第二話 第二プールの冷子さん(2)
その日の朝、同じクラスの水泳部の子たちが集まって、何やら暗い顔をしていました。その中でもしきりに周りから気を遣われている様子だったのは、
そんな彼女が青い顔で塞ぎ込んでいるなんて、わたしは意外に思って話を聞いてみたんです。すると、彼女の周りにいた水泳部の子たちが、揃って気味悪そうに口にするのです。
――『第二プールの冷子さん』が出た、と。
「……第二プールの冷子さん、って?」
わたしの問いに、一人の子が答えました。
「あのね、水泳部の中では有名な話なんだけど、昔『冷子さん』っていう女子部員がいたんだって。その子は泳ぎが上手くて、大会でも良い成績を残していたんだけど、ある時からスランプになってしまったみたいで……それ以来冷子さんは以前よりも必死に練習して、誰よりも遅くまで居残って泳いでいたんだけど、それでもスランプから抜け出せなくて……とうとう大会メンバーからも外されてしまったんだって。……でも、その後も冷子さんは毎日毎日遅くまで残っては最後の一人になっても泳ぎ続けていたの……そして」
その子はく、と喉を強張らせてから、ほんのりと恐怖を滲ませた声で続けました。
「――根を詰めて練習しすぎたせいか、泳いでいる途中で両足を攣ってしまったらしいの。冷子さんはパニックになって溺れてしまって、けれど遅い時間だったせいもあって周りには誰もいなくて……結局、冷子さんはそのまま溺れて亡くなってしまったんだって――それ以来、旧校舎の第二プールでは、時々遅い時間に練習している部員が、足が攣ったように動かなくなることが起こるようになったらしいの。そして、驚いて自分の足の方を見るとね、いるんだって……血の気の失せた青白い腕を、ぎゅ、と足に絡めてくる、水着姿の女の子が――真っ赤に血走った目で、絶対に逃がさない、とばかりにふやけた指先を突き立ててくるのが――」
「ちょっと、声大きいって」
わたしに『冷子さん』の話をしてくれた少女を、別の子が咎めるように睨みました。
「――詠里が、ホントに見ちゃったんだから」
囁くように言うその子の視線の先では、詠里ちゃんがさっきよりもずっと蒼白な顔をしていて、わたしには彼女が今にも倒れてしまいそうに見えました。
日も暮れかかった第二プールの、薄暗い水の中。ふいに動かなくなる足に驚き視線を向けると、かつて無念の死を遂げた少女の手が、足に絡みついている――
自分で想像したその光景に、わたしは思わず身震いしました。それを実際に見たとしたら、詠里ちゃんの恐怖、心労はいかばかりだろう、と。
「詠里ちゃん以外には誰も見ていないの?」
わたしが尋ねると、水泳部の子たちはなぜか少し気まずそうに顔を見合わせて口を噤みました。それから一人が渋々といったように答えます。
「……一年の中では、詠里以外には誰も『冷子さん』は見ないよ」
どこか断言するような口振りで、けれど妙に仄暗い響きのする声でした。
「見ないじゃなくて、見れない、でしょ。……別に見たくもないけど」
「でも、大会出られた代わりだとしたら――」
「やめなって! 聞こえるよ」
詠里ちゃんの方を見ると、彼女たちはそれっきり口を閉ざしてしまいました。だから、彼女たちの言いかけた言葉の意味はわからないまま。
その時は予鈴が鳴り、詠里ちゃん本人に話しかける暇もなかったのですが、遠目からでも詠里ちゃんは一日中ずっと具合が悪そうで。水泳部の子たちもあれやこれやと話しかけてはいたのですが、その返事も上の空というか、気もそぞろ、という感じでした。
そうして迎えた放課後、わたしが廊下を歩いていると、向こうから詠里ちゃんが一人で歩いてくるのが見えました。スカートの裾から伸びる健康的で綺麗な足は運動部らしく引き締まっているのに、その歩みはひどく頼りない様子でした。職員室からの帰りだと言う彼女と並んで歩きながら、わたしたちは少しお話をしました。
「……しばらく水泳部、休むことにしたの」
詠里ちゃんは小さな声で言いました。それは恐ろしい出来事に遭遇したばかりの彼女にとっては至極真っ当な判断のように思えました。
「そっか。次の大会までには戻れるといいね」
どんな言葉をかけるべきか考えて、わたしは結局当たり障りのない慰めを口にすることしかできませんでした。けれど、わたしのその言葉に彼女はどこか投げやりに笑って言うのです。
「それは別に大丈夫。だって私、次の大会メンバーからは外されてるから」
どこか乾いたその笑みに、わたしは一瞬何も言えませんでした。
「スランプでね、もうずっと今まで以上に練習を増やしてるのにタイムが全然伸びなくって……ていうか、朝に水泳部の子たちから『冷子さん』の話聞かなかった?」
「それは聞いたけど……」
それと詠里ちゃんの大会メンバーから外されたことの関係がわからずに、わたしは首を傾げました。そんなわたしに、詠里ちゃんはやけに淡々と続けました。
「あのね、『冷子さん』が足を引っ張るのは誰でも無差別ってわけじゃないの。『冷子さん』はね、かつての自分と同じ境遇の水泳部員が泳いでいる時にだけ現れて、足を引っ張ってくるんだって」
同じ境遇、と言われ、わたしはようやく合点しました。朝に聞いた『冷子さん』のお話では、彼女はかつて大会でも好成績を残していたのにスランプでメンバーから外されてしまった、と。つまり、この前の大会で良い結果を出していながらも、タイムが伸び悩み次の大会メンバーからは外されてしまった詠里ちゃんは、奇しくも『冷子さん』と同じ境遇ということです。
「……だから、みんな言いにくそうだったんだ」
同じクラスの水泳部の子たちが口を噤んだわけを、ようやくわたしは理解しました。
「でもさ、次の大会は出ないとしても、この先だってあるわけだし、なるべく早く戻れた方がいいよね? ――というか、『第二プールの冷子さん』っていうくらいだから、旧校舎の方にしか出ないんだよね? だったら詠里ちゃんは本校舎の第一プールで泳げばいいんじゃない?」
それで解決、と思われたわたしの言葉に、詠里ちゃんはどこか自嘲するように頬を歪めました。それは、いつも優しく面倒見の良い彼女には、あまり似つかわしくない表情のように、わたしには思えました。
「第一プールを使えるのは大会メンバーだけなの。だから、私はもうそっちは使えない。先生にも言ってみたけど、『そんな怪談話のために部内での特例は認められない』って。だから私は第二プールで泳ぐしかなくて……でも、また『冷子さん』が、って……急に足が動かなくなって……あの、水底に引き摺り込もうとするような真っ暗な目に見られるのを……氷みたいに冷たい指が足の上を這って、その爪が痛いくらいに肌に食い込むのを……想像しちゃって……」
切れ切れに、最後にはほとんど嗚咽のように言うと、詠里ちゃんは廊下にしゃがみ込んでしまいました。その肩はひどく震えていて、背中をさすりながら宥めるわたしの声も、まるで聞こえないようでした。
しばらくして水泳部の子たちが集まってきて、詠里ちゃんを支えながら帰っていきました。
けれどその中の一人が、ぼそり、と呟くのがわたしには聞こえてしまいました。
「……なんか、今までずっと第一プールにいて、第二プールに落ちてきた途端にこんな騒ぐの、ズルいよね」
嗚咽を漏らしている詠里ちゃんに、その呟きが聞こえていなければいいな、とわたしは思ったのでした。
*
「――そして詠里ちゃんはしばらく休部することとなり、その話を聞いて怖がる部員も多かったため、今日の水泳部の活動はお休みなのだそうです」
「……なるほど。だからこうして部外者が忍び込んで水遊びなんかしていられたのね」
ぱちゃり、と気のない音を立てて、白雪先輩はわたしたち以外無人のプールの水を蹴った。水着姿で、濡れた毛先をアンニュイに弄ぶ先輩はどこか艶めかしい。その艶めいた仕草で、彼女はひどく冷たい、責めるような目でわたしを見た。
「……それにしても、友達がそんな目に遭っていたというのに、あなた随分と脳天気ね」
「そうですか? ……まぁ、ここでわたしが神妙な顔をしていても意味がないですし、それならいつもと同じ楽しい怪談話の雰囲気で白雪先輩を連れ出して、謎を解いてもらう方が詠里ちゃんが部活に戻る一助にもなるかな、と」
「別にいつもあなたの怪談話を楽しそうと思ったことはないわよ」
「ええぇ⁉︎ あんなにいつもノリノリなのに⁉︎」
「都合の良い幻覚を見るのはやめなさい」
バッサリと言い捨ててから、白雪先輩はぽつりと、水面に呟きを落とす。
「……けれどまぁ、今回の話はそういうことよね」
「え? どういうことですか先輩?」
先輩に向けて身を乗り出した拍子に、ぼちゃり、と水が揺れる。ゆらゆらと蠢くその表面に映る先輩の顔が、どこか憐れむように歪んだ。
「どういうことも何も、いるわけないでしょう、『第二プールの冷子さん』なんて」
「えっ、もしかして先輩、今の話だけでもう『冷子さん』の正体がわかったのですか⁉︎」
「……『冷子さん』の正体は、ね」
「もったいぶらずに早く教えてくださいよ、先輩」
なんとなく含みを持たせた口ぶりに首を傾げつつ、わたしは先輩を急かす。
「幻覚よ。そんな土左衛門女」
「なんてバチ当たりな呼び方を⁉︎ 先輩は本当に死者に対する敬意というものが足りないです! 呪い殺されますよ!」
「いや、足を引っ張ってくるのでしょう、その女は……いつもふわっとした呪い概念で脅してくるのやめなさい」
嫌そうに身を引く先輩に、けれどわたしは納得できずに尋ねる。
「でも先輩、詠里ちゃんは確かに見たって言ってるんですよ? 痛いくらいに足を引っ張られた、って。真面目で頼り甲斐もあって、とても嘘なんて吐くタイプではないのですけれど」
「……そういうタイプだからこそ、でしょうね。彼女が存在しないものを『見た』のは。何より、真面目で嘘の吐けない彼女の証言こそが『冷子さん』なんていないと裏付けているじゃない」
「……どういうことです?」
「あなたも言っていたでしょう――放課後、廊下の向こうから歩いてくる彼女の足を『健康的で綺麗な足』だって」
「それがなんの関係が――って、あぁ!」
バカなの? とでも言いたげな先輩の声音に、わたしもようやく彼女の言わんとしていることがわかった。
「そう。彼女の足は綺麗だった。もし本当に『氷みたいに冷たい指が足の上を這って、その爪が痛いくらいに肌に食い込んだ』のであれば、その跡が残るはずなのに」
確かに先輩の言う通り、詠里ちゃんの足にはそんな跡はなかった。
「……で、でも先輩、詠里ちゃんが急に足が攣ったように動かなくなったと言っていたのは――」
「攣ったのよ。みたいじゃなく」
「そんな身も蓋もない⁉︎」
もはや推理でもなんでもない決めつけに、わたしは思わず悲鳴のような声を上げてしまう。
そんなわたしを奇怪な動物でも見るかのように一瞥すると、先輩はふん、と鼻を鳴らす。
「タイムが伸び悩んで根を詰めて練習していたのでしょう? きっと疲労が溜まっていたのね。泳いでいる最中に両足を攣り、そんな危機的状況で軽いパニックになった彼女は『冷子さん』の幻覚を見た。……大方、そんなところでしょう」
改めて説明されると白雪先輩の説は現実的には一番ありそうなラインではあって、わたしは項垂れる。
「うぅ……はい……」
「なんで不満そうなのよ……」
「わたしは怪異は怪異として在ってほしい派の怪談好きなので……」
「何その気持ちの悪い派閥は……お前が怪異よ……」
「言い過ぎですよね⁉︎」
こんな可憐な女子高生を捕まえて怪異呼ばわりなんて失礼な!
「ともかく、足に跡がない以上、実際に何かに掴まれたわけではない。そして彼女の置かれた状況を踏まえて考えると、以前から伝え聞いていた怪談が深層心理に刷り込まれ、似た状況に陥ったせいで『そういう幻覚を見た』というのが妥当でしょうね」
にべもなく、白雪先輩はこの第二プールの水底に潜む怪異を否定した。
「……怪異が怪異ではないことにはガッカリですが、それなら詠里ちゃんも少し休んで落ち着いたら部活に復帰できそうですね」
わたしの好みではなかったが、詠里ちゃんとしては怪異など本物でない方が気が楽だろう、と白雪先輩の方を見るも、先輩はなぜだか暗い瞳をぼんやりとプールの奥底へ向けている。
「先輩?」
「……そうかしら」
「え?」
覗き込んだその瞳は真っ黒で、薄く翳った空の下でゆらゆらと揺らめく水よりも、その奥が見通せない。
「……きっと、戻ってこないのではないかしら」
はたはたと、フェンスに掛けられた先輩のセーラー服が音を立てた。振り返って見ると、濡れて水分を含んだそれは、風に煽られてフェンスにへばりつくようで。
「……どうしてですか? だって『冷子さん』の正体は幻覚だとしたら、怖がる必要はないのではないですか?」
わたしの質問にすぐには答えず、白雪先輩はすっと体を起こすとプールサイドの縁に立った。深い黒を湛えた瞳が、酷薄そうに歪む。
「……あなた、彼女が恐れていたのは『冷子さん』だったと思う?」
「え? だって、『冷子さん』を見たから詠里ちゃんは休部することに……」
「違うわ」
どぽん、とわたしが止める間もなく、白雪先輩は足先から静かに水中に沈んだ。それからゆっくりと浮上する。先輩の長い髪がぶわりと黒い染みのように水面に揺蕩う。
「……先輩?」
濡れた髪をかき上げ、先輩をわたしを振り向く。形の良い唇が、ぱくりと開く。
「彼女が本当に恐れていたのは『冷子さん』ではなく、『冷子さん』を見てしまうまでに彼女を追い詰めた『何か』よ」
その瞳はわたしを見ているのに、まるで違うものを見ているようで。
もう肌もすっかり乾いているのに、温く吹く風になぜかわたしの背中はひやりとした。
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