第2話 心はまだ狂気の渦の中に

 逃げたいな、と思いつつも、この身体が自由に動ける訳がない。

 まだもぞもぞと腕を動かしていると「ああ、大丈夫だよ」と声が降りた来た。


「ニミルと言ったな。お前は、このリーベル王女の侍女か」

「……」


 ニミルは何も言わなかった。言わなかったんじゃなくて、言えないんじゃないかな。確かに侍女だけど、この年月をニミルは生き抜いた。

 それはお父様に逆らわなかったこと。お父様の狂気の言いなりになっていた証明。


「私は! わた、しは、ゆしてください、姫様!」


 地に伏したニミルは泣いているようだった。

 泣かないでいいよ、ニミル。従ったのが「当たり」なんだから。

 お父様に逆らう人は全員材料。人体錬成の肉塊になる運命。

 そんな風になるのを、私は監禁された扉越しに、その時の侍女から聞いたんだ。

 その侍女は死んじゃった、そう門番が私に教えてくれた。門番に対して逃げて、と

言った日。その門番もいなくなった。


「侍女かと聞いている」

「……仕えておりました」


 ニミルは地面に額を当てて、身体を丸くしている。

 あ、と私の中で点と点が結ばれた。ニミルは死ぬつもりだったんだ。

 私を助けるふりをして、剣なんか持って、突撃して、死んで許されようと思っていたんだろう。


「だが、王女は幽閉されていた。貴女がいたのに何故だ」


 それ、聞きたいよね。

 それはね、お父様が正気を失い、身の回りの使用人の殆どを殺してしまったから。

 私に近づく人たちも殺した。

 私がお母様の髪色と瞳を持っていたから。

 お母様を失っているのに、また失うと思って、たまに私のことをお母様の名前で、

呼ぶこともあった。

『ここにお前はいるのに』『同じ色だ』『リーベル、リーベル』『フェランテ!』

『フェランテはここにいる』

フェランテは生き返るのか!?』

 お父様。


「私は、王の凶行に従い、死ぬべきではない人間を告発し、生き延びたのです」


 ああ。

 私の目の前、近くにいる、このブレイズガルヴ王子が息を飲んでから怒りの気配を

表したのが分かった。

 だからか、と、この人は言う。この人も分かったんだね、わざとニミルが死のうと

したのが。


「お前はのうのうと生きるがいい。行こう、リーベル」


 ふわり、と身体が浮いた。

 視界も、この人でいっぱいになる。深い茶色の髪、茶色い瞳。整った顔付き。

 そして……お菓子の匂いがする。


「きあ……あ」


 汚いですよ、身体も垢だらけで、頭もしらみだらけで、洋服が汚れますよ、と。


「ん? どうしたリーベル。すぐに我が軍の衛生兵が来る。無理に喋る必要はない。

もう大丈夫だ。軽いな。身体も洗えば平気だ」


『大丈夫』と『平気』は何度も聞いたことがある。

 私を逃がそうとした人、幽閉された塔の扉の前で「助けますから平気ですよ」と、

言った人。

 みんな……みんなみんなみんなみんなみんなみんな!!


「うっ……あぁ……あ!」

 みんな、死んだ!

 私は暴れた。暴れるだけ暴れた。それが無駄だと分かっていても身体が暴れてしまうのだ。


「リーベル! リーベル? 大丈夫だ! 安心していい!」


「ァアッ……イィ……アァ!」


 涙は出なかった。涙の出し方を忘れた。

 最初、幽閉された頃、食事は質素だったが豪華だと思う。

 暖かいスープは、コーンだったり野菜だったり、紅茶もあった。パンは柔らかくて

たまに果物がついて、みながみな「ちゃんとお食事をとりましょう、大丈夫ですから、王もすぐに気づかれます」と優しい言葉をかけてくれた。

 しかし食事は、どんどん変わっていった。

 まず果物がなくなった。

 紅茶は水になった。

 パンは固くなった。

 スープは味がないけど暖かい時があったが、それも冷たくなっていった。

 最後に、水がなくなった。

 食事は一日一回。少しだけ黴びたパンと水のようなスープだけ。

 塔の中でネズミを見た時は驚いた。そのうち友達になった。

 お父様が扉の前で嘆いて語っていた言葉が頭の中でぐるぐると回る。


「アァアアァァッ」

「リーベル!」


 心が暴れる、心がおかしくなる。おかしくならないと壊れてしまう。

 そういうものだと、心が決着をつけた。そして、最後は、何も感じなくなった。

 部屋の中に寝転がって天井を見続ける日が続く。たまに背が痛くなったから座ったけれど、こっちも石だから痛くて、部屋の真ん中に座っていた。

 最初の時に盗んだスプーンで、石を傷つけて日を書いたけれど、食べては寝て、食べては寝ての繰り返しで、本当に一日経っているか分からない日が続いた。


 私は、せっかく抱き上げてくれた彼の腕の中で無駄な抵抗をする。

 ただ小さく動くだけの足、一応、伸びてくれる腕。

 なのにブレイズガルヴ王子は、私を落とそうとしなかった。

 足を強く抱き抱え、肩を強く引き寄せて何度も名前を呼んでくれたけれど、名前を

呼ばれる度に、死んでいっただろう人たちが、私の頭の中で「お前のせいだ!」と、

言い始める。


「……リーベル、少し落ち着いたら、一緒にお菓子でも食べないか?」


 お菓子?

 お菓子って、あのお菓子?


「きみと食べるお菓子は、よりいっそう美味しい」


 ふと肩の力が抜けた。

 そういえば、この人は私を見て「美味しそう」みたいなことを言ったおかしい人。


 私が抵抗しなくなったことで王子は歩き始めた。

 衛生兵のところまで連れて行ってくれるのだろう。途中、部下か誰かが「わたしがお連れします」とか言っていたのに、この人は衛生兵に預けるまで、ずっと抱きしめていてくれた。

 天幕らしき所に着いた時「頼めるか」と、彼はゆっくりと私を下ろしてから、手を

握り締めて、


「また来る。約束だ。それまで身体を癒やしてくれ」


 ふと、身体に灯っていたものが消えて、心が無に戻る。

 そのあとは衛生兵に色々してもらったと思う。

 髪や身体を洗われたり、医者らしき人が来て「白湯を定期的に飲ませて」と。

 聞こえるだけ聞いて、私は、ぼんやりとしていた。


 約束なんて嘘だ。来てくれる訳がない。お菓子を食べようだなんて――。


「わかった。食事は駄目なのだな。入ってもいいだろうか」

「これは殿下、どうぞ」


 さっき見た彼の色が揺れている。本当に来た。


「どうだ、少しは落ち着いたか? みな、少し席を外してくれ」


 彼は私の髪を撫でた。まだ汚い髪を。


「医師から聞いたが、さすがに固形物は駄目らしい。少しずつ回復すれば食べれるようになると言われたよ」


 そう言って懐から、懐かしい平たいものを出して半分に割る。


「片方はきみの分、もう片方は私の分」


 王子は割った片方を、ぱくりと食べる。もう片方は懐にしまって、


「うん、きみの瞳と食べるクッキーは格別だ。早く、きみとお菓子を食べたいよ」


 と、嬉しそうに笑った。変な人だ、この人。

 でも、その「変なところ」に私は安心感を覚えてしまった。

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