5 アンシュルス

ヨーロッパの情勢は私たちに有利に進展していた。1935年の英独海軍協定が結ばれたことで、イギリスの首相、チェンバレンはヒトラーとの宥和政策を採用し、ドイツの再軍備を黙認した。さらに、イタリアはエチオピア侵攻により国際的に孤立する中、ドイツと協調するベルリン・ローマ枢軸路線を選択した。これにより、イタリアはオーストリア問題から手を引きつつあったため、ドイツは外交的に優位な立場を確立し、有利な条件を得ることができた。


1936年7月11日、独墺協定が締結されたことは、表面上はオーストリアの独立を尊重するものであったが、実際にはオーストリア・ナチスの政治参加を容認するものであった。この協定が結ばれた時、私はドイツの戦略的な利点を深く理解し、国際的な情勢を巧妙に利用することの重要性を再認識した。シュシュニック首相の対応も、私たちの計画にとっては重要な要素となった。

1938年2月12日にベルヒテスガーデンで行われたヒトラーとシュシュニックの会談では、ヒトラーの要求が到底受け入れられるものではなかったため、シュシュニックがどのように対処するかが注目された。シュシュニックは内心で私たちの要求を受け入れざるを得ない状況に追い込まれていたが、彼が奥の手として用意していた秘策――国民投票――は、ヒトラーを激怒させた。オーストリア国民が「ドイツとの合併」か「自主独立」かを選択することで、ヒトラーの要求を正面から拒絶しようとするものであった。だが、ドイツ側による様々な圧力に反感を抱く国民の間で、「自主独立」の選択が確実視されていた。


ヒトラーの決断は迅速であった。3月10日にはオーストリア制圧作戦『オットー』が発動され、ドイツ軍は翌日からオーストリアへと越境を開始。実力で占領を開始した。この時のドイツ軍の進軍は、各地で熱狂的な歓迎を受け、私たちの計画は順調に進行した。シュシュニックは国民投票を中止し総辞職を余儀なくされ、ザイス=インクヴァルトが首相となったことにより、私たちの戦略は一層強固なものとなった。

3月13日、ウィーンでヒトラーの前に立つザイス=インクヴァルトは、オーストリアを新たなドイツの州とする法案に署名した。

4月10日、ヒトラーとザイス=インクヴァルトは独墺両国で合邦の是非を問う「国民投票」を行い、99%の合邦賛成票を集めた。これにより、オーストリアはドイツに併合されてオーストリア州となり、ザイス=インクヴァルトはオストマルク州総督に就任した。


この瞬間、オーストリアは正式にドイツに併合され、私たちの目標が達成された。この歴史的な出来事は、私たちの国が新たな時代へと進むための重要な一歩であった。

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