11 ダンツィヒ

1939年の夏が終わりに差し掛かり、ベルリンの空は不穏な雰囲気に包まれていた。私は、これから訪れる大きな変化の予感に胸をざわつかせながら、過去数ヶ月の出来事を思い返していた。ドイツ国民にとって、ダンツィヒとポーランド回廊の問題は長年の鬱積した不満の象徴であり、それをヒトラーがどのように扱うかは、国家の行方を左右する重要な課題だった。


ダンツィヒ、あの自由都市は、かつてドイツ領でありながら、第一次世界大戦後に敗戦の結果として我々から奪われた。その喪失感は、我々ドイツ人にとって耐えがたい屈辱であり、ヒトラーにとっては国家の再興を果たすための正当な大義名分となっていた。ヒトラーは、この問題を解決するための強硬策を心に決めており、私たち国防軍もそれに備えることを余儀なくされていた。


1939年初頭、ヒトラーは密かにポーランド問題を軍事力で解決する準備を整えるよう命令を下した。国防軍の指導者たちは、その命令に従い、迅速かつ緻密にポーランド侵攻計画を練り上げていった。私はその計画の一端を担いながら、ドイツの未来を見据えていた。4月3日までには、すべての準備が整い、あとはヒトラーの決断を待つだけとなった。

ヒトラーは、ポーランドがドイツの要求に譲歩するものと考えていた。彼はダンツィヒのドイツ系住民の「解放」を掲げ、その名の下にダンツィヒの編入とポーランド回廊の通過権を求める要求を次々と突きつけていった。私は、その動きを側近として見守りながら、ポーランド政府の反応を注視していた。

しかし、ポーランドは我々の要求を拒否した。それは、ヒトラーが予期していたよりも固い拒絶だった。この時点で、ポーランド政府はすでに英国とフランスからの軍事援助の保証を取り付けており、その後ろ盾を信じて、自らの立場を守ろうとしていたのだ。1939年3月30日、イギリスとフランスはポーランドに対して軍事援助を約束し、その国境線を守るための防波堤を築いたのだ。


私は、ヒトラーがこの状況をどう乗り越えるつもりなのか、不安と期待の入り混じった気持ちで彼の決断を待っていた。ヒトラーは、イギリスとフランスがポーランドとの戦争に介入しないようにできると確信しており、その楽観的な見通しに基づいて行動していた。彼は、この戦争がドイツにとって有利に展開することを疑わず、1934年に締結されたドイツ・ポーランド不可侵条約や1935年のロンドン海軍軍縮条約を破棄することで、さらなる圧力をかける決断を下した。


その一方で、ポーランドは独自の計算をしていた。彼らは、1938年のミュンヘン協定でドイツが得た利益に対抗する形で、チェコスロバキアの一部を自国に併合することで、自らも利益を得ようとしていた。この小さな都市、チェスキー・チェシンは、かつてポーランドとチェコスロバキアが争っていた場所であり、その領有権がようやくポーランドの手に渡ったのだ。ポーランドは、この地域を中心に経済を発展させることで、ドイツとの戦争に備えていたのである。


それでも、私はドイツが優位に立つことを信じていた。ヒトラーの自信に満ちた姿勢が、私たちにとっての精神的な支えとなっていたのだ。しかし、状況は複雑化していた。イギリスの外交政策は、鞭と飴の両方を使い分け、ヒトラーを懐柔しようとしていた。彼らは、ダンツィヒとポーランド回廊の割譲をドイツに認める代わりに、ポーランドの他の領土を保障しようと考えていた。しかし、この案はポーランド外相ユゼフ・ベックによって拒否され、事態は一層緊迫化していった。


1939年8月23日、歴史的な出来事が起こった。ドイツとソ連が不可侵条約を締結したのだ。この独ソ不可侵条約は、ヒトラーにとってポーランド侵攻を行う上での大きな後ろ盾となった。さらに、この条約には秘密議定書が含まれており、ドイツとソ連はポーランドを分割して占領することに合意していた。

この条約によって、ヒトラーはソ連がドイツのポーランド侵攻に反対しないことを確実にし、東方の安全を確保したのだ。これにより、ヒトラーはポーランドに対する軍事行動を一気に進めることが可能となった。私はその計画が現実のものとなる日が近いことを確信した。


8月26日、我々はポーランドに対する攻撃を開始する準備を整えていたが、その直前にイギリスがポーランドの独立を正式に保障したというニュースが飛び込んできた。ヒトラーはその報を受け、予定していた奇襲攻撃を延期せざるを得なくなった。彼は、一時的に攻撃開始を9月1日まで延期することを決断した。

ヒトラーはこの間、イギリスとフランスを相手に交渉を続け、ポーランドとの軍事衝突に介入させないように努めた。彼は、ポーランドを占領すれば、それを交渉材料に使って有利な条件を引き出せると考えていたのだ。この計算は、彼にとっては確信に近いものであり、私たちもまたその計算に基づいて行動していた。


8月29日、ヒトラーはポーランドに対し、ポーランド回廊の割譲を要求する最後通牒を突きつけた。しかし、ポーランド政府はその要求に対する明確な回答を避け、時間を稼ごうとしていた。私は、この展開に苛立ちを覚えたが、同時にポーランド側の慎重さを理解していた。彼らは、ドイツが何を狙っているのかを理解しており、それに対抗する策を練っていたのだ。

その結果、ポーランドは最後通牒の回答期限を過ぎてしまい、ドイツはこれをもって交渉の打ち切りを宣言した。私は、この時点で戦争は避けられないものとなったことを悟った。


8月30日、ポーランド海軍は駆逐艦艦隊をイギリスに向けて出航させた。これは、ドイツ海軍に対する防御策であり、バルト海での壊滅を避けるための手段だった。ポーランドのエドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥は、すでにポーランド軍の「戦時動員」を布告し、国全体が戦争に備えていた。


そして、1939年8月31日、ヒトラーは戦争開始の命令を下した。私は、その命令が国防軍の全ての部隊に伝えられる様子を目の当たりにし、いよいよ運命の時が来たことを実感した。ポーランド軍はまだ完全な動員ができておらず、その準備不足が我々にとっての好機となることは明らかだった。彼らが守備位置に着く前に、我々は一気に攻撃を仕掛ける準備を整えていた。


翌朝、4時45分。ドイツ軍はポーランドに対する攻撃を開始した。私はその瞬間、歴史が再び大きく動いたことを感じた。これまでの外交的駆け引きや秘密裏の交渉が、すべてこの一瞬に集約されたのだ。私は、ヒトラーの指導の下で、ドイツが再び栄光を取り戻す瞬間を目撃することを確信していた。


しかし、その裏側では、世界は再び戦争の渦に巻き込まれようとしていた。私は、その現実を冷静に受け止めながらも、自らの役割を果たすことに集中していた。これからの戦いがどのように展開し、どのような結果をもたらすのかは、私たちの手にかかっている。私は、ドイツの未来のために、そして我々の使命を全うするために、決意を新たにしたのだった。

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