6■有志の主張に対する疑問点(3)
3)「WWEは伝統的に『女性』という性自認のないFtMには寛容だと耳にしました」というコメントについて。昨今の状況で言うと、「寛容」というより「無関心」なのではないかと思います。そのことを説明するために、わたし自身の体験をお話します。
わたしがウィークエンドに参加したのは昨年(2007年)が初めてでした。それも一般参加ではなく、当時のオーガナイザーから「ウィークエンドでWSやらない?」と持ちかけられました。その際、「@@さんの性自認は女性だよね?」と確認され、「女性の自認はない」と答えました。「男性の自認があるの?」と聞かれ、「それもない」と答えると、「それならいいよ」とのことでした。「いいよ」というのは「(参加しても)いいよ」という意味だったのだと思いますが、穿った見方をするわたしとしては、「(どうでも)いいよ」と受け取れなくはない感じがしました。しかし、こういうオファーでもない限り自分から積極的にウィークエンドに参加する機会はなかったでしょうし、そこで食ってかかるのも大人げないと思い、オファーに応じました。
いま改めて思い返すと、このときわたしが感じたのは「寛容さ」ではなく、「無関心」さや「いい加減」さに近いものでした。ウィークエンドは「女性による女性のためのイベント」だけれども、女性自認を持たない方や特定の性自認を持たない方でも、「とにかく男性自認さえ持っていなければ、女性の仲間に入れてあげますよ」という大雑把さを感じました(そして当時のウィークエンドはもはやネタ切れに近い状態だと感じました)。この大雑把さが助けとなる場合もあるでしょうけれども、大した問題でもないとスルーされている感じ、見て見ぬふりをされている感じ、言うなれば「いないことにされている」感じがします。「いないことにされている」のが嫌で、ウィークエンドが設立されたのではないでしょうか。同じことをされているような気がしました。
そもそも性自認という概念自体、ひじょうに面妖なものだとわたしは思っています。トランスパーソンだけが性別や身体に違和感を持っているわけではありません。多かれ少なかれすべての人が持っている感覚のはずです。性別と身体を男女に振り分けるためのチェックリストは社会が用意したものであり、すべてのリストに100%合致する方などいるわけがないからです。性自認(ジェンダー・アイデンティティ)は「心の性別」ともいわれますが、最初から「女の心」「男の心」を持って生まれるわけでもなく、社会や他者との関わりのなかで構築されるものです。中村美亜さんの著書『心に性別はあるのか?』に、性同一性障害における精神的苦痛は、「心と体のズレ」ではなく「心と社会のズレ」から生じる、とありましたが、まさしくその通りだと思います。性同一性障害やトランスパーソンでなくとも、「自分と社会のズレ」から性別と身体に対する違和感を抱く契機は遍在しています。その違和感がほとんどない方がたや軽度な方がたは、身体の性別と性自認が一致しているかというと、そうではなくて、性自認そのものが意識されない、考えたこともない、というのが妥当な線ではないでしょうか。
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