@fl2

第1話

 ある朝、複数の夢の反乱の末に目を覚ますと、肩から背中にかけて奇妙な重さがあることに気づいた。なんだろうと思いつつも、そのまま目を瞑る。いつもならすぐにまた夢の世界へ戻るはずなのだが、その日はそうはいかなかった。背中の違和感が気になる。やはり変だ、と思い首をうしろに回してみる。するとそこには、白くて大きな羽があった。その根元にまでは目は届かないが、明らかに自分の背中に「それ」はついていた。夢かなと思ってもう一度ベッドに潜ってみる。でもやっぱり背中の重みは消えなかった。

 だんだんあたりが明るくなってくるのを感じて、再び目を開いた。東向きの窓から、朝日が差し込んでくる。 床に転がった目覚まし時計を見ると、6時30分を指していた。昔読んだカフカの「変身」を思い出す。「得体の知れない毒虫なんかになるよりは、こっちの方がよっぽどいいや」ぼんやりした頭でそんなことを思う。

 今日は特に予定はなかったはずだ。明日は近くのホールで小さな演奏会。大きくはないけれどいいホールだ。イベールの木管五重奏を演奏する。頭の中に軽やかな旋律が流れてくる。


 次に目を覚ました時には、時計は10時半を指していた。羽の存在に慣れてきたのか、背中の重みはほとんど感じないことに気づいた。意を決して掛け布団を奥へと押しやり、立ち上がる。姿見に目をやると、綿のパジャマを着た私が映っていた。そしてその背後には、ちゃんと現実のものとして羽が存在していた。人間の体に羽が生えているという構図は絵ではよく見る気がするが、実際に生えているのはなかなか凄みがある。しばらくそれを眺めた後、空腹を感じ、朝食を食べることにした。

 近所のパン屋のイギリスパンに、クリームチーズを伸ばして食べる。今日は何をして過ごそうか。なぜか分からないけど今日の私には羽がある。せっかくだから外に行こう。クマの絵柄のトートバッグに読みかけの本やら紅茶を入れた魔法瓶やらを詰め込んでいざ出発。

 私は電車で一駅のところにある喫茶店に行くことにした。テーブルが2つとカウンター席が4つのこぢんまりとした店だ。

 店のドアを開けるとチリンと音がする。一番奥のカウンター席に憧れの先輩が座っているのが見えた。白くて細い指と真っ赤なネイル。彼女の手は紀伊國屋のブックカバーで覆われた文庫本をめくっていた。挨拶するべきか少し迷ったが、この狭い店内で気づかないふりというのも少々無理があるので勇気を出して声をかける。

「こんにちは先輩見てくださいこの羽を」「あらどうしたの」「朝起きたらあったんです」「素敵な羽じゃない!」

 ひとしきり羽について語った後、先輩はそのつややかな髪をかきあげ、これからどうするのか尋ねてきた。

「せっかくの羽をどう生かすかはあなた次第よ」

「その通りです飛んでみようかと思ってまして」

「あなたがやりたいなら挑戦するべきだと思う」

「でも明日は演奏会本番だから怪我でもしたら」

「そんな心配してたら何もできなくなっちゃう」


 楽しくお話しして私は喫茶店をあとにした。憧れの先輩に羽を褒めてもらって気分は上々。楓並木の道をテンポよく歩く。羽はすっかり私の一部であるように感じられる。

 自分の背中に羽があるなんて誰もが経験できることでもないのだから、何か私にしかできないことをやってみるのもいいかもしれない。やっぱり飛んでみようか。明日の本番より今日の冒険。自分を勇気づけたくてそう声に出す。

 少し歩いたところに広い公園があるので、そこの芝生で挑戦してみることにした。あそこには鳩がたくさんいたはずだから、彼らがきっとお手本となってくれるだろう。もし墜落しても芝生だから大怪我にはなるまい。

 公園に到着する。実際に飛び始める前に、まずはお手本の観察だ。鳩たちの動きをじっと見つめるが、あまり収穫はない。でも親近感は湧く。

 仕方がないから、ブランコに乗ってみた。ブランコを立ち漕ぎして、高く上がった瞬間に羽ばたけば飛べるのではないかと思ったからだ。

 ぐぅん、ぐぅん。だんだん高度が上がってきた。そろそろだ。次で飛ぼう。いや次だ。いやまたその次。

 なかなか飛ぶことができない。意外と怖いものだ。でもここで飛ばなかったら。飛びたい。飛びたいけど。あああ神様、どうか私に勇気をください。目をつぶって息を止める。でも何も起きなかった。


 バス停のベンチに座って、飛行機雲を眺めながら魔法瓶に入れてきた紅茶を飲む。朝からの一連の出来事のことを思い返していた。朝起きたらあった白い羽。先輩の言葉。ブランコから見た景色。

 やっぱり飛んでおけばよかった。あの羽で空を飛んだらどんな景色が見えたんだろう。わくわくする未来があったかもしれないのに。

 まあいいさ。明日がある。明日本番が終わったらまた公園に行けばいい。


 次の朝、複数の夢の反乱の末に目を醒ますと、肩から背中にかけてのあたりが妙に軽い気がした。なんだろうと思いつつも、そのまま目を瞑る。すぐに夢の世界に戻っていく。

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