第二話 第二プールの冷子さん(3・完)
「……何かって、なんですか、先輩?」
わたしの問いかけに、先輩は仰向けにプールに浮かんだまま目だけをこちらに動かす。
「……これから話すことは、全て推測でしかないけれど」
雲の切れ間から細い光が差し、白雪先輩の顔に注ぐ。その光の中、彼女は目を眇めて言う。
「そもそも、『第二プールの冷子さん』の出現条件はかなり限定的だと思わない? 『かつての自分と同じ境遇の水泳部員』――泳ぎが上手く、大会でも活躍しながら、スランプで大会メンバーから外されてしまった人の前にだけ、だなんて」
「……まぁ、確かにそんなにいっぱいいるかと言われると首を傾げますけど」
浮草のように漂う先輩の髪を見るともなしに眺めながら答える。
「……ねえ、小夏。あなたはわかる? それが何を意味するのか」
「何を……」
珍しくわたしの名前を呼ぶ先輩に戸惑い、言い淀むと、先輩はそっと視線を外し、
「……高校の部活という狭いコミュニティ、それを二分する第一プールと第二プール、そのどちらの連帯からも外れてしまった者、ということよ」
れんたい、と、そっと呟くようにそれを水面に零した。
「……連帯、ですか」
「ええ。コミュニティが内部で分断されればそれぞれの結束が強まるのは自然だわ。問題なのは、この分断が部員たちの意思ではなく部のシステムとしてあること。実力もあり、そのために優遇されている第一プールの部員と、実力不足のせいで本校舎からも遠くて設備も古びた第二プールに追いやられている部員。……こんな環境に置かれた人たち――第二プールの部員が第一プールの部員にどんな感情を抱くかなんて、想像に易いでしょう」
先輩の声は淡々としていて、けれどその声で明瞭になっていく感情の輪郭はひどく生々しい。
「……そうですね、わたしだったら、ズルい、と思ってしまうかもしれません。例えそれが実力なのだとしても、あからさまに目に見える形で突き付けられれば、ひどくやり切れない気持ちになりそうです」
「……そうね――なら、そこに昨日まで第一プールにいた人間がやってきたら、どうなると思う?」
「――っ」
気づけばさっきまで仰向けでプールに浮かんでいた先輩が、音もなくわたしの足許に近づいてきていて、驚いて仰け反る。
「その子は、一年生なのに大会メンバーに選ばれて早々に恵まれた第一プールに行ってしまった。そのことをよく思わない上級生もいたでしょう。彼女だけズルい、と嫉妬する同級生だって、いたでしょうね。――そして、真面目で面倒見の良い人間である彼女自身、その蟠りには気づいていたのではないかしら? 自分だけが恵まれた環境に、という後ろめたさ。さらには、スランプに陥っているタイミング。さぞ落ち込んで、弱っていたことでしょうね」
ぼちゃり、と音を立てて水面を割った手がわたしの足に触れる。こちらを見上げる白雪先輩の瞳は真っ黒で、その唇が妖しく、どこか残酷そうに吊り上がる。
「――ねえ、そんな弱そうな人間の足を引っ張るのなんて、すごく簡単だと思わない?」
「――――」
細く、白い指先がわたしの内腿にぎゅ、と食い込んで、声にならない悲鳴が漏れた。
「し、白雪先輩……」
ギラギラと、真っ黒に輝く瞳が空恐ろしく、わたしは囁くように呼びかける。すると先輩は、パッと手を離し、すぐにいつもの冷たく取り澄ました表情を浮かべた。
「……生きている人間の足を引っ張るのは、死人や怪異なんかじゃない。いつだって同じ人間よ」
つまらなそうに言い捨てる白雪先輩の声音に、わたしは息が詰まった。
「……白雪先輩、それって」
大会メンバーから外れ、失意のまま第二プールにやってきた詠里ちゃんの姿を、わたしはプールの中に幻視する。他の部員からは遠巻きにされ、それでも一人泳ぎ続ける彼女を。
そうして前を向こうとする彼女の足許に、水中から影が近づき、そして――
幻視した光景に、白雪先輩の言わんとしているところの真実に――そのおぞましさに、わたしは吐き気がした。
ふいに、足先を浸したプールの水が、どす黒く粘度を増したように感じる。その奥に渦巻く、人間の暗い情念が絡みついてくるように。
「……言ったでしょう、全部推測だって。別に私だってこの第二プールが、そんな下劣な行為の温床だったなんて思っていないわ。話を聞く限り、彼女のことをちゃんと心配している部員はいたようだし……まぁ、彼女をよく思っていない部員がいることも、同様に確かだけれど」
教室で、廊下で、詠里ちゃんを気遣い、労っているように見えた水泳部員たちの姿を思い出す。その中で数人、不満のようなものを言葉の端に滲ませていた人がいたことも。似たような気持ちを、表には出さずとも抱えていた人は、他にもいたのだろうか。
「……私が言いたいのは、そういう部員の中に『魔が差した』人間がいてもおかしくはない、ということよ。そして、その人間を責める者もいなかったのでしょうね」
放り捨てるように、白雪先輩は言う。
それまでのコミュニティだった第一プールを追われ、やってきた第二プールでも白眼視され、それでも一人で練習を続ける詠里ちゃん。スランプを脱しなければ、と焦る気持ちは、きっと大会に出たいという前向きな理由だけではなかっただろう。今の境遇から早く抜け出さなければ、という強迫めいた焦り。
きっと、他の部員だって詠里ちゃん自身のことを恨んだり、憎んだりしているわけではないのだ。ただ、部内の分断による歪みが、詠里ちゃんという形で表面化してしまった。その結果、彼女に部員たちの不満、鬱憤、あらゆる負の感情が注がれてしまったのかもしれない。
必死になって練習に打ち込む詠里ちゃんが、ふいに足を強く引っ張られる。水面から上がって振り返ると、そこにいたのは上級生か、あるいは同級生の誰かか。
「……誰でも同じだわ。その根底にある醜い感情は、多かれ少なかれ部員たち皆に通底しているのだから。それに、言い訳もあったでしょうし」
白雪先輩の唇が、無感動にその水泳部員が言ったであろうセリフをなぞる。
「――『第二プールの冷子さんが引っ張ったんじゃない?』ってね」
平坦な白雪先輩の声に、ぞくり、と肌が粟立った。怪談に、ではなく、その怪談を語る人間の、その奥底にある醜さに。
「……ねえ、小夏。あなたならどちらがまだ救いがあると思う? 前へ進もうともがく努力を嘲笑うように、背後の水底から足を引っ張り絡め取ってくるのは――」
先輩は濡れた掌をわたしの足先に這わせると、囁くように尋ねる。
「……顔も知らない、怪談の中の存在と、同じ部活のよく見知った顔の人間とでは」
濡れた掌から体温が奪われていくみたいに、わたしは咄嗟には答えることができずに、身震いすることしかできなかった。
「……だから、彼女が『冷子さん』を見たのは、きっとそうあってほしかったからなのかもしれないわね。無意識のうちにでも、そう思い込まなければ耐えられなかったのか」
ぴちょん、と先輩の指が水面に触れ、小さな波紋を広げる。ゆらり、と広がり、拡散していくそれは、そこに溶けている悪意すらも薄めて、透明な水に紛れ込ませてしまう。
「……寒くなってきたわね。そろそろ部室に戻りましょう」
プールから上がり、髪の毛を押して絞りながら、先輩は呟く。プールサイドを歩いていく先輩の後を、わたしも濡れた足取りでゆっくりと追いかける。
その背中に追いつくまでの数拍、先輩の話を聞いて考えてしまった可能性を、口にすべきか迷う。
結局、わたしは追い縋った背中に問いかけていた。
「……先輩。もし、『第二プールの冷子さん』を見てしまう理由が、先輩の語ったようなものだったら……それを過去にも見ていた部員がいるのだとしたら――それは、詠里ちゃんのような目に遭ってしまった人が、今までにもいたということになるのでしょうか……?」
先輩は立ち止まると、プールに向かって首を巡らせる。
折しも雲が流れ、堰き止められていた午後の日差しが降り注ぎ、水面を一面真っ白に染め上げる。
「――あるいは、怪談というのは、祈りでもあるのかもしれないわね」
眩しさに細めた視界の中、先輩は振り向いて微笑んだ。強い日差しを受け陰になったその微笑みは、楽しそうにも、どこか寂しそうにも見えた。
「祈り、ですか?」
「……自分ではどうにもできない不条理に襲われた時、誰にも――神様にすら縋れない人間が、その不条理を呑み込み――あるいは肩代わりしてもらうために、その存在を祈る。仄暗くて、けれど切実な希求」
白雪先輩は最後に一度だけ、真っ白に輝くプールに一瞥を向けた。
その奥に潜むのは人間の悪意ではなく、人ではない怪異なのだと。
そう、強く強く、祈るように思い込んだせいで、詠里ちゃんは『冷子さん』を幻視したのかもしれない。
かつて自分と似た境遇に落ちてしまった少女の怪異を。
「――小夏」
ふいに、遠くから白雪先輩がわたしを呼ぶ声がした。気づけば先輩は、フェンスに干していたセーラー服を抱えて更衣室へと向かっているところで。
「早くしないと置いていくわよ」
「あ、待ってください、白雪先輩!」
置いていかれないように、わたしはプールサイドの上を駆けていく。
横目で見た水面はキラキラと光を乱反射して、何ものも見通せない。
見えないのならば、そこには確かにいるのかもしれない。
人の悪意も、祈りも、全てを受け入れ、じっと息を潜めているものが。
――そう思うことが、なんの救いにもなりはしないとわかってはいても。
「ねえ、白雪先輩」
追いついた背中に、わたしはそっと呼びかける。
「……なぁに?」
「わたしは、やっぱり、いると思うのですよ。『第二プールの冷子さん』は」
そう言うわたしの声は、自分でもどこか祈るような響きをしているように聞こえた。
「……そうね」
呆れたようなため息を吐いて、先輩は振り返って笑った。仕方のない子どもを見るような、そんな憐みにも似た優しい表情をしている、と思った。
「――いるかもしれないわね、きっと」
白雪先輩と旧校舎の百不思議 悠木りん @rin-yuki
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