第八話
あの日は押し付けられた仕事が終わらずに暗くなっても仕事場に残っていた。
質素な身なりの少年は季嗣と同じ年頃のように見えた。みずら髪姿だったから〝少年〟と言い表したが青年と言っていい背格好だった。
だというのに、まだ元服しておらず、髪も着ている物も子供のまま。
「あまりにも必死に頼むものですから、つい」
「ふーん。その少年ってどこの誰? 良仁君が知っている子?」
良仁が唇を噛んでうつむいたことなんて気にもせず、季嗣は身を乗り出して尋ねる。興味のある、なしが露骨に態度に出る主人に苦笑いして良仁はゆるゆると首を横に振った。
「いいえ、初めて会った少年でした。ただ、貧乏な下級貴族の子供だと思います。兄弟が多くて長男ではない……」
自分や弟たちと同じような境遇の子――という言葉を良仁は飲み込んだ。
良仁は下級貴族の次男として生まれた。
同い年の子たちが次々と元服を終え、年下の子たちにも追い抜かれていく。身体だけは大人になっていくのに髪も着ている物も子供のまま。ちぐはぐな姿が恥ずかしかった。でも、家に閉じこもっていては下の弟や妹たちが飢えてしまう。
両親に元服を諦めて無位として、庶民として働きに出てくれないかと言われたときにはいっそほっとしたくらいだ。
だが、そんなことを言っても都の中心にある広い屋敷で生まれ育ち、十二才で元服した季嗣にはわからないだろう。
「へえ、そうなのかい! よくわかるねぇ、良仁君!」
他意なく、嫌味でもなく感心する季嗣に良仁は曖昧に微笑んだ。
「でも、困ったねぇ。それじゃあ、結局、どこの誰だかわからない。……そうだ、良仁君。その少年から何か受け取らなかったかい? お人好しの君のことだからどうでもいい物をお礼として受け取ったんじゃないかと思うんだけど」
「……どうでもいい物」
「受け取っていないかい?」
年下の主人の無遠慮な言葉選びにため息を一つ。
「受け取りました。つつじを一枝。……あちらに飾ってあるものです」
部屋の隅に飾られた濃い桃色のつつじを指さした。それを見た瞬間、季嗣はにんまりと――実に楽し気に笑った。こういう笑い方をする時はろくでもないことをする時だ。
案の定――。
「よし、良仁君! 少年に会いに行こう!」
つつじの枝をつかむとスタスタと部屋を出ていこうとする。そんな季嗣に良仁はぎょっとした。
「今からですか!? 今からじゃないとダメですか!? 出仕したばかりなのに!? こんなに仕事が溜まっているのに!?」
季嗣専用の文机には
「何を言ってるんだい、当たり前だよ! ほら、良仁君も早く、早く! 少年の顔を知っている良仁君に来てもらわないと困るんだよ!」
子供のように腕を引っ張る季嗣に良仁は困り顔になる。実際、ガッシリとした体付きの良仁と細身の季嗣では父親と子供ほどではないにしろ、かなりの体格差がある。季嗣に腕を引っ張られたくらいでは良仁の体はビクともしない。
仕事が溜まっている今の状況で季嗣を行かせるわけにはいかない。後でまわりから嫌味や文句を言われるのは良仁なのだ。
「仕事を片付けた後ではダメなのですか? 季嗣様も仰っていたでしょう。だかが、幻術の呪符。質の悪い悪戯くらいにしか使い道のない物だって」
頑として座り込んだまま、季嗣を困り顔で見上げていた良仁だったが――。
「そのはずなんだけどねぇ。これが想定外に大ごとになってしまったんだよ」
季嗣の言葉に目を丸くした。
年下の主人は楽し気に笑っている。だが、楽し気に笑っているからといって安心してはいけない。厄介な問題が起こっている時ほど楽し気に笑うのが桂 季嗣という人物なのだ。
「季嗣様、そう言えば昨日はどちらに?」
強張った顔で良仁が尋ねた。
「桔梗家のお屋敷だよ。そこのお姫さんが少年が呪符を使った相手なんだけどねぇ、これがなんとびっくり! 鬼の姿になっていたんだよ! 半分だけなんだけどね、でも、鬼だよ、鬼! 良仁君は見たことがあるかい、鬼!」
「鬼……?」
季嗣は早口でまくし立てて部屋の中をピョンピョンと飛びまわる。
桔梗家や鬼になってしまった張本人の姫からしたら一大事だろうに。不謹慎だと小言を言いたいところだが、事の発端が自分である負い目から良仁も強く言うことができない。
季嗣を目で追いながら良仁は眉間に皺を寄せた。
「でも、幻術は触れれば解けるんですよね」
「そのはずなんだけどねぇ。いやぁ、かけた相手が悪かった!」
「かけた、相手……?」
ますます楽し気に笑う季嗣に良仁の表情が徐々に青ざめていく。
「僕も
季嗣が上機嫌なのはその〝眉唾物〟の話が理由らしい。あやかしに関する真偽不明の怪しげな本を集めるのが趣味の季嗣だがその中に書かれていたのだろう。糸のように細くなった目の奥が爛々と輝いている。常軌を逸した季嗣の笑みに良仁は息を呑み、凍り付いた。
それでも――。
「私が渡したのは幻術の呪符です。幻術の呪符だった……はずです」
どうにか言葉をしぼり出す。
「うん、そこは疑ってないよ。良仁君がやることだし、あれは間違いなく幻術の呪符のニオイだったしねぇ」
あっさりとうなずいて季嗣は自身の鼻の頭を指でつついた。
「でもね、お姫さんの額から生えている角に触れても術は解けなかった。すっかり現実の物になっていた。桔梗家の〝鬼の血〟が影響しているのか、それとも少年が呪符に何かしたのか。なんにせよ、あれはもう元には戻らないね」
「そんな……!」
「それでね、お姫さんのお父さんがうちとの結婚を断らなきゃって言っててねぇ」
「うちって……桂家との結婚、ですか?」
桔梗家には三人の姫がいる。一の姫、二の姫はすでに嫁いでおり、末の娘である三の姫は近々、季嗣の弟の元に正室として輿入れする予定だ。
「それじゃあ……!」
鬼になったというのがその三の姫なのだと気が付いて良仁は顔面蒼白になった。
良仁が書いて渡した呪符のせいで破談になるのだ。名門貴族と名門貴族の婚礼の儀という大ごとが破談になるのだ。
次期当主の長男――つまりは季嗣の婚礼の儀が盗賊に襲われて悲惨な結果になって以来、桂家現当主である季嗣の祖父はずっと虫の居所が悪い。今回の件が耳に入れば良仁のクビは飛ぶかもしれない。仕事を失うという意味ではない。物理的に、だ。
「とんでもないことになってしまった……!」
「うん、だからね」
頭を抱えて床に突っ伏す良仁の肩を季嗣がポン! と叩く。
「僕が鬼のお姫さんをお嫁さんに貰おうかなーって思っているんだよ」
さらりと季嗣が言った言葉を
「……は?」
良仁は真顔かつ強めの口調で言った。
「だって、鬼だよ、鬼! 鬼をお嫁さんに貰える機会なんて一生に一度、あるかないかだと思うんだよ!」
「ないです。普通はないです。一生に一度もないです」
「でもねぇ、ほら。うちのお
動揺のあまり主人相手であることも忘れて真顔かつ強めの口調を続行する良仁を気にもせず、季嗣は自身の鼻の頭を指でつつくと珍しく強張った笑みを浮かべた。
「なんとなくなんだけどね。お姫さんをお嫁さんに貰ったら、僕、死にそうな気がするんだよねぇ。あの呪符からなんか、こう……そんな感じのニオイがしたんだよね」
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