やっぱり姫さんがスズが言ってた女の子……なのか?」


 確信が持てないのだろう。言いながら、やっぱり首を傾げるスズメ天狗につられて三姫も首を傾げたのだった。

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