第一話 旧校舎の白雪先輩(2・完)

 霊が出る、という時間まではまだ間があり、わたしたちはその教室でしばらく時間を潰すことにした。とは言っても先輩は手近な席に座り文庫本を読み出してしまったので、わたしはめちゃめちゃ暇を持て余していたが。


 そうしてようやく六時を過ぎ、「……もう少しかしら」と言う先輩にやきもきしながらさらに待つことしばらく。


 七時を目前に、日も暮れて空も赤らんだ頃、ようやく先輩は本を閉じて腰を上げる。


「じゃあ、あなたはこの教室にいてちょうだい。しばらく――そうね、五分くらいベランダに背を向けて待っていてもらえるかしら。五分が過ぎたら振り向いてもいいわ」

「は、はい……」


 そう言い置いて先輩はさっさと教室を出て行ってしまった。再現って、いったい何をどうするというのだろう?


 説明も何もないまま置いていかれ、少しの心許なさを抱えながらも、わたしは言われた通りベランダに背を向けて五分待った。


 一人でじっと待っている時間はひどく長く思えたが、スマホの時刻を見て確かに五分が経過したことを確認する。


「せんぱーい? 五分経ったので、振り向きますよー……?」


 その場にいない先輩になんとなく断りを入れてからベランダの方を振り向いたわたしは、心臓が止まるかと思った。


 そこには、真っ黒い髪を振り乱し、白いセーラー服をべっとりと朱に染めて立つ女生徒が立っていた。


 ベランダへと続く扉は変わらずに厳重に閉ざされている。それなのに、ベランダに現れたこの人影は、どう考えても――


「ひっ……せ、せんぱ――」


 引き攣った喉から悲鳴が飛び出ようとした瞬間、その女生徒の霊は勢いよく髪をかきあげた。すると――


「あれ⁉︎ せ、先輩⁉︎」


 投身自殺した女生徒の霊だと思われた彼女は、他ならぬ白雪先輩だった。


 彼女は呆然とするわたしの前で乱れた髪を手で梳き、ポケットから赤い紐リボンを取り出して手早く顔の横で編み込む。そして、ベランダの端へと向かうと、あろうことかベランダの縁をよじ登り、隣の教室のベランダに飛び移った。


「えぇ……⁉︎」


 わたしが言葉もなく立ち尽くしていると、しばらくして教室の扉が開き、白雪先輩が戻ってくる。


「どう? 再現してみたけれど」


 涼しげな顔でそう言い放つ先輩に、わたしは恐る恐る尋ねる。


「じゃ、じゃあ、実際に女生徒の霊を見た、っていう話は……」

「ええ。十中八九、その目撃者にこの話を教えた人物の悪戯でしょうね。目撃者にここへ来るように仕向け、自分が霊に扮することで怖がらせてやろうとしたのでしょう」


 お行儀悪く机の上に腰掛けながら、先輩は言う。


「この教室のベランダの扉は閉ざされている。けれど、隣の教室はそうではない。だから作り話だとわかっていれば至極簡単なタネよ」

「まさか、隣のベランダから乗り移ってきた、だなんて……」


 なんのことはない。開かずのベランダに出るためにはこの教室から出る必要はなく、隣の普通に開くベランダから伝ってきただけのことだったのだ。


「白いセーラー服が血に染まっていたように見えたのも、夕暮れの時刻を狙って現れたからでしょう。このベランダは西向きだから」

「はぁ……言われてみれば拍子抜けでがっかりですね……」


 話を聞いた時には心躍った怪談話も、裏がわかれば興醒めだ。ほとり、とため息を吐くと、白雪先輩はなぜか愉快そうに唇を歪めてわたしを見る。


「でもあなた、さっきは私の姿を見てとっても怖がっていたみたいだったけれど?」


 とん、と机から降りると、先輩はにやー、と人の悪い笑みを浮かべてわたしの顔を覗き込む。さらりと艶のある黒髪が揺れ、その隙間から覗く紐リボンの赤は、まるで獣が舌なめずりをするかのようで。


「そ、それはだって、なんの説明もなくあんなの見せられたら、びっくりしますよ……!」


 力なく抗議するも、先輩は追及の手を緩めない。


「ふーん? それに、あの時あなた、何か言おうとしていたわね? 窓越しだったから声は聞こえなかったけれど、唇の動きからして『先輩』って私のことを呼ぼうと――」

「あーもー! この話はもう終わりです! 先輩はホントに意地悪なんですから!」


 これ以上揶揄われては堪らないと、わたしは大声で先輩を遮った。熱を持った頬には、未だに白雪先輩の悪戯っぽい視線を感じる。


「……そうね、このくらいにしておきましょうか。恐ろしい目に遭った時、あなたが助けを求めるのはその意地悪な先輩なのだとわかったことだし」

「〜〜っ、白雪先輩!」

「はいはい。それじゃあ、もういい時間だし、今日は帰りましょう」


 わたしからすい、と体を離すと、白雪先輩は教室を出て行く。


 日も暮れて、薄暗い廊下を歩くその背中は目を離した隙に闇に溶けて消えてしまいそうで。


「……先輩。また一緒に『百不思議』の謎を探求しましょうね」

「えぇ……どうせまた作り話よ?」

「それでも、いいです」


 振り向きもせずに気のない返事をする先輩の背中に、わたしは投げかけるように言う。


「わたし、先輩とこうして謎を解き明かすの、好きですから」

「……あっそう」


 短い返事。けれど、その素っ気ない声はどこか照れ隠しのようでもあり。


「……また別の怪談を仕入れてきたら、聞いてあげないこともないわ」


 そう答える白雪先輩の背中に、わたしは勢いをつけて追いつく。


「やっぱり、先輩は素直じゃないのですね!」



   *



 夕暮れの旧校舎から、部活終わりの生徒たちが吐き出されてくる。授業には使われていないが、今でもいくつかの部活によって使われているのだ。


 そのうちの一人が、ふいに上を見上げた。

 視線の先は、三階の一番端の窓。


「どうしたの?」

「いえ、今誰かあそこの窓に見えた気がして」


 その言葉に、上級生らしき生徒が顔を歪める。


「……ねぇ、見ない方がいいよ」

「どうしてですか?」

「知らないの? 旧校舎の百不思議の一つ、『三階角部屋のシラユキさん』」

「シラユキさん?」

「そう。今はもう使われてないあの部屋。あそこにはシラユキさんっていう女子生徒が現れるんだって。彼女と目を合わせてしまうとね――」



   *



「白雪先輩! 今日もまた怪談を仕入れてきましたよ!」


 旧校舎の三階角部屋、その扉を開けると、窓辺で外を見下ろしていた少女がゆっくりと振り向く。


「また来たの……あなたも懲りないわね」


 迷惑そうな口ぶりだけれど、彼女の顔はどこか嬉しそうにも見える。


「それで、今日はどんなお話なの?」


 真っ黒い髪を揺らし、彼女は問いかける。黒曜石のような切れ長の瞳は、わたしをひたと見据える。愛おしそうに、――そして、どこか焦がれるように。


「今日はですね――」



   *



「――シラユキさんと目を合わせた人は、シラユキさんに『捧げ物』を持っていかなくちゃいけないの」

「捧げ物、ですか?」

「うん。食べ物とか、手に取れる物でもいいし、あるいは何かの情報みたいな手に取れないものでもいいの。重要なのは、最初に捧げた物と同じ種類のものを持っていかなくちゃダメってこと。例えば、最初に噂話を捧げたなら、ずっと噂話を捧げ続けないとダメ」

「……それじゃあ、捧げるものが無くなっちゃったらどうなるんですか?」

「それはね――」



   *



「結局、今日の『百不思議』もガセでしたねー」

「そうね。まったく、人間というのはよくもまぁこんな作り話を思いつくものだわ」

「それを言うなら先輩だってよく見破れるものですよ!」


 夕暮れに染まった旧校舎の廊下を、今日も先輩と並んで歩く。


「ねえ、先輩」

「なぁに」

「こうして『百不思議』の謎を解明していって、もし全部の謎を解いたとしたら……その中に本当の『不思議』はあるのでしょうか?」

「……そうね」


 わたしの問いかけに、白雪先輩はふ、と唇を綻ばせた。


 それは、薄暗い廊下でやけに蠱惑的に見える。


「あなたが全部の『百不思議』を私の元へ持ってくれば、きっとわかるわ」



   *



「――『捧げ物』がなくなってしまったら、最後にはね」

「……最後には」

「自分自身を捧げなくてはいけないの」

「…………それって」

「だから、あの部屋は見ない方が、近づかない方がいいわ。さもないと、シラユキさんに魅入られてしまうから」



   *



「ねぇ、白雪先輩」

「なぁに」


 わたしが呼びかけると、彼女は細い首を巡らせてこちらを見る。


「わたし、白雪先輩と出会えてよかったです!」


 わたしの言葉に、その目が驚いたように見開く。


「……どうして」

「だって、こんな子どもじみた謎解きごっこに付き合ってくれるのなんて、先輩だけですから! だから、先輩はわたしにとって特別なのですよ」

「……そう」


 小さく呟くと、先輩はふい、と顔を逸らした。雪のように真っ白な細い首筋、そこから視線を上に移すと、いつもは同じくらいに白い耳たぶがほんのりと赤く染まって。


「あー! 先輩、もしかして照れてます⁉︎」

「……そんなわけないでしょう」

「またまた! 先輩は本当に素直じゃないのですから!」


 迷惑そうに言う白雪先輩の肩を小突こうとしたわたしは、ふらり、とよろけた。そのまま転んで木の床に勢いよく手を擦ってしまう。


「ちょっと、大丈夫?」

「はい。でもなんか急に貧血っぽい?」

「……手、血が出てるわよ」

「あ、ホントだ……でもこのくらい唾でも付けとけば――って先輩⁉︎」


 ふいに、先輩はしゃがみ込んだかと思うと、わたしの手を引き寄せた。


 ぐ、と存外に強い力に驚いているうちに、先輩はわたしの手の傷に唇を寄せた。彼女の薄い唇を割って、赤い舌がわたしの掌を這う。


「――っ」


 掌に感じるしっとりと湿った温かさと、鈍い痛みに、わたしは小さく声を漏らした。


「……っ、小さい怪我でも気をつけなさい」


 わたしの声にハッと我に返ったように、先輩は顔を離すと慌てて体を起こした。


「……白雪先輩?」


 ちろり、と唇を舐める彼女の舌の動きは、なんだかそれ自体が別の意思を持って動く生き物のようで。


 わたしは、この美しく、不思議な先輩のことを何も知らないのだ、と薄暗い穴に落ちてゆくような気持ちに襲われた。



   *



「――というか、なんで『シラユキさん』って言うんですか?」

「あのね、昔この学校で失血死した女生徒がいたらしいのね。それでその死体は血の気が失せて、雪のように真っ白だった、って」

「あぁ、だから……」

「そう。だからシラユキさんに魅入られた人が最後に捧げる物はね――」

「…………」

「自分の血なんだって」



   *



「……どうしたの、さっきからじっと見て」

「いえ、わたし、白雪先輩のことをもっと知りたいなって思って」

「……何よ、それ。知ってどうするのよ」

「別に、ただ知りたいのですよ。だって――」


 いつも迷惑そうで、とても頭が良くて、たまに悪戯っぽい。そしてふいに見せる不穏な闇もあって。


 けれど、彼女はいつだって、文句を言いつつもわたしのことを受け入れてくれるから。


「わたし、白雪先輩のことが好きですから」

「……そう」


 彼女の頬、新雪のような肌がほんのりと朱に色づく。顔を背け、先輩はぼそり、と呟いた。





「――それなら、なおさら知られたくないわね」





「えー! 先輩ってば本当に天邪鬼ですね!」


 頬を指先で突くと、彼女は鬱陶しそうに押し除ける。


「だったら私に構わなければいいじゃない」

「嫌ですー! これからも構いますー!」

「……もう、勝手にしなさい」


 放課後の旧校舎、先輩の呆れ声とわたしの騒々しい声が、年季の入った木の壁に柔らかに反響して消えていった。

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