第4話 決意の夜と後輩さん
あと一時間もすれば日にちが変わる、街灯と月明かりだけが照らす静かな住宅街。普通なら高校生がいたら補導されてしまいそうな夜の中を、わたしは一人で歩いていた。
言わずもがな、こんな時間に外に出たことはない。最も、徒歩圏内にある夜でも遊べるところなんて公園くらいしかなく、夜遊びをするような友達もいないのだから、出かけたところでそれほど意味はないのだけど。
「……ほんとに、静かだな」
口をつくように言葉が漏れる。耳に届くのは遠くで鳴いている虫の声くらいで、車のエンジン音も人の声もない。このあたりは駅前にあたるから、わたしの住んでいるところと比べればまだ栄えている方だとは思う。でも、それはきっと都会から見れば亀とスッポンを比べているようなもので、大きな違いは特にないんだろうと思った。
なんとなく気が沈みそうな心持ちを抱えながら、手元のスマホで立ち上がっているマップアプリを見る。青い線で塗られた道を、わたしの現在位置と向いている方角を示す矢印のアイコンがなぞっていって、目的地に近づいていることを示している。それを見つめていると、きゅっと身体の芯が締まるような感覚がした。
誰かの自宅にお邪魔するのが初めてなわけではないけれど、確か最後は小学生の頃だったように思う。自分から言い出したこととはいえ、慣れないことには変わりない。改めて、あの時の自分がどれだけ考えなしに口走っていたのかを自覚した。無理を言って家を出てきたものだから、きっと両親も心配しているだろう。
――とはいえ、わたしの本音には違いないのだけど。
軽く深呼吸をしながら足を動かすことに集中していると、やがてマップアプリが示す目的地に到着した。
けれど、そこにあったのは私の思い描いていた、家族で暮らせるようなファミリータイプのマンションではなく、一人暮らし向けに作られたのであろうワンルームのアパートだった。
「え、ここ……?」
その建物を前にして、思わず考えたことをそのまま口走ってしまう。
リフォームされているのか外装は綺麗で、街灯にも照らされてはいるけれど、建物自体の灯りが弱いからか薄暗く、どこか陰鬱とした印象を受ける。その雰囲気が普段の雨ヶ谷先輩のそれとは似ても似つかなくて、事実だとは分かっていても、こんなところにあの人が住んでいるとはとてもではないけれど思えなかった。
念のためにとスマホで建物の名前を検索してみる。部屋の例として挙げられているものの間取りを見てみるけれど、わたしが思った通り、そこにあったのは廊下付きのよくあるワンルームのそれだった。当然ながら、仮に先輩がひとりっ子だったとしても家族で暮らせるようなところではない。まあやろうと思えばできないことはないだろうけど、少なくとも一般的に「お偉いさん」と呼ばれる人が住んでいる場所ではないように思う。
そんなことを考えていると、胸の中に鉛のような不安がわだかまって落ち着かない。
いつもの振る舞いからして、あの人が今更私に何か嘘をつくとは思えないけれど。何かとても大切なことが、まだ隠されているような気がした。
意識して息を吸いこみ、ゆっくりと吐く。階段を上がって、事前に教えてもらった部屋番号が書かれたドアの前に立つ。表札を見ると「雨ヶ谷」と書かれていて、どうやら本当に住んでいるようだった。かなり珍しい苗字だと思うし、苗字が同じだけの別人という可能性は薄いだろう。
尻込みしそうになる自分を頬を叩いて追い出して、ドアのすぐ横にあるインターホンを押す。しばらく待つと、きい。という立て付けが悪そうな音と共にドアが開く。それと共に、見慣れない――制服姿しか見たことがないのだから当然だけど――服装をした雨ヶ谷先輩が姿を現した。薄い青を基調とした長袖長ズボンのパジャマを身につけているけれど、胸元のボタンが留められておらず、少しだけ目のやり場に困ってしまう。
「……あ、晴宮。早かったね」
電話でも聞いた少し掠れたような声で、雨ヶ谷先輩が言う。
風邪を引いているからだろうけど、顔がいつもより赤く、浮かべている笑顔が弱々しくなっていて、どこか苦しげにも思える。当たり前のことなのだろうけど、心臓の裏側にちくりと針を刺されるような感覚がした。
「こんな夜遅くにすみません。具合はいかがですか?」
「今朝よりかはマシになってると思うけど、まだちょっと熱っぽいかも。あと、すっごいお腹空いてて気持ち悪い」
「……まぁ、でしょうね」
それはそうだろう。起きてから何も食べてないんだから。
思わずため息をついてしまいそうになるけれど、すんでのところで抑える。今日はあくまで先輩を甘やかしに来たのだから、こんなところで呆れてなんていられない。
「上がってもいいですか?」
「あ、うん。いいよ。置いてあるものは好きに使ってくれていいから。……といっても、ほとんどなにもないんだけど」
「大丈夫です。一応、うちからも最低限のものは持ってきましたから」
雨ヶ谷先輩がドアを開けて通してくれたので、それに倣って中に入る。両手に一つずつ持ってある、調理器具が入った鞄と買ってきた食材が入ったレジ袋は、とりあえず入ってすぐ右手にあった台所に立てかけておく。
壁についてあるフックにはフライパンが一つぶら下がっていたけれど、一度も使ったことのない新品のように綺麗だった。
既に先に行った先輩に続いて奥に向かうと、廊下からも少しだけ見えていた部屋の全貌が見えてくる。
けれど、それもこの建物と同じように、わたしが想像していたようなものではなくて。
「……ここ、本当に先輩の部屋ですか……?」
思っていたことが、そのまま口をついて出てくる。わたしの目の前にあるのは、個性というものがほとんど何も感じられない部屋だった。シングルベッドに小さな机、教科書や参考書を納めてある本棚と、学生として最低限生活に必要なものは一通り揃っているけれど、それ以外はほぼ何もない。あるものといえば、本棚の上に置いてある小さな写真立てくらいだった。
それほど広くはない部屋のはずなのに、空いているスペースの方か多い気さえする。普段の雨ヶ谷先輩の振る舞いを鑑みてみればもっと自分の趣味で溢れていそうなものなのに、この部屋はなんだか、軽い独房のようにすら思えた。
「びっくりした?そうだよ、ここが私の家。……家っていうか、もうほとんど寝るためだけの場所になってるんだけど」
そこが定位置なのか、ベッドを背もたれにして床に座る雨ヶ谷先輩が呟く。声音は普段と同じように明るかったけれど、その表情は焼砂のように乾ききっていた。
いつも感情がそのまま形を得たような、明るい表情を浮かべている人と同一人物とはとても思えない。ガワだけを被った別人だとすら思えてしまって、少しは理解できていたはずだった雨ヶ谷先輩が、わたしの知らない遠くへ離れていくような感覚がした。
先輩は嘘をつくような――つけるような人じゃない。なんて、心の中で無意味に叫ぶわたしがいる。けれど、それは結局屋上で見ていた雨ヶ谷先輩でしかなく、そうであるとわたしが勝手に決めつけていただけなのかもしれなかった。
「前から思ってたけど、晴宮、結構思ってることとか表情に出るタイプだよね」
「え?」
「今、すごい不安そうな顔してたから。もしかして、私の風邪移った?」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、そこには冗談めかしたような小さな笑顔があった。先ほどの表情よりかは明るく、柔らかくなっているような気はするけれど、目の奥が笑っていなかった。
「……すみません、そういうわけでは」
「なんで晴宮が謝るの。大丈夫、そう思うのが当たり前なんだから」
「それは……」
違う、とは言えなかった。だってそれは、気遣いとはいえ嘘になってしまうから。
先輩自身のことや家族のことについて、嘘をつかれていたかもしれないことにショックを受けているわたしが、雨ヶ谷先輩に嘘をつくわけにはいかない。それは明らかに、道理に合わないから。
――けれど、わたしはその代わりに一体何を言えばいい?
本来ならいつもの通り、わたしの本音をそのままぶつけるべきなのだろうと思う。けれど、今の雨ヶ谷先輩は、わたしが知っているような人ではないのだから、何を言っていいかなんて分からない。何が今のわたしの本音なのかすらも分からない。自分の発する言葉全てが、嘘になってしまいそうな気さえする。こんなぐちゃぐちゃの心で、何を言えというのだろう。
あんな大口を叩いて、自分の過去まで晒してここまで来たっていうのに。
こんなんじゃ、まるっきり口だけじゃないか。
「とりあえず座って。ずっと立ってちゃ辛いでしょ」
「……ありがとうございます」
雨ヶ谷先輩が、自分の隣の床を手で軽く叩く。それに引き寄せられるように、わたしはそこへと近づいていく。
普段のわたしならきっと『なんでわざわざ風邪引いてる人の隣に座らなくちゃいけないんですか』なんて言っているのだと思う。けれど、そんなことを言う余裕なんて、今のわたしにはなかった。
「よし。これで、いつもの屋上とおんなじだ」
わたしが座ってすぐ、雨ヶ谷先輩が安心したように呟く。果たして今のわたしに、その席はあるんだろうか。
「そう、ですかね」
「そうだよ。もう誰も来ないところで、こうやって二人並んで座る。どこにも違いなんて無いでしょ」
そのあまりにさらりとした雨ヶ谷先輩の言葉で、ここに来る前に感じていた鉛のような不安が的中したのを悟った。それもきっと、考えうる限り最悪のパターンとして。
「やっぱり、ここにはもう誰も帰って来ないんですね」
「……うん。親戚はいるけど、わたしをはっきり娘だと言ってくれる人はもう誰もいない。みんな私を置いて、先にいなくなっちゃった」
話したくなかったのか、そう言い終わるのと同時に大きく咳込んだ。咳が何度か続いた後に呼吸を整えているその表情は苦しげで、あまり見たいものではなかった。
「話したくなかったら、別に話さなくてもいいですよ」
「……ううん、大丈夫。だからね、ほんとは何をしてでも断らなきゃいけなかったんだ。晴宮は優しいから、それを知られたら間違いなく嫌な顔をさせちゃうだろうし、気を遣っていつも通りに接してくれなくなる。それが何よりも怖かったから」
――それでも結局、こうして呼んじゃったんだけどね。
小さな声で付け加えられたその言葉は、ほんの少し震えていた。それにつられるように隣を見ると、その表情は凪いでいる。涙の一滴も浮かんでおらず、先程の乾きすらもう感じられない。まるで、もう悲しむのに疲れてしまったとでも言うように。
どくん。と、心臓が音を立てて大きく高鳴った。
――なにしてんだよ、わたし。
無意識のうちに俯いて、ぐっと歯を食いしばっていた。何かを言葉にしたい。けれど、きっと今のわたしが何を言おうが気休めか嘘にしかならない。残酷だけど、自分より境遇の重い人にかける言葉とは、得てしてそうなってしまうものだから。
――なら、何も言わなくていい。言わなくていいから、せめて体を動かせ。
心の中のわたしが、ぐいぐいと手足を引っ張ってくる。それでも、その場に蹲るわたしの体は動くことなくその場に居続ける。いくじなしのわたしを、上から俯瞰しているようだった。
――いいから、動け。
引っ張られる力が、どんどん強くなる。
身体の底から響くうるさいくらいの叫び声に、耳を塞いでしまいそうだった。
――動け。
やがて、わたしの意思に逆らうように、左腕が持ち上がる。
その手はほとんどひとりでに、わたしの頬に添えられて。
――うごけ……っ!
その手がすうっと距離をとったかと思うと、その直後に急に詰めてきて。
――パァンッ!
わたしの頬を、思いっきり引っぱたいた。
耳のそばで、ハリセンで叩かれたような破裂音が響く。衝撃が強すぎて、それが自分で自分をビンタした音だと気づくのに少しだけ時間がかかった。
「え。な、なに。どうしたの急に」
おどおどした声が聞こえて隣を見ると、そこにはひどく驚いた表情をした先輩がいた。勿論、そこに浮かんでいるのはいつものような笑顔ではない。むしろドン引かれているような気さえする。
だけど、その表情はもう乾いても、凪いでもいない。確かな感情がそこには浮かんでいる。
求めているものとは違うけれど、今はこれでいいと思う。少なくともさっきまでよりは「いつも通り」に近づいていると思えたから。
「いえ、何でもありません。蚊がいたものですから」
妙にすっきりとした気分で、考える前に言葉を口走る。心の中のわたしが、現実のわたしに変わって話しているようだった。
「ハチでも叩き潰せそうな勢いだったけど……」
珍しく……いや、多分出会ってから初めて、雨ヶ谷先輩がツッコミに回っている。
その状況が新鮮だったのか、先輩のツッコミのセンスが独特だったのかは分からないけれど、なんだか笑いが込み上げてくる。状況が状況だし時間も遅いから、流石に声には出さないようにするけれど。
「心配しないでください。大丈夫ですから」
「いや普通に心配するんだけど。ほんとにどうしたの?」
先程のものとは打って変わって、本気で心配していそうな表情をしている。それにしても、風邪をひいている人に逆に心配をされてしまうとは思わなかった。
「しないでいいです。というか、いつもの雨ヶ谷先輩だって大体こんなのですよ」
「え、晴宮から見た普段の私ってそうなの?」
「ええ、まぁ。それほど変わらないと思います。というか自覚なかったんですね。そっちのほうが驚きです」
「えぇ……」
雨ヶ谷先輩は俯いて、『そうかな……そうかも……』なんて小さな声で呟いていた。
「って、そんなことはどうでもいいんですよ。今はそれより、雨ヶ谷先輩」
「――あ、うん。なに?」
「何か食べたいもの、教えて下さい。今ある食材で作れるものであれば作りますから」
小さく深呼吸を挟んで、こちらを見ている雨ヶ谷の瞳をじっと見つめながら言う。
嘘も気休めも言わなくたっていい。ただ動く。それがわたしのやりたいことで、やらなければいけないことだから。
「凄いタイミング……。まぁいいけど、そうだなぁ……じゃあ、卵粥が食べたいかも。多分今、ちゃんとしたご飯食べたらもどしちゃうと思うから。でも大丈夫?うち、お米ないけど」
「大丈夫ですよ。こんな時もあろうかと、パックご飯を買ってありますから。安心して待っていてください」
「……そっか、ありがと」
小さく笑いながら呟く雨ヶ谷先輩を横目に立ち上がって、台所へと足を運ぶ。置いてある袋からパックご飯と卵と小葱に、小さな容器に纏めておいた調味料を、器具が入った鞄から一人用の小さな土鍋を取り出して調理を開始する。
やがて鍋から漂ってくる卵と白だしの優しい香りが、わたしまで包み込んでくれるような。そんな気がした。
◇
「できましたよ、先輩」
お粥が入った土鍋と水が注がれたコップをお盆にのせて、机まで持っていく。これくらいは慣れたものだからそれほど時間は経っていないはずだけど、雨ヶ谷先輩は座ったまま船を漕いでいた。相変わらずだなと思うとともに、いつもの先輩が戻りつつあるのを感じた。
ご飯を食べる前に寝てしまうのは、やっぱりよく分からないけれど。
お盆をそっと机に置いて、息遣いに呼応して小さく上下する肩を軽く揺らす。すると、その瞼が少しだけ開いて、それと一緒に大きな欠伸を漏らした。
「ふぁ……あふ。ありがと……」
先程までとは違うふわふわとした声で言う。その声音はわずかに見える潤んだ瞳と少し赤くなった頬が合わさって、より子供っぽいように感じられた。
「はい。あ、食後にはこの薬を飲んでくださいね。以前わたしが風邪を引いた時に使ったものですけど、結構効くので」
「んー……」
家を出る直前にポケットに入れておいた、包装されている白い錠剤を机に置くと、分かったのか分かっていないのかよく分からないような声が先輩の口から漏れてきた。
「先輩、起きてますか?」
「だいじょーぶだよ。おきてるから……」
絶対に起きていない。わたしの言葉に受け答えはできているようだけど、確実に意識は覚醒していないと思う。というか、なんでこの十数分の間にこんな寝ぼけられるくらいに熟睡できるのだろう。
そんなことを考えながら少しの間待っていると、雨ヶ谷先輩が背もたれにしているベッドからゆっくりと身体を起こした。かと思うと、次は腕を動かして土鍋の蓋を開け、スプーンで掬って口に運んだ。なんというか、無駄にすごい。一体どういう技術なのだろう。
「……あぁ、うん。すごくおいしい」
眠たげなその表情に、柔らかな笑顔が混じる。それを見ているとそこから眠気が伝播してくるようで、わたしの身体からも力が抜けていく。このままでいると、わたしまでここで眠ってしまいそうだ。
しかし――というか別に残念でもないけれどそうはならず、ゆっくりと口に運んでいくうちに意識が覚醒してきたのか、薄い瞼がすうっと開いていく。その光景はどこか、いつも少し寝ぼけながら朝ご飯を食べているうちのお父さんを彷彿とさせた。
そう思うと、なんだか微笑ましい心持ちになるものだった。
「ごちそうさま。美味しかったよ、晴宮」
錠剤を水で流し込んでから先輩が言う。瞼は先程よりかは開いているけれど、そこから見える瞳は相変わらず眠たげで、薄く涙が浮かんでいた。
「はい、お粗末様でした。お鍋とコップ、洗ってきますね」
「うん、ありがと」
空になった土鍋とコップが乗ったお盆をそのまま持ち上げて、シンクまで運んでいく。先輩の元まで運んだ時よりいくらか軽くなったそれに、密やかな満足感を覚えた。
「……あ」
洗剤をつけたスポンジで土鍋を洗っていると、何かに気づいたような声が部屋の方から聞こえてくる。
「どうかしましたか?」
「お粥、できたら晴宮に食べさせてもらおうと思ってたのに。忘れてた」
「……そうですか」
できればそれは言葉に出さず、ずっと忘れていてほしかった。でも、甘やかすということはつまり、そういうこともしなければいけないのだろうか。そうだとするなら、なんてこっ恥ずかしいことを言ってしまったのだろうと思う。
わたしと雨ヶ谷先輩は、そういうのでは決してない。だってきっと、わたしたちはまだ友達ですらないのだから。
洗い終えた食器をシンクの下の扉にかかっているタオルで軽く吹いて、コップは元々あったシンクの上の棚に、土鍋と蓋は調理器具を入れてきた鞄に戻す。
最後に手を拭いて雨ヶ谷先輩の隣に戻ると、ぼそりと呟くような声が聞こえてきた。
「……晴宮」
「はい?」
「今日はありがとうね。今度は、ちゃんとお礼するから」
「別にいいですよ、そんなの。わたしが反対を押し切って、ここに押しかけただけなんですから」
「それは違う。この家で誰かとこんなに喋ったの、初めてなんだから」
その声は先程わたしにお粥を食べさせてもらおうとしていたそれとは違って、どこか沈んでいるように思う。わたしから見たら珍しい、というか今日初めて聞いたのだけど、きっと先輩が一人でいるときはこれが普通なのだろうと思う。
屋上でのキャラが強すぎて分からなくなっていたけれど、当然ながらそこで見せていたものが雨ヶ谷先輩の全てであるとは限らない。過去に何があったのかは知らないけれど、親を亡くして、引き取ってくれる親戚もいなくて。こんなほとんど何もないようなところに一人で暮らしていたら、暗くなるのは当たり前だ。……むしろ、なんでわたしの前ではあんなに明るく振舞えていたのだろう。
――いや、というか待て。
この人、普段はどういう生活をしているんだ。台所を見る限りろくな調理道具もないし、お米すらないなんて。
想像でしかないけれど、台所の横にある冷蔵庫にも食べ物はあまり入っていないと思う。多分、というか確実に、健康な食生活は送っていないだろう。
だったら、もういっそわたしが――。
「でしたら先輩。一つ、頼みたいことがあります」
「うん、いいよ。なに?」
「でもその前に、二つ聞かせてください。まず、いつも何を食べて過ごしているか教えてくれますか?」
「え。あー……うん。まぁ、適当に……?」
「はぐらかさないでください。そんなくらいなら先輩でも覚えているでしょう」
「そりゃ覚えてるけどさ……。えっと、朝は食パンで、昼は大体総菜パンで済ませて。夜は……」
「夜は?」
「……ごめん、ほとんど食べてない。夜は食欲が湧かなくて」
一瞬、言葉を失ってしまう。それは風邪も引くはずだ。免疫のめの字も生まれなさそうな食生活をしている。思わずため息が出そうになるけれど、先輩の境遇を鑑みると仕方のないことなのかもしれない。
食欲不振の原因の一つとして強いストレスが挙げられるのは、いつかの保健体育かなにかで教わったことがある。今日の雨ヶ谷先輩を見る限り、きっとまだ自分の過去を乗り越えられていないのだと思うし、それが大きなストレッサーになっている可能性は大いにあるだろう。
そう思うと、怒るに怒れない。雨ヶ谷先輩が恐れているのはこういうことなのだろうけど、そんな簡単に無かったことにできるようなものでもなかった。
「大丈夫です。別に謝ってほしかったわけではありませんから」
「……そっか」
俯く雨ヶ谷先輩の横顔に、寂しげな憂いが宿る。屋上で浮かべる表情を知っているだけに、直接針で刺されたように心が痛んだ。
わたしまで同じ表情を浮かべてしまいそうになるけれど、平常を装って口を動かし続ける。
「はい。では二つ目です。生活費はどこから捻出していますか?誰かからの援助があるのなら、それは大体いくらくらいですか?」
「えっと……確か、ひと月五万円。親戚の人たちが協力して出してくれてるんだ。まあ、多分手切れ金みたいなものなんだろうし、ほとんど使ってないんだけど」
一学生が貰っているとは思えないその額の大きさに一瞬驚きそうになるけれど、ぐっと抑える。金額自体は大きいけれど、両親がいない子供のストレスを考えればそれでも安いくらいだと思う。そもそも、金額に換算できるものでは絶対にないのだけど。
「そうですか。なら、その五万円のうち二万円をわたしに預けてください。それで食材を買って、わたしが先輩のご飯を作りますから」
「え……?」
「え、じゃありません。雨ヶ谷先輩のお金を使って、先輩へのご飯を作るだけです。別に大したことではないでしょう?」
「そりゃ、私にとってはそうかもしれないけど」
雨ヶ谷先輩が困ったように言いよどむ。その次の言葉が続けられる前に、また口を開いた。
「わたしの心配ならしなくても大丈夫ですよ。今更作る量が一人分増えたところで、ほとんどなにも変わりませんから」
それだけは、揺るぎのない事実だ。わたしがお金を出すのならいざ知らず、料理を作るだけなら簡単にできる。
労力だけで言えば、学校で雨ヶ谷先輩を起こすためにわざわざ屋上へ足を運ぶのとそう変わらない。要するに、遠慮なんてしないでほしい。ということだ。
「……でも私、春宮になんにも返せないよ。料理なんて作れないし、手伝いも多分出来ないし」
「いや知ってますし。お返しなんて別にいりませんよ、わたしが勝手にやろうとしてることなんですから。まぁ強いて言えば、それで健康な食生活を送ってくれれば。とは思いますけど」
どんな人であれ、わたしの手の届く範囲にいる人にはなるべくずっと元気でいてほしいし、それを何かしらの手段で支援できるのなら、協力は惜しまない。というより、惜しみたくない。
そう思うのは別に、特別なことではないと思う。誰だって、近くにいる人の元気がなくなるところなんて見たくはないと思うから。
――晴宮さぁ。ほんとに、そういうとこ……。
そんなことを考えていると、わたし以外の誰にも聞こえなさそうな呟く小さな声が聞こえてきた。
「……なんですか。言いたいことがあるのなら言えばいいでしょう」
「ううん、そういうわけじゃなくて。ただ、将来晴宮をお嫁にもらえる人は、きっとすごく幸せ者なんだろうなって」
「な……っ!」
驚いた拍子に唾が気管に入って、激しくむせる。ほんとにこの人は、どうしてそういう歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく言えるんだ。
「……なんなんですか突然。やめてくれませんかそういうの」
「あは、顔赤くなってる。あんなことも平気な顔して言えるのにすごい純情なところ、ほんとにずるいよね」
「知りませんよそんなの……はぁ、もういいです。それで、いいんですか、駄目なんですか」
「ああ言われたらもう断れないよ。というか晴宮なら、私が断ったって押し切って来るでしょ。今みたいに」
「人をわからずやみたいに言わないでください」
……まあ、否定はできませんけど。
わたしが小さな声でそう付け加えると、雨ヶ谷先輩が小さく笑顔を浮かべる。心が見えるわけではないけれど、それは取り繕っていない、本当の先輩であるように思えた。
つられるように、わたしも笑ってしまう。かくしてわたしの日常にまた一つ、やらなければいけないことが増えたのだった。
時計を見ると、もうとっくに日が変わっている。この部屋の中も、窓の外も、まるでわたしたち以外には誰もいないように思えた。
◇
「あぁ……心配だ……大丈夫かな……」
「なにいまさら狼狽えてるの。大丈夫よ、知り合いを助けに行きたいだけだって言ってたじゃない」
「いやでも、僕たちの世代にだって親に嘘ついて、夜な夜な恋人と会ってた子がいたろう?夜道だって危ないし、もし何かあったら……」
「そうだとしたら、なにをしてでもそこへ行きたいということよ。それだけ大事な人なんでしょう。きっと」
「でも……」
「でもじゃないわ。それに、仮に嘘をついていたとしても、私たちにそれを怪しんだり、責めたりする権利はないんじゃないの」
「それは、そうかもしれないけれど」
「でしょう。だから、私たちにできることは信じることだけよ。あの子のすることに、今更口を出すことはできないわ」
「きみは、心配じゃないのかい?」
「……そんなの、決まってるじゃない。すごく心配よ。大事な娘だもの。でもそれ以上に、陽花の好きなようにさせてあげたい。今の今までずっと、気を遣わせていたんだから」
「あぁ、うん。それは本当にそうだ。一体誰に似たんだろうね。僕もきみも、それなりに思春期していたはずなのに」
「どちらにも似てないわよ。あの子なりに、私たちのことを考えた結果だもの」
「……そっか、情けないものだね。親としては」
「私もそう思うわ。だからせめて、信じて待ちましょう。不甲斐なくても、あの子の親なんだから」
「そうだね。……信じようか、あの子を」
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