君ノ木陰
真崎いみ
第1話 少年
真夜中の高速道路を走る自動車は、流れ星のようだと思った。
「…。」
車窓からの景色に雨粒が滲み、一閃のように横に流れていく。運転手である父が眠らないように、車内にはボリュームの下げられたラジオが流れていた。パーソナリティはお笑い芸人で、軽快なトークをゲストと交わしてた。
助手席からコーヒーを差し入れる母に、父は「寝てていいぞ」と静かに告げる。
「ありがとう。あなたも眠くなったら、サービスエリアで休んでね。」
「ああ。」
程なくして、母の健やかな寝息が聞こえてきた。父がラジオを天気予報のチャンネルに切り替える。今、降っている雨は止み、目的地の明日は快晴らしい。
「…父さん。」
「起きてたのか。」
月宮一臣はそっと声をかける。フロントミラー越しに、父と目が合った。
「どうした?」
「うん。…いや、うん。」
「寝ぼけているのか。」
父が苦笑する。本当は聞きたいことがあったけれど、上手く言葉を紡げなかった。
この春、父は自ら天職だとまで言っていた仕事を辞めた。向かう先は、港町の祖父の家だ。その港町で父は祖父の仕事、漁師を手伝うという。
祖父は腰痛を長年隠していたらしく、それが最近悪化した。船を売り、一緒に住もうと俺たちは提案したが、祖父はそれを拒否した。
ー…生まれ育った港町を離れる気は無い、海に出られないなら死んでやる。
頑固な祖父の性格が、その言葉に如実に表れていた。説得は意味を持たず、誰が話をしようとも聞き入れようとしなかった。
「父さんは、後悔してねーの?」
父はそんな祖父の願いを聞き入れた。
「後悔?してないよ。」
家族一緒にいられるならそれが一番だ、と言って朗らかに笑う。
「親父の後押しで前の職につけたんだからね、今度は僕が手伝う番だ。付き合わせるお前たちには、申し訳ないが。」
「俺は別に…。高校入学のタイミングで丁度良かったんじゃない。」
祖父が住む港町はのんびりとした雰囲気が好きだった。長期休みになる度に訪れたあの町は、きっと一臣たちを快く受け入れてくれるだろう。
父は車に備え付けのナビゲーションを見た。
「あとどれぐらい?」
「夜明けには着くだろう。一臣も寝てなさい。」
一臣は頷いて、目蓋を閉じた。次に光を見るときは、きっと港町の土地に踏み入っている。遊びに来たのではなく居住するとなると、どこか緊張感を孕むようだった。
不思議な響きを名前の余韻に残す町だと、常々思っていた。
町を象徴する花は桜。至る所に桜が植栽されている。父が運転する車が祖父の家を目指す間、何本もの桜の木を見た。
「着いたよ。」
キッとブレーキを踏み、古いが大きい民家の玄関先に乳は車を止めた。車から降りて一臣は懐かしさに目を細めながら、これから一緒に住む祖父の家の周囲を見渡した。その先に祖父の姿を見つける。祖父は、庭の松を剪定していた。父も気が付き、片手を上げながら近づく。
「親父。来たよ。」
祖父は先端にハサミをつけた器機を下げて、出迎えてくれた。
「早かったな。」
「深夜に家を出たからね。親父こそ、もう庭仕事をしてるのか。」
まあな、と頷き、祖父は切った枝をまとめ始める。
「昼間だと太陽さんが眩しいからな。」
「じいちゃん、掃除手伝うよ。」
一臣が立てかけてあった竹箒を手にすると、祖父はにやりと笑った。
「一臣か。何だ、随分いい男になったな。背も高い方だろ。」
「そうでもないよ。」
「そうか?」
近所のコンビニに朝食を買いに行っていた母が帰ってきて、庭にいる男たちに声をかけた。
「さあさあ、今日は忙しいわよ。10時には引っ越し屋さんが来るんだから。」
今日の予定を確認し合う両親を横目に、一臣は祖父と共に庭の掃除を終えるのだった。
季節外れの雪が散るように桜の花びらが舞い、太陽光が穏やかに肌を温める奇跡の季節。新たな門出には相応しい日だった。
「じいちゃん、おはよう。」
「おはよう。…どこか行くんか。」
家の玄関、まだ太陽の日が出るには少々早い時間帯。一臣はスニーカーの白いヒモをきゅっと結び直していた。
「ちょっと早く起きちゃったからさ。周囲、散歩してくるよ。じいちゃんは?」
「老人が起きる時間なんて、大体こんな時間だ。」
祖父は笑いながら腰を曲げて、玄関ポストから落ちた新聞紙を拾って顔を上げる。
「今日はお前の高校の入学式だから、気が昂ぶってるんだろう。朝ごはんに間に合うように、帰ってこいよ。」
「うん。じゃ、行ってくんね。」
片手をひらひら振って、一臣はまだ薄暗い町に出たのだった。
引っ越しから数日が経った。生活も落ち着き、後は町に馴染むだけだ。
歩いて小さな川沿いを行くと、奥の方に木々の集まりが見えた。今日はそこをゴールにしようと決めて、地面を蹴った。
「おー…。マイナスイオンって感じ。」
新緑の溢れる神社だった。そういえば小学生の頃、夏休みの間に遊ぶ場所として使用していたことを思い出す。
ザリ、と砂利を踏みしめながら、一臣は当時の記憶を辿っていた。
ミンミンと忙しなく鳴くセミを追いかけて、様々な木々を虫取り網で叩く。そういえば、奥の方にセミが連なるように生息した木があったはずだ。
「まだあるかな。」
一臣は子供心を思い出し、わくわくと気分を高揚させながら歩を進めた。そして身長の低い木々を横目にした小路を進み、その木を見つける。
木は青々とした芽がふつふつと目覚め始めていた。樹齢は長く、一等大きく、枝振りのいい桜の木の下。一人の少年が桜と対立した遺伝子のようにぽつんと存在していた。
黒真珠のような輝きを放つ、さらりと涼しげに流れる黒髪。目元の泣きぼくろが視線を瞳に誘うようだった。横顔だった故に、目が合うことはなかったけれど。
服装は品の良い黒のスラックスに、革靴がよく似合う。ベージュのワイシャツに、ループタイを締めた古風な出で立ちだった。
その桜の白色との対比が美しく、一臣が呆然と見つめながら突っ立っていると、少年はふとその視線に気が付いたかのように目線を持ち上げる。一本の線のように交わる視線に一臣の心臓の鼓動が大きく脈打った。数秒の間、縫い止めるように視線を奪ったかと思うと少年はまた視線をそらしてしまう。
「…。」
少年ははらりと舞い落ちる花びらを手のひらで掬うと、しばらく眺めて舐め取るように口に含み、飲み込んだ。小さな赤い舌、咀嚼して嚥下する白い喉元がひどく扇情的だった。ずっと、じっと見つめていると少年は再び、今度は居心地が悪そうに一臣を見た。
「?」
一臣が首を傾げてみせると、少年は何かを言いたげに口を開く。迷い、戸惑い、躊躇しながらひゅっと息を飲み込んで、そして。
「…僕が、見えるのか?」
と、問うのだった。
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