第2話 手土産
道端には春の草花が綻び初めて、土を踏みしめる度にその花びらを揺らした。一臣は冬の凍てつく寒さから解放されて、春の気候によって地球の半分を温まりだした頃に早朝のランニングをすることにした。住宅地を抜けて、坂道を走る。川辺を行き、神社に続く赤い橋の手前の自販機でスポーツドリンクと水を購入して、桜の木へと向かった。はやる気持ちを抑えながらも、自然と笑む表情に思いは表れた。
「おーい、桜海!」
一臣は手の振りながら、大きな声で桜海に声をかける。彼の姿が見えると嬉しくて、その爆発的な感情をエネルギーに変えて駆けていった。
「! 一臣。」
その存在にはっとしたように気が付いて、桜海は一臣を見る。
「おはよう。今日も良い天気だな!」
「一臣…、そんなに大きな声で僕の名前を呼んだら不審に思われるよ。」
桜海の姿は多くの人には、見えないらしい。
「大丈夫っしょ。今、周りに人いねーし。」
事実、早朝の時間帯。神社に人気は無い。
「まあ、いいけど。」
桜海は照れ隠しに唇を僅かに尖らせて、つんとそっぽを向いてしまった。
「うん。」
一臣は嬉しそうに笑いながら頷いて、桜海の隣に腰かけた。しばらくは二人は無言のまま、そこからの景色を眺めていた。金色の朝日が町を照らして鳥の番いが共に朝を迎えられた喜びを歌い、囀っていた。遠くに見える海の水面がきらきらと太陽の光を反射して、ダイヤモンドを散らしたかのように輝いている。その輝きを見つめながら目を細める桜海の横顔を、一臣は盗み見た。
丸く秀でた額に、つんと高い鼻先のバランスが良いと思う。
人を呪うあまり、この桜の木に縛り付けられている。桜海は自分自身のことを『呪霊』だと言った。
一臣にはとてもそんな禍々しいものには思えなかった。
今まで呪霊、もとい幽霊や怪異などは見たことがなく、霊感など無縁だと思っていたが何故か一臣には桜海を見ることが出来た。不思議に思って首を捻っていると、桜海が「波長が合うんじゃない」と素っ気なく言うものだから嬉しくなって、そういうことだと納得した。
「…ちょっと、見過ぎだよ。」
いつの間にか自らを見る一臣の視線に気が付いて、桜海が居心地悪そうに呟く。
「ごめんごめん。綺麗だなあって、思って。」
「またそんなことを…。聞いてるこっちが恥ずかしいんだけど。」
素直に感想を述べて頬を人指し指でかく一臣に、桜海は耳の先を朱に染めてまた俯いてしまった。髪の毛がするりと落ちて、横顔の半分を覆ってしまう。桜海はよく俯く。伏し目がちに睫毛を震わせる表情も良いけれど、射貫くように前を向く視線の強さが一臣は好きだった。
「桜海。」
「…何?」
一臣は自分の膝に頬杖をついて、桜海の顔を覗き込んで言う。
「好きだよ。」
一臣は不思議なヤツだった。
呪霊である自分の存在を丸ごと受け入れて、それでいて事あるごとに「好き」と隠そうとしない好意を伝えてくれる。最初に目が合ったのは偶然、そう見えたのだと思った。だが、それでも視線をそらさずにじっと見つめられて、思わず話しかけてしまったのだ。
「え?うん、見えるけど。何なら言ってることもわかる。」
気持ち悪い、怖い、おぞましいなどの負の感情を持ち合わせていないのか、との桜海の問いに一臣は手をひらひらと振って答えた。
「あるに来まってんじゃん。」
「じゃあ、どうして…。」
戸惑う桜海に対して、一臣は目覚めたばかりのリスのようにきょとんと目を丸くしている。
「今って、何か怖い場面?」
一臣の答えを聞いて今度は桜海が目を丸くした。こいつの心臓には毛が生えているのかと思った。
「僕、呪霊なんだけど。」
「じゅれい?ああ、樹の霊のこと?」
桜海が一臣の勘違いを正すと、彼はいよいよ腹を抱えて体をくの字に曲げて笑い出す。
「いやいやいや!全っ然、怖くないんだけど!?」
「そんなに笑わなくても…。」
別に怖がらせたいわけじゃなく、脅かしたいわけでもないが笑われるのは不本意だった。思わず俯くと、ぽん、と一臣の広い手のひらが桜海の頭に置かれた。
「あ、触れた。」
「な…に、を、」
戸惑っていると、そのまま髪の毛を乱すようにわしゃわしゃと撫でられる。
「ごめん。あんまり綺麗だから、呪霊って似合わなくて。」
一臣の温かい日差しのような目色に微笑まれて、桜海は照れ隠しにその手を猫のように払いのけるのだった。
「ねえ、名前は?」
「え?」
不意に思い出したように一臣に訊かれて、あまりに久しぶりのことでとっさに対応できなかったことを覚えている。
「名前。あるだろ?」
「え、あ…うん。桜海。」
少々どもりながら桜海が答えると、一臣は噛みしめるように何度かその名前を繰り返した。
「桜海、ね。俺は一臣。よろしく!」
そう言って、一臣は桜海に手を差し伸べた。その手を握ってもいいものかと思い、それでもとそろそろ手を伸ばすと多少強引に手を取られてしまう。そして大きくぶんぶんと上下に振った。
「…ところでさ、本当に呪霊なのか?」
「今更?」
桜海は、くくく、と鳩のように笑ったあとに握手したままの手を引いて、昨夜降った雨の名残である水たまりの縁まで誘った。
「見て。」
「?」
一緒に水たまりを覗くと、そこには一臣の顔しか映っていなかった。その事実に一臣は目を丸くして、桜海と水たまりの両方を見比べた。ようやく事実を受け止めて、何故か一臣は目を輝かせた。
「すっげー。ガチじゃん!」
「だから言ったじゃないか。」
幽霊と友人になるの初めてだと言って、一臣ははしゃぐ。
「ん?ちょっと待て、誰と誰が友人だって?」
「え?俺と桜海が。」
事も無げに言い放って、一臣は不思議そうに小首を傾げた。
「違うの?」
「いや、だって。僕、幽霊…でも、ないし。呪霊だよ。」
関係ねーよ、と言って一臣は笑った。
「互いに害があるわけでもなし、せっかく知り合えたんだから。何なら…、」
一臣は言葉を区切り、そして次に続く言葉を探しているようだった。
「ねえ、桜海。桜海は一目惚れって信じる?」
「は?」
唐突に選ばれた言葉に、桜海は気の抜けた声しか出せなかった。
「俺、多分、桜海のこと好きだわ。」
そう言って、未だに繋がれたままの手に力を込められた。
以前、中学のクラスメイトとの会話で一目惚れについて話したことがある。そのクラスメイト曰く、見た瞬間、雷に打たれたかのような衝撃に加え、唐突な愛しさが沸いたらしい。その当時、思春期を迎えていた気恥ずかしさからその場にいた友人たちは、「大げさだな」「節操なし」などと言い合って笑っていた。一方で一臣は一目惚れを経験したというクラスメイトに、尊敬にも似た感情を抱いた。
好き、という気持ちがそんなにも素直に脳を直撃し、そして導き出された想いが愛。
まだ恋を知らなかった一臣は、一歩大人に近づいているクラスメイトが羨ましいと思ったのだ。そしていつか自分にも訪れるのかなと、未来が楽しみになった。
桜海の出会いは唐突で、衝撃的なものだった。そして抱いたのは、心を包み込む温かい感情。まるで雪の降る夜に入る露天風呂のような、ほっとする感覚だ。
しみじみと、ああ、好きだな、と思った。
桜海に、好きだ、と伝えると彼は困ったように眉を下げて笑う。そして「ありがとう」とだけ一臣に告げて、突き放しも、受け入れもしないのだ。
それでもいい。自分の気持ちを知っていてくれたら、それでいい。
「あ、そうだ。これ、お土産の水ね。」
桜海は桜の花びらと水のみ、口に入れることが出来るという。いつも雨水を飲んでいると聞き、以前、ミネラルウォーターを差し入れしたところすごく喜ばれた。
「ありがとう。いつもごめんね。」
そう言って受け取ると、桜海は嬉しそうにペットボトルに口を付ける。喉を鳴らして美味しそうに水を飲む桜海を嬉しく思いながら眺めて、一臣自身はスポーツドリンクを飲んだ。二人並んで水分補給するのが、最近の日課だった。
「俺さ、前まですっげー朝が苦手だったんだよね。」
「うん?」
桜海が一臣の唐突の話題に小首を傾げる。
「この町、っていうか桜海に会ってから、早起きになった。」
就寝前に、桜海のことを思い出してしあわせなまま夢の世界に向かう。そして目覚めれば、早朝の自宅を出るのだ。
無意味にスマートホンを眺め、ブルーライトを浴びた目の疲れを感じながらの起床に比べ、今のなんと健やかなことか。
「いいことじゃないか。」
桜海はそう言うと、いいこいいこをするように一臣の頭をなでた。吹雪いた桜の花びらを一枚ずつ、取り除く。
「うん。すこぶる体調が良い。」
一臣は甘んじて、桜海の甘やかしを受ける。
「それは何より。」
一臣の髪の毛に引っかかった桜の花びらを、桜海は無意識に口に運んだ。
「…。」
その様子を見て、一臣はじっと桜海を見る。
「? 何?」
ペロ、と親指の先に残った花心を舐めて、桜海は一臣に尋ねた。
「んー…、何か色っぽいなあって思って。」
「!?」
一臣の言葉の意味を咀嚼した桜海は、ケホケホとむせた。
「大丈夫?」
のんびりと笑いながら、一臣は桜海の背中をさすった。
「誰の所為だと…っ、」
「うん。俺の所為だね。」
膝を地面について、一臣は桜海を見上げる。まるでプロポーズをされるかのようだった。
「…。」
桜海はドギマギとした緊張感を孕んで、そっと一臣の視線から逃げる。
「桜海、ドキッとした?」
一臣は桜海の手を取って、その指先の爪にキスをした。彼の爪は整って、健康的な桜色をしていた。
桜海は振りほどくことも、突き放すこともしない。否、何故かできなかった。一臣の仕草や気配、息づかい全てが桜海を惑わせる。
「…困らせたかな。」
一臣が苦笑をする気配がした。
「でも、謝らないよ。」
相反した強気な言葉の使い方に好奇心が沸き、桜海は一臣を見た。一臣のアンバーブラウン色の瞳に桜海の顔が映り、久しぶりに自分自身と目が合う。
「…一臣の瞳には、本当に僕が映っているんだね。」
水にも、恐らく鏡にも写らない桜海自身の姿。一臣の瞳に映ることが心底不思議だった。
「そうだよ。」
一臣の目が細くなり、桜海の姿が甘く和らぐ。その瞬間、二人の姿を隠すような風が吹き、花びらが舞った。
「…もう、学校に行く時間じゃない?」
はらはらと舞う花びらを横目に、桜海は照れ隠しに言う。
「え?あ、本当だ。」
高校入学のお祝いに祖父からもらったという腕時計を見て、一臣は慌てて立ち上がった。どうやらまんまとごまかされたようだ。
身支度を調えて、一臣は駆け出そうとするが一瞬、立ち止まって桜海を見た。
「また来るから!」
そう言って、大きく手を振って一臣は今度こそ駆け出すのだった。
「全く…、忙しないヤツだな。」
桜海は一臣を見送りながら、呟いた。
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