第7話 一番星を教えて。
一年がこれほどまでに長く感じた記憶は無い。一臣はあの日の約束をずっと忘れなかった。また春に、桜海に会うまでの日を指折り数えて待っていた。やがて月日が経ち、年をまたいだ。
三月になるとそろそろと言わんばかりに桜前線のニュースがテレビから流れ始める。
体が春の空気を感じ取りそわそわとし始めた頃、冬の間に寒さで中断していた散歩を再開した。肺一杯に温まった酸素を取り入れて、歩いていく。神社まで行くと、風が吹き抜けてカイの短い前髪を撫でていった。
「桜海!」
桜の木の下に去年と同じように桜海が佇んでいるのが見えた。一臣の声に気が付いて桜海は、はっとして顔を上げた。
「一年ぶりだな!」
一臣が再会の喜びを伝えると桜海はまだ眠そうに、それでいて嬉しそうに口元を緩めた。
「本当に、待っていてくれたんだ。」
また二人で朝日を眺める日々が続いた。一年前と変わらず桜海は美味しそうに水を飲み、その様子を隣にいる一臣が優しく穏やかに見守った。
朝の七時を過ぎると、神社の対岸にも人影がちらほらと見えるようになる。それは早朝練習に向かう運動部の学生だったり、出社するサラリーマン。犬の散歩をする老夫婦もいた。時には一臣の友人が通りかかることもあった。
「一臣ー!はよー。何してんの?」
「んー?花見ー!」
手を振って友人に応える一臣を桜海は羨ましそうに見つめている。そのことに気が付いたのは、最近のことだ。
「どした?桜海。」
「え?いや、別に…。」
桜海は何故か困ったように目を泳がせてしまう。一臣は首を傾げた。
「何か言いたいことがあったら、何でも聞くけど。」
「…。」
桜海は真意を言うべきかどうか迷っているようだった。口を開いては、また噤むを繰り返す。一臣は辛抱強く待った。
「あの…、」
「うん。」
ようやく決心した桜海は手の指を何度も組み替えながら、耳の先を朱に染めながら言う。
「一臣は、学校に通っているんだよね?その…、文字の読み書きはもちろんできるんだろ?」
「? うん、下手だけど…、」
一瞬、何故そんな当たり前のことを聞くのだろう一臣は思い、そして気が付く。桜海にとって、当たり前でないことに。一臣が察したことを察して、桜海は羞恥にぐっと唇を噛みしめて俯いてしまった。
「何だ、それなら早く言えよ!」
一臣は桜海の劣等感を飛ばすように、背中を豪快に叩く。
「痛い…。」
苦虫を噛みしめたような顔をして、桜海はじとりと軽く一臣を睨んだ。
「俺が字を教えるよ。」
「!」
桜海の顔色が欲しいものを与えられた子どものように明るくなる。
「本当?」
「もちろん!英語とか数学だったら無理だけど。」
そう言うと早速、一臣は落ちていた木の枝を拾い上げて地面に向かって字を刻んだ。
おうみ
「これが桜海の名前、ひらがなバージョンね。はい、真似して書いてみ?」
「…。」
一臣から枝を受け取って、真剣な表情で桜海は隣に自らの名前を書いた。初めて書いたという自分の名前を桜海は嬉しそうに見つめている。そして、ぽつりと呟いた。
「僕、学校に通う前に奉公に出されて、そのまま字が書けなかったんだ。」
昔を懐かしむ桜海はいつだって穏やかに凪いだ表情をしていた。殺されて生涯を終えた過去に、後悔はなかったのだと思う。
「へー。今じゃ考えらんねーな。」
「そうだろうね。」
はは、と桜海は笑う。そして意欲的に一臣に教えを乞うのだった。しばらく地面をノート代わりに文字が羅列した。
「ねえ。」
「ん?何ー?」
一臣は問う。
「一臣の名前はどうやって書くの?」
「俺の名前?ちょい待ち。」
がりがりと固い地面に書かれた、かずおみ、の文字を今までで一番真剣な瞳で見つめる桜海がいた。そして何度も何度も、教えてもらった名前を書き写して足元の地面いっぱい一臣の名前が刻まれた。
「…。」
一字一字を大切なもののように扱われて、一臣の胸はくすぐったく疼く。
「何か照れるね。」
一臣が頭をかきながら告げると、ようやく満足に書き終えたのか桜海が顔を上げた。
「覚えた。」
とん、とこめかみを人差し指でついて、桜海は宣言した。
「桜海。」
「何?もう見なくても書けるよ。僕の名前に、一臣の名前の一部があるんだね。」
何よりも、誰の名前よりも、先に一臣の名前の字を記憶した桜海はどこか誇らしげだ。
「好きだよ。」
唐突の一臣の告白に、桜海は意表を突かれる。
「今、言うことか?」
「今、言わなくて逆にいつ言うのさ。」
隣に座ったまま一臣はにじり寄った。肩と肩が触れて、視線が絡み合う。
「…一臣、背が伸びたね。」
「それこそ、今言う?」
ふは、と一臣は吹き出すが、桜海は寂しそうだ。
「そりゃね?成長期ですし。一年も経てば背も伸びるよ。桜海は…変わらないね。」
桜海は殺された年齢のまま、外見は何も変わらないという。老いることを手放した代わりに、悠久の時をたった一人で過ごしてきたのだ。
「いいじゃん。俺がじいちゃんになっても桜海はそのままって、眼福だし。」
いつまでも若い想い人だなんてとても素敵なことだと思う、と言うと、ようやく桜海が笑ってくれた。
その笑顔が、存在が、気配も全部。
「ー…好きだよ、桜海。」
今までも、幾度も口にしてきた言葉。好きって言葉はきっと桜海に言うためにあるとさえ思う。
「…ダメだよ。」
いつもなら受け流される言葉が、強は明確な意思を以て拒絶された。
「何で?」
「何でって…、僕は人間じゃない。呪霊、なんだよ。」
振られた一臣よりも桜海の方がつらそうな顔をしていた。
「好き。」
思わず口を吐くのは、やはり好意の言葉。
「僕が言ったこと、聞いていた?」
「うん。聞いてた。でも、好きなんだ。」
堂々巡りのやりとりに、桜海は根負けしてようやく苦笑ながら笑ってくれた。
「好きにしなよ…、もう。」
「する。」
へへ、と笑う一臣に、桜海は言う。
「ところで。学校の時間、大丈夫なのか?」
「! やば、遅刻じゃん!」
一臣は腕時計を見て、大慌てで身支度をする。そして立ち上がり、駆けていこうとする刹那。振り返って、桜海に手を振った。
「また来るから!」
「…はいはい。早く行けって。」
桜海はため息を吐きつつ、小さく手を振って一臣に応えるのだった。
一臣はまるで太陽のようだと思った。
桜海は木陰に座り、桜の花を仰ぎながら一臣のことを考えていた。
温かく成長を促し、存在を証明してくれるかのように明るく照らしてくれる。
自分の存在を認識してくれる人間に出会うのは、本当に久しぶりだ。周期があるかのように現れる人々に、どんな共通点があるのだろう。
「…。」
男性が圧倒的に多いが、女性のときもあった。年齢も幼かったり、はたまた老人だったりしたので案外神さまは何も考えていないのかも知れない。
「ああ、でも…。」
皆、皆すてきな笑顔をしていた。優しくて、朗らかで。微笑まれると嬉しくなる。そんな表情。
「元気かな。」
当時を懐かしみ、全員に会いたくなった。眩しく生きていたとしても、天寿を全うしていたとしても彼らが健やかでいてくれたらいい。
全てを包み込むような風が吹いた。桜海の黒髪を柔らかく撫でていく。髪の毛を耳にかけ、広げた手のひらの上に桜の花が首を切ったかのように落ちてきた。
顔が思い出せないあの人も、桜が好きだった。
ふっと笑い、桜海は花を口に含む。花びらのなめらかな食感と花心の仄かな甘みと舌を刺すような酸味が、口腔内に広がった。
呪霊になり空腹は感じないものの、いつの日だったか戯れに食べてみたのだ。美味しい、と思い、もしかしたら他の物も食べられるのではと、草の実なども食べてみた。結果としてどれも食べられるものでは無かった。体に取り入れた瞬間に胃が拒絶して、吐き出してしまった。
桜に縛られていると思った刹那と、恋人に愛されていると確信した瞬間は同じだった。
何て、恋しい。そして愛おしい。
桜海はしゃがんで、自らの人指し指で地面に文字を書こうとした。一臣の筆跡で残されたひらがなの表を見ながら、恋人の名前を書いてみようとした。
「…?」
思い出せない。
ぱた、と地面に黒い滲みが花のように咲いた。桜海の瞳から、涙が零れた。
ー…もう、あの人の名前も思い出せないのか。
「ぅ…、」
嗚咽が漏れる。
あの人の姿は記憶にもう朧気だ。桜だけが頼りだった。体と心に刻まれているのなら、完全に忘れることはないと思いたい。
「桜海!」
「!」
不意に名前を呼ばれて、桜海は顔を上げる。そこに学校帰りの一臣が立っていた。
「…一臣…。」
「どうした?しゃがみこんで。」
一臣は迷いなく、桜海の隣に腰かける。そして遠慮無く、桜海の顔を覗き込んだ。
「…もしかして、泣いてた?」
桜海の赤くなった目元を見て、一臣が心配そうに言う。
「うん…。」
素直に頷くと、一臣は桜海の気が落ち着くように手の甲を撫でてくれた。
「そっか。俺にできることはある?」
「…。」
自らに対する好意を利用してこのまま彼に縋れば、この気持ちは楽になるのだろうか。桜海は葛藤する。
「いいよ。」
一臣が身長差を利用して、もたれかかるように桜海の頭に頬を寄せた。微かに感じる重みが心地よく感じられる。
「何でも言って。」
「…しばらく、」
思わず、言葉が口から零れ出た。
「このままで。」
手を繋いで。抱きしめて。欲求をそのまま実現させることはしなかった。だけど、せめて互いに体重を預けて座っていたいと思った。
「うん。お安いご用。」
筋肉質な体を持つ一臣の肩は厚く、程良い固さを誇っていた。頭を預けると、その安定感から安心感を得ることができた。
「…桜海。泣くなら、俺の前で泣いてよ。」
「嫌だよ。恥ずかしい。」
俯いて呟くと、一臣は困ったように笑った。
「心配なんだけどな。」
そう言う一臣が空を仰ぐ気配がする。
「あ、」
「…何?」
一臣は空を指差した。
「一番星。」
桜海はその声に釣られるように、空を見た。丸い空の片方のふちが橙色に滲み、もう大部分を紺碧が占めていた。そしてぽつんと一人、佇むようにきらりと光る星があった。
「俺さー、昔から一番星を見つけるの好きなんだよね。」
「へえ。そう言われると一臣って、仲間はずれを見つけるの上手そうだよな。」
僕みたいな、という自傷を桜海は飲み込む。
「俺が見つけられるのは、一際輝いているものだけだよ。」
一臣は嬉しそうに目を細め、一番星を愛でていた。ただそれだけなのに、いつも見ていた一番星が特別なもののように感じるから不思議だった。
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