第6話 恋地獄

夏休みを迎えた。

最初の五日間で宿題を終えたいと思っている一臣は、町の図書館の学習コーナーを利用していた。家には誘惑が多すぎる。

空調が涼しく整った環境で、喋り声すら聞こえない。パラパラと本のページをめくる音が時々響く周囲は、夏休みを忘れさせるような静寂だった。

数学の宿題を数ページ終わらせて、冷たくなった肌を温めるために一臣は図書館の庭に出る。自動ドアが開かれた瞬間、大気に抱きしめられた感覚に陥った。

肩にわずかな疲れを感じて、軽く回してこりを解す。そして開いているベンチに座り、自販機で購入したペットボトルの緑茶を飲んだ。

蝉時雨とはよく言ったものだ。命の限りを尽くした声が、わずかな木立に響き渡っている。

一臣は目蓋を閉じて、天を仰ぐ。血潮が赤く、薄い皮膚を照らしていた。自然と呼吸は深く、落ち着いていった。

温かさは徐々に暑さに代わり、血液が沸騰する前に館内に戻る。さっと湯通しをするかのように、今度は全身が冷えた。気温差を心地よく感じつつ、学習コーナーの席に戻ると斜め前の空いていた席に桐谷が座って読書をしていた。

「…。」

いつ自分の存在に気付くかなと思い、あえて声をかけずに一臣は席に着く。宿題を進めること数分。不意に「あ」という声が聞こえ、顔を上げると桐谷と目が合った。

「よ。桐谷。」

「…。」

小さなため息が聞こえ、桐谷は席を立ってしまう。一臣は慌てて荷物をまとめ、後を追った。

「待てって。逃げなくてもいいじゃんか。」

「逃げてない。」

そう言いながらも、桐谷の歩くスピードは緩まない。

「読書、好きなん?学校でもよく本を読んでるよな。」

一臣は横を歩きながら、桐谷に構わず話しかける。

「俺もわりと本好きなんだけど、桐谷はどんなジャンルが好き?」

「…夢野久作。」

桐谷は一臣のしつこさに折れたように、ぼそりと呟く。

「ああ、俺は『瓶詰の地獄』が好きだなあ。」

応えてくれたことが嬉しくて、一臣は言葉を紡ぐ。

「そっか。幻想的な怪奇系が好み?」

「別に。好きな作家の作品をずっと読み続けてるだけ。」

「一途なんだ。」

桐谷の足を止めることに、ようやく成功する。背の高い桐谷は黙って、一臣を見下ろした。

「何?」

一臣が首を傾げると、桐谷は呟いた。

「…昔、飼ってた犬のゴローに似てるなって思って。」

桐谷は言いながら、ふとわずかに口元を緩めた。目色には飼い犬を思う懐かしさが滲んでいる。

「犬っぽいとはよく言われるよ。」

ゴローに感謝しながら、一臣は談話室に誘った。夏休み中はまだ図書館を利用する予定がある。うるさくて出入り禁止にされる前に、話をするなら図書館のルールを守らねばならない。

「いいよ。応じないと、後々いじけそうだから。」

くくく、と笑いながら、桐谷は一臣の提案に乗った。

「わかる?俺、寂しがり屋なんだ。」

軽い冗談を言い合いながら、二人は談話室の椅子に腰掛けた。

「で、何?話したいことがあるんだろ。」

桐谷はテーブルに頬杖をつきながら、単刀直入に一臣に問う。

「そう。今度、クラスの皆と海に行くんだけど一緒に行こうよ。」

「…。」

桐谷は何故か不思議そうに、一臣を見た。

「え?何、この間。」

「いや…。用件ってそれだけ?」

「うん?うん。」

一臣が頷くと、ふーん、と桐谷が呟いた。

「月宮って、高校からこの町に来たんだっけ。」

「そうだけど。」

そうか、と言い、桐谷は目を細める。

「月宮は俺が中学時代に起こした問題、知らないんだ。」

「知らんなあ。興味持った方が良い?」

一臣の問いに、桐谷は困ったように笑った。

「どっちでもいいよ。ただ…、クラス連中には同中が多いから俺が遊びに参加したら盛り下がると思うよ。」

「そう?そんなことないと思うけど。」

「月宮さ、『瓶詰の地獄』が何で地獄だと思う?」

突然の問いに戸惑いながら、一臣は『瓶詰の地獄』の内容を思い出す。

「兄妹で愛し合ったこと、かな。」

「そう。俺も、地獄のような恋をした。」

「え?」

「愛してはいけない人を愛したんだ。」


桐谷は中学生の頃、美術教師と付き合っていたという。

付き合い自体はプラトニックなもので、互いに触れるのは桐谷が成人してから、と約束をしていたらしい。だけど。だけど思いが募り、とある瞬間に表面張力が破れるように感情が溢れ出たという。

夕暮れの美術準備室。たった一回の拙いキスをした、ところを他の生徒に見られてしまったのだ。

小さな学校で噂はすぐに知れ渡り、校長や教育委員会の耳にも届いた。事は問題になり、その美術教師は方々から糾弾された。


「職場を追われた先生は心労がたたって、自殺未遂をしたって聞かされたよ。」

途方に暮れる桐谷の後ろ姿が、一臣の瞼の裏に浮かぶ。

「こんなに人を愛せるなんて、知らずにはいられないような恋だった。」

「…でも、人を好きになる気持ちって自然なものだろ。恋人の関係になるのだって、仕方なかったんじゃないのか。」

「男女の恋なら、そう思ってくれるヤツもいたかもな。」

「…。」

「先生は…同性。男だった。」

いくら多様性の時代といえど、未だアップデートを果たさない者が多い小さなこの漁村。自らには関係が無いことと思う中で、桐谷と美術教師のスキャンダルはセンセーショナルなものだった。

「なあ、月宮。わかるだろ。クラスメイトの中には、俺との交友を拒む親がいるヤツもいるんだ。だから…、」

「関係ないね。」

「…え?」

「教師と付き合ってても、同性愛者でも関係ない。だって、だって人が人を好きになるってすごいことだよ。互いに好くことができた桐谷を、俺は尊敬する。」

「バカじゃねえの。」

そう言う桐谷の声は震えていて、やがて額をテーブルの上に乗せた。ゴツン、と結構いい音がした。

「…。」

しばらくの間、二人に沈黙の帳が降りる。一臣はお茶を飲み、喉を潤した。

「…俺も…、」

桐谷が顔を横にして、呟いた。

「…俺にも、一口くんない?」

「いーよ。」

ほい、とペットボトルをテーブルの上に置く。

「…。」

桐谷はむくりと起き上がり、一気にペットボトルに入ったお茶を飲み干した。

「悪い。全部飲んだ。」

口元を拭いながら、幾分とすっきりとした面持ちで桐谷が一臣を見る。

「喉が渇いてたんだろ。」

「…そうみたい。買って返すわ。」

「いらん。悪いと思うなら、一緒に海行こうぜ。」

大きなため息を桐谷は吐いた。

「しつっこいなー、お前。」

ゴローはもっと可愛かった、と言って桐谷は笑う。

「まあね。青春しよーよ。」

「青春とか、諦めてたな。」

桐谷は立ち上がり、談話室のすみにあるゴミ箱に空になったペットボトルを放り込んだ。

一臣は腕時計を見て、言う。

「行こう。今。丁度、約束の時間になるし。」

「今から?」

「うん。」

一臣は急かすように桐谷の背中を押して、図書館を後にした。


二人乗りした一臣の自転車は下り坂をスピードに乗って、加速する。景色は流れ、残像のように瞳に映った。

「気持ちいーな、桐谷!」

「速すぎじゃね?」

風音で会話が聞こえず、自然と声が大きくなる。

「怖い?」

「怖くなんかねーし!」

張り上げた桐谷の声を初めて聞いて、何だか嬉しくて一臣は大きく口を開けて笑った。そして、瞳の縁にわずかに涙は浮かんでいるのに気が付いた。桐谷が背後にいて、この涙を気取られることがなくて良かった。

一臣は、桐谷と桜海を重ねていたのだ。

時代が変われば、もしかすると桜海は生きていられたのかも知れない。例え別れることになったとしても、殺されるよりはきっと良いはずだ。

世の中には、自分が知らない愛の形がたくさんあることを一臣は知った。

「…桜海。」

呟いた彼の名前は、誰にも聞こえず風に流れて消えた。

やがて到着した海岸線。一臣と一緒に現れた桐谷を、クラスメイトたちは驚きに満ちた表情で迎えた。

「やっほー。」

一臣はひらひらと手を振りながら、砂浜に降りていく。背後で、桐谷も錆びた鉄製の階段を降りてくるのを感じていた。少しの緊張感が桐谷から伝わってくる。

「俺たち、水着忘れちゃった。」

一臣は先陣を切るように、あくまでも軽い口調で友人たちに話しかけた。

「いや、海水浴に来て水着を忘れるとか。」

はは、と小さく笑いが起きる。その笑いを利用すべく、一臣は禁句を口にした。

「宿題してたら、頭から抜けたわー。」

「だから、宿題って言うな!!」

「ムカつくから、海に放り投げてやる!」

そう言うやいなや、一臣は男子に囲まれて背中を押される。ぐいぐいと波打ち際に追いやられ、一臣は桐谷に振り返った。

「桐谷!助けて!!」

「…、」

桐谷は一瞬躊躇して、そして砂浜を蹴る。集団に合流すると、一緒になって一臣を海に放った。大きな水飛沫が上がり、一臣は尻餅をつく。

「ひっでーな!」

一臣が笑いながら抗議すると、男子たちが桐谷も交えてハイタッチをした。

「やるじゃん、桐谷。」

「意外と力強いのな!」

水着姿の女子たちも、どこかほっとしたようにクスクスと笑っていた。その様子を見守っていた一臣はわだかまりが徐々に溶けていくのを感じていた。

ただ、きっかけが必要だったのだと思う。

そしてそれは、彼らの中学時代を知らない自分が空気を読まないことで、成し得ることができると信じていた。その期待に応えてくれた桐谷には感謝しかない。

その日から桐谷とクラスメイトたちは打ち解けていき、彼の笑顔は増えていった。

高校は三年間クラス替えがない。スポーツ大会や、文化祭。修学旅行はきっと楽しいことになると、確信できるような出来事だった。

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