7 OKWの設立

1939年8月23日、私はヒトラー総統の命により、新たに結成されたドイツ国防軍最高司令部(OKW)の作戦参謀長に選ばれた。その日、冷ややかな風が街を吹き抜け、遠くから聞こえる教会の鐘が静寂を破るかのように響いていた。私はその音を耳にしながら、自らの責務の重さを感じ取った。

ヒトラーが自ら全軍を指揮する意志を表明し、ドイツ国防軍最高司令部を設立したのは、ちょうど1年半前のことであった。国防軍の最高指揮権を完全に掌握するため、ブロンベルク国防大臣とフリッチュ陸軍総司令官の失脚という劇的な変革が行われた。ブロンベルク罷免事件、あれは一つのスキャンダルに過ぎなかったが、その影響は計り知れないものであった。ヒトラーは軍上層部の抵抗を排除し、自らが戦争の舵を握る決意を固めたのだ。

しかし、現実はそう単純なものではない。私が就任したこの役職、作戦参謀長としての地位には、大きな課題が伴っていた。ドイツ国防軍最高司令部(OKW)は、形式上は国防軍の最高機関とされていたが、実際には陸軍総司令部(OKH)、空軍総司令部(OKL)、海軍総司令部(OKM)を指揮する権限を持たなかった。これらの総司令部は、それぞれの分野で独自の指揮系統を持ち、ヒトラーの信頼を受けた指揮官たちがその任に当たっていた。

この矛盾を解消しなければならないという責務が、私の胸に重くのしかかっていた。戦争が差し迫る中、我々が直面しているのは、一体化した指揮系統の欠如による混乱であった。ヒトラーの決断と私の役割は、その混乱を乗り越え、全軍を一つにまとめ上げることにあった。

ヒトラーが1938年2月4日に「以後は自身が直接国防三軍を指揮する」と宣言したその時から、彼の意図は明白であった。軍事指揮権を握り、彼の強引な外交政策を遂行するために必要な権力を集中させること。それは、彼のビジョンを実現するための唯一の手段であった。しかし、国防軍最高司令部は、あくまでヒトラーの指示を受けるだけの存在であり、実際の指揮権は限られていた。

私は、自分の役割が単なる形式的なもので終わらせるわけにはいかないと感じていた。ヒトラーの信頼を得るためには、国防軍最高司令部を真に機能する機関にする必要があった。私の心には一つの確信があった。ドイツが勝利を収めるためには、陸軍、空軍、海軍の指揮系統を一元化し、迅速かつ的確な意思決定ができるようにすることが不可欠である、と。

そのために、私はまず、各軍種の司令官たちとの関係を強化し、彼らの協力を得ることを目指した。形式的な権限ではなく、実質的な影響力を持つことこそが重要であった。ヒトラーの政策を遂行するためには、彼らの支持を得ることが不可欠であり、私はそのための策を練り始めた。

一方で、私自身もヒトラーの期待に応えるために、自らの役割を超えて働かなければならなかった。ヒトラーは、私が単なる作戦参謀長としての職務に留まらず、彼の右腕として、全軍を統括する役割を果たすことを望んでいたのだ。その期待に応えるためには、私は戦略的な視点から物事を捉え、ヒトラーのビジョンを現実のものとするための具体的な計画を立案しなければならなかった。

1939年、ドイツは新たな局面を迎えようとしていた。ヒトラーの指導のもと、我々はこれまでにない大規模な戦争に突入する準備を進めていた。私の任務は、その戦争を勝利へと導くための作戦を立案し、全軍を統一して指揮することであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る