第二話 第二プールの冷子さん(1)

白雪しらゆき先輩、プール行きましょうよ!」

「…………は?」


 夏休みは終わったものの、まだまだ夏の暑さは健在な九月。けれど、ギラギラと照りつける太陽も、この木造三階建ての旧校舎の中の薄暗さを拭い切ることはない。昼日中でも影が蟠る部屋の隅、埃っぽくて黴臭い本が並ぶ建て付けの悪い棚、気軽に手を滑らせれば木のささくれが突き刺さるような古い椅子。


 時の流れが止まったかのような三階の角部屋で、窓際の机に座り小口が日に焼けた文庫本を捲っていた少女は、わたしの呼びかけに一拍どころかニ拍ほど置いて、物憂げな顔を上げた。反応が遅すぎて無視されたかと思った。


「……プールって、どこの」

「もちろんここ、旧校舎のですよ!」


 腰まで伸びる長い黒髪、赤い紐リボンで編み込んだその一房をうっそりとかき上げながら、彼女――白雪先輩は取り付く島もなく答える。


「行かないわ」

「えぇー、なんでですか?」

「……暑いからよ」


 なんてことを、汗一つかいていない涼しい顔でのたまうのだ、この先輩は。細い首筋には先刻から日の光が当たっているのに、その肌は日焼けの気配もないくらいに真っ白。血が通っているのか時折不安になるほど透明でひやりとした横顔は、まるで雪の女王か、あるいは代謝機能が壊滅的なのか。どちらにせよ常人ではない。


 そんな白雪先輩の常人ではないところは、他にもまだある。


「先輩、普通の人は暑いからこそプールに行くと思うのですが」

「普通の人はね。でもあなたは?」

「なぜ急にわたしを異端のように扱うのですか⁉︎」


 胡乱げに細めた流し目でこちらを睨む白雪先輩。常人ではないのはわたしではなく、白雪先輩の方なのに!


「だって、あなたがプールに行くのは暑いからでも、泳ぎたいからでもないでしょう」

「ぅぐっ……」


 氷の刃を振り下ろすかのように、白雪先輩はスパッとわたしの抗議を両断する。実際、図星ではあるのでわたしの口からはそれ以上の抗議は出てこない。


「おおかた、プールにまつわる噂でも仕入れてきたのでしょう? ――例の、『旧校舎の百不思議』とやらの」

「……っく、はいぃ」


 そのものずばり言い当てられ、わたしはぐうの音も出ない。


 白雪先輩の言った『旧校舎の百不思議』とは、その名の通りこの古臭くて陰鬱な木造校舎に長い歳月をかけて堆積してきた怪奇、怪異の類の噂――いわゆる『学校の七不思議』が百個ほどに膨れ上がったものだ。先輩曰く、『まるで怪談のバーゲンセールね。趣がないったら……』とのこと。


 けれど、そんな文句を言いつつも、彼女は以前に百不思議の謎を解いてみせたことがある。そして、その類稀なる頭脳こそ、白雪先輩を常人から遠ざけている最たるものだ。


「やっぱり。嫌よ。この暑いのに外に出て、挙げ句になんの見返りもない知恵働きをさせられるなんて」

「ぅぅ……じゃ、じゃあ! 何か見返りがあればいいのですか?」

「あら」


 ひどく冷めた横顔を見せる白雪先輩だったが、わたしがやけっぱちで言ったその一言に、ふいに首を巡らせる。真正面からこちらを見つめる吊り目がちの大きな瞳は、まるで切り出したばかりの黒曜石のよう。


 その美しい表面が、どこか酷薄さを湛えて歪む。


「あなたが、私に何をくれるというの」


 薄く形のよい唇の端を吊り上げ、先輩は微笑む。それまでの深窓の令嬢然とした澄ました表情とは違い、仄かに野性的な匂いのする、捕食者のような笑みだ。


「えっと……」


 ふつり、と肌が粟立つような怖気と、目を離し難い魅力が同居するその笑みに何も言えないでいると、彼女はふ、とつまらなそうに鼻を鳴らした。


「……なんてね。別にあなたから何かもらおうだなんて思っていないわ。どうせ、ろくでもない怪談話を聞かせて、なんて言うのでしょうから」


 皮肉っぽく言う白雪先輩の顔にはいつもの冷めた表情が戻っていて、わたしは安堵すると同時に少しだけ残念な気持ちになる。それは、得体のしれないゾクゾクするような怪談の中身を、ほんの少しだけ聞かされてお預けされた気分、に似ている。


 内心の落胆を隠すように、わたしはことさら明るい声音で答えてみせた。


「はい! 先輩には今回仕入れたとっておきの怪談――『第二プールの冷子れいこさん』のお話をして差し !」

「……はぁ。もう、勝手になさい」


 白雪先輩は諦めたように吐息を一つ零すと、ぱたん、と手許の文庫本を閉じた。



   *



 わたしたちの通う高校にはプールが二つある。


 一つ目は近代的な本校舎に付随する、授業でも水泳部の活動でも使うもの。通称第一プール。


 そして二つ目が、旧校舎に付随する、あちこち古びて趣のある――言ってしまえば大分ボロい、通称第二プールだ。こちらは授業では使われず、主に水泳部の活動に使われている。


「水泳部全員で一つのプールを使うより、部員を二つのプールに分けて練習した方が効率も良いので、この第二プールも現役で使われているようですが……ただまぁ、その分け方がなんとも……」


 件の旧校舎の第二プールのプールサイドに座り、水に浸した足先をぱちゃり、と跳ね上げると、午後のうだるような日差しにキラキラと飛沫が反射した。


「なぁに、その奥歯にお昼ご飯でも挟まっているような口ぶりは」


 プールでバタ足をするわたしから少し離れた位置、プールサイドに設けられた屋根付きのベンチに座る白雪先輩は気のない様子で尋ねた。


 先輩の方を振り向き質問に答えようとしたけれど、わたしにはそれよりどうしても気になることがあった。


「……先にこっちも質問していいですか、先輩?」

「何よ」

「何よ、ではなく! なんで水着着てないんですか、白雪先輩!」


 仏頂面で日陰に座り込む先輩は、旧校舎三階のミステリ研部室にいる時と相も変わらずのセーラー服姿で。これでは一人だけ水着を着てきたわたしが馬鹿みたいではないか。


「だって別に泳ぐつもりなんてないもの」

「だとしても! ちょっとくらい水遊びしたっていいじゃないですか! 水遊びもせずにこんな暑っついプールサイドにいたら熱中症で倒れちゃいますよ!」

「じゃあ先に部室に戻っているわね。あなたも満足したら戻っていらっしゃい」

「来た意味!」


 早々に腰を上げて帰ろうとする先輩の腕を引っ張り、必死に引き留める。


「ちょっとだけ! 爪先だけでもいいですから、ちょっとだけでも一緒に水遊びしましょうよー!」

「嫌よ……ちょ、力強いのやめて……な、なんなの一体……!」


 ぐぎぎ、と柳眉を顰めて白雪先輩は抵抗する。そんなに嫌がる?


「大体、プールの怪談を聞くだけなのに、なんでわざわざ水遊びする必要があるのよ……」


 わたしの引っ張りにへっぴり腰で抗いながら、先輩はぼやく。


「それはほら、先輩と夏らしいことがしたいな、という可愛い後輩心じゃないですか。わたしの名前、小夏こなつですし。夏女ですよ!」

「それなら私は雪女よ……」

「それじゃあただの妖怪ですよー、先輩」

「……大体、あなた」


 らしくもなく子供っぽい駄々をこねる白雪先輩の視線が、す、とわたしの顔から少し下へ移動する。そこには、青みがかった黒の布地の内側からでもその存在を確かに主張する膨らみ――つまり、わたしの胸だった。


「恥ずかしくないの、人前で、み、水着になるだなんて……」

「……あー、なるほど。つまり、先輩は水着が恥ずかしい、と」

「そ、そんなこと言っていないわ……ただ、あなたは恥ずかしくないの、と聞いただけで……」

「うーん、確かに、わたしは人よりも多少胸が大きいので、やたらと注目されることもありますが」

「……多少?」


 知らない外国語を聞いたかのように、白雪先輩は胡乱な目でわたしの胸元を見つめる。いや、まぁ、それなりには?


「ですが! いくらわたしの胸が大きく、衆目の目に晒されやすくとも! それで嫌な気持ちになることはあれど! それでもわたしは自分の体になんら恥じることはありません!」


 胸を張って答えると、先輩は珍しく気圧されたようにぱちぱちと瞬きをする。


「そ、そう……?」

「はい! なぜならわたしがこんなに健康体に育ったのは両親から注がれてきた惜しみない愛と、おいしいご飯のおかげですから! その証左であるこの体で、わたしは胸を張って生きていく所存です!」

「そ、そう……それはとても良いことなのだけれど、あの、あまり胸を張ってこちらに寄ってこないでちょうだい……なんか怖いのよ……」

「怖いって……何がですか?」

「胸よ、あなたの。なんでそんなに大きいの……」

「好奇の視線も嫌ですが怖がられるのも遺憾なのですけれど⁉︎」


 自分の肩を守るように抱きながら後ずさる白雪先輩。


 先輩のすらっとした長い手足、柳のようにしなやかな体躯は美しく、わたしには羨ましいくらいなのだけれど、今それを言うと何か含みがある気がするのでなんとなく黙っておく。


 セーラー服のリボンタイの辺りに手を当てながら、白雪先輩はぶつぶつと呟く。


「……同じ部位なのに、私にはないものがあるなんて……そこらの怪談よりよっぽどわけがわからなくて怖いわ」

「なんでわたしの胸を怪談と並べるのですか⁉︎ ほら先輩、全然怖くないですよ!」

「ちょ、嫌よ、近づかないでちょうだい……!」

「本気で嫌がられると傷つくのですけれど!」

「ひっ、揺れてるわ……! 生きてる……!」

「今遠回しにわたしに死ねって言いました⁉︎」


 わたしが両腕を広げて近づくと、先輩は端正な顔を恐怖に歪めてプールサイドを逃げ回る。


 燦々と照りつける日差しの下、プールサイドを濡れた足裏でぺちぺちと駆け回っていると、


「――ひゃっ」

「先輩⁉︎」


 濡れたプールサイドで滑った白雪先輩の体が、手を伸ばす間もなく、べしゃん、と背中から水に落ちた。水を吸って濃く重く沈んでいく紺色のプリーツスカート。ゆらゆらと、海藻のように揺れるその動きを眺めていると、やがて、ざぼっ! と水面を割って恨めしげな白雪先輩の顔が現れた。長い黒髪がぶわり、と広がって、何やら水棲の怪異のようにも見える。


「……お前」


 首から上を水面に浮かべ、じっとりと湿った重低音を響かせる白雪先輩。お、お前⁉


「も、もしかしてわたしが悪いのですか……⁉」

「……当たり前でしょう。私のことを追いかけ回して、楽しんでいたでしょう」

「そんなことはっ―――――ない、です、よ?」

「お手本のように言い淀んでいるじゃない」


 まったく、とぶちぶち文句を垂れながら、先輩はざばり、と腕を伸ばしてプールサイドに掴まる。水面から出た上半身には、白いセーラー服が濡れて張り付き、その下からは白い肌が透け――


「あれ、先輩、制服の下……」

「あっ」


 ぺたり、と張り付いたセーラー服の下からは、青みがかった黒の布地が透けていて。慌ててどぷん、と首から下までを水に沈めた先輩だったけれど、わたしはしっかり見てしまっていた。


「……あの、先輩」

「…………何よ」


 不機嫌そうなしかめっ面をする白雪先輩。けれど、その頬は仄かに赤く。


「……セーラー服の下に水着を着ている方が恥ずかしくないですか?」

「う、うるさいわね!」

「というか、透けててえっちです」

「〰〰っ、馬鹿なこと言ってないでさっさと引き上げなさい!」


 ばしゃばしゃと両手で水をかけてくる先輩の顔は、頬だけでなく耳まで赤く色づいていた。



   *



 結局、セーラー服を脱いで水着姿になった白雪先輩とわたしは、ぱちゃぱちゃと水を掛け合ったりして遊んだ。その字面だけ見れば何やら爽やかで可愛らしい夏の風景だが、まぁまぁ本気の殺意を水に込めてくる白雪先輩のせいで、やたらと殺伐とした時間ではあった。まぁ楽しかったからいっか。


 プールから上がると、そのまま足だけを水に浸した格好で、白雪先輩は濡れた髪を掌で押して絞る。ぱたぱたと水滴がプールサイドに落ちて、けれど午後の日差しがすぐにそれを乾かしていく。


 真っ白い光は、濡れたプールサイドに、雫が伝う白雪先輩の細い二の腕に、隔てなく降り注ぎ、キラキラと砕けてはわたしの目を焼く。


「――それで? 『第二プールの冷子さん』とやらのお話の続きは?」


 濡髪を指で梳りながら、白雪先輩は微かな倦怠の滲んだ声で尋ねた。


「そうですね。……どこまで話しましたっけ?」

「まだ前置きの途中よ。水泳部は本校舎の第一プールと、こちらの第二プールにそれぞれ部員を振り分けているのだとか」

「そうでした、そうでした。まぁ、『第二プールの冷子さん』という名の通り、この怪談には本校舎の方の第一プールは関係ないのですけれど」

「じゃあ前置きは丸々無駄だったじゃないの……さっさと本編を話しなさい」

「はーい。――では、これは同じクラスの水泳部の友人から聞いた話なのですけれど」


 プールから上がり、白雪先輩の隣に座り込みながら、わたしは今回の怪談を知ることになった経緯を振り返る。


 さわり、と温い風が水に濡れた肌を撫で、プールを囲むフェンスに引っ掛けられた先輩の濡れたセーラー服を、はたはたと揺らす。


 気づけば、太陽に掛かった雲がわたしたちの上に薄暗い影を落としていた。

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