幕間 遠い思い出とねぼすけさん

 私の部屋の台所に、私以外の誰かが立っている。

 一人になってからはもう二度と見ることはないのだろうと思っていた光景を、私は今この瞬間、確かに目にしていた。

 肩に毛先がそっと触れる焦茶色の髪と、強い意志を感じる髪と同じ色をした綺麗な瞳が、まだ幼さの残る横顔から伺える。それが私より大体一三、四センチくらい小さな背丈と合わさると、心強さのほかにかわいらしさも混ざってくる。

 そこにいるのが未だに信じられなくて、目を擦ったら消えてしまう幻のようにも思えてしまうけれど。そこにいるのは間違いなく、私が知っている晴宮陽花だった。

 台所に向かうその立ち姿は、最近まで中学生だったとはとても思えないくらいに馴染んでいる。学生だと知らない状態で、誰かのお母さんだと言われれば、きっと納得してしまうだろうと思う。

 晴宮の家庭事情はよく知らないけれど、幼いころから両親に気を遣って、なんとか負担にならないようにしていたのかもしれない。子供ながらに料理や掃除、洗濯などの家事を覚えて、少しでも家庭に貢献しようとしていたのかもしれない。

 字面だけで見ると微笑ましいようにも思えるけれど、私にはそれが、どこか歪なものに思えてならなかった。

 

 ――どうして、私を引き取ってくれたの?

 

 そんなことを思いながらその横顔を見つめていると、頭の奥で小さな声が響く。今よりいくらか高くて幼いけれど、私のそれによく似た、風が吹きこんできたらかき消えてしまいそうな声だった。

 それとともに、晴宮の立ち姿に重なるようにして、いつかの日に見た同じような光景のイメージが重なってくる。最初はおぼろげだったけれど、それは徐々に輪郭を得ていって、頭の奥深くに眠らせていた記憶を掘り返すように私の眼前に掲げてくる。

 あれは確か、中学一年くらいの時。

 もう遠い昔のように思えてしまうけれど、一緒に暮らし始めて一年くらい経った頃に、母方の叔母さんにそんなことを聞いたことがある。今の晴宮と同じように、叔母さんが台所に立っている最中だった。

 お父さんとお母さんが遺した私を、親戚の皆が押し付け合う中で唯一引き取ってくれたのがその叔母さんだったのだけど。当時の私は今と同じくらい……いや、それ以上に落ち込んでいたかもしれないくらいには暗かった。きっと話しかけづらかったと思うし、一人暮らしをしていた中で急に家族が増えて、苦労もたくさんかけてしまったと思う。

 それでも、叔母さんはそんな私にも明るく接してくれて。それが何故なのかが本当に分からなかった。

「そんなの決まってるじゃない。あたしも姉さんや義兄にいさんと同じように、夏夢ちゃんが大好きだからよ。」

「私が、好き?」

「ええ、そうよ。人懐っこくて、笑顔が可愛くて、周りの皆の手を掴んで、一緒にどこまでも走っていっちゃいそうな活力に溢れてて。覚えてないかもしれないけど、あたしも時々元気をもらってたりしてたんだから」

「……でも、今はそうじゃない。いつまでたっても沈んでいて、情けないままで」

「それは仕方のないことよ。親の死なんて、そう簡単に踏ん切りをつけられるものじゃない。あたしだってまだ引きずっているもの。それに、あなたが雨ヶ谷夏夢ちゃんで、あたしのかわいい姪っ子なことは変わらない。そうでしょ?」

「それは、そうかもしれないけど」

「納得できてない、って顔してるわね。よしわかった、ならお姉さんが一つ、いいことを教えてあげよう」

「いいこと……?」

「そう。いい?夏夢ちゃん。世の中にはね、誰も頼んでないのに勝手に手を差し伸べてくる、世話好きで物好きな人たちがいるのよ」

「そう、なの?」

「ええ。それでね、あたし、夏夢ちゃんの前ではどうもそうなっちゃうみたいで。夏夢ちゃんが夏夢ちゃんでいるってだけでなんでもしてあげたくなるし、おはようからおやすみまでお世話してあげたくなるのよ。どう思う?」

「え。えーっと……個性的、かな……?」

「もっと噛み砕いて、正直に。常識をブレイクスルーするのよ!」

「ぶ、ぶれ……?あ、えっと……めちゃくちゃ、ってこと?」

「そうでしょう?だから、夏夢ちゃんだって気を遣わなくていいの。めちゃくちゃな人に気を遣うのって疲れるでしょ?」

「……なんだか、すごく言わされた気がするんだけど……。というかそれ、自分で言っていいの……?」

「当たり前よ、あたしはあたしなんだから。だから夏夢ちゃんだって、夏夢ちゃんのままでいていいの。少なくとも、あたしの前ではね」

「……なにそれ、おかしい」

 そうやって話しているうちに、いつの間にか口調も砕けてきて。それから二人で小さく笑い合ったのをよく覚えている。

 今思っても暴論だと思うけど、その暴論に私自身が救われてしまっているのだから、その時も今も、別にそれでもいいかと思えた。

 けれど、それからもう一年くらい経った頃に、叔母さんも事故で亡くなって。

 そこから先は、もうよく覚えていない。唯一覚えていることは、叔母さんのお葬式でのこと。

 参列していた母方のお祖母ちゃんに、やっぱりお前は忌み子だったとか、呪いだとか、三人が死んだのはお前のせいだとか。そうまくし立てるように言われたことだけ。

 当然身に覚えは全くなかったけれど、そうなのかもしれないとはっきり思ってしまったあたり、私はもうその頃から壊れていたのかもしれない。

 そうして気づいたら、ここに一人で住むことになっていた。

 お金だけは入ってくるけどそれ以外には何もない、ほとんど寝るためだけの場所に。

「……あ」

 そんな昔のことを思い出していると、頭痛に襲われることは無かったけれど、その代わりにとでも言うように、涙が一筋頬を伝っていった。

 ……駄目だな。晴宮がいる前では泣かないって決めていたのに。

「どうかしましたか?」

 思わず漏れてきていた私の声が聞こえていたようで、晴宮がこちらを向く。あぁ、まずい。なんとか誤魔化さなきゃ。

「お粥、できたら晴宮に食べさせてもらおうと思ってたのに。忘れてた」

 咄嗟に出てきた言葉に、ちょっとした願望が混じる。私は今の今まで風邪を引いたことがなかったから経験したことはないけれど、もしも風邪を引いていたら、あの人たちはきっとそういうことをしてくれたと思うから。

 だけど今の私は、その願いを持ってはいけない。そうでないと、晴宮を自分のお母さんのように思っているということになってしまうから。

 晴宮は優しくて、私の大切な人だけど、だからといって、私にとっての「親」の枠に押し込んでいいわけがない。仮にそうなれることをあの子が望んでいたとしても、それは晴宮の負担を倍増させる行為だと思う。

 私が求めているのは晴宮自身であって、両親と叔母さんがくれていたような温かさや明るさじゃない。そこを混ぜこぜにしてしまえば、それこそ完全に依存してしまう。それだけは嫌だった。

 晴宮とは親子のような関係でなく、出来るかぎり友達として在りたいから。

 勉強以外はまるで何もできない、出会ってからずっと甘えてばっかりの私が言っても、説得力がないかもしれないけれど。

「……そうですか」

 私の台詞を受けた晴宮が呆れたような声で言って、前に向き直る。それでいい、そっちの方がよっぽどいいと、心の底からそう思った。

 晴宮から視線を離し、自分の膝を抱えて、そこに顔をうずめて目を閉じる。

 台所からは、まだ水を流している音が聞こえてきていて。

 またひとりでに瞼の奥が潤んでくるような。そんな気がした。

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雨のち晴れ、ところにより雪 はくまい @deathso

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